松本雄貴のブログ

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73回目「悪い種子」(マーヴィン・ルロイ監督)

1956年公開の映画。まず原作の小説があり、次いでブロードウェーで舞台化され、最後に映画化された。その後、別の監督でリメイクされている。知ったような書き方だが、全部ウィキペディアで調べた情報である。原作小説は読んでいないし、舞台はもちろん観ていない。先日、適当にテレビをザッピングしていたらBSプレミアムでやっていた。正直、夜も遅いので見るつもりはなかったのだが、ダラダラと最後まで見てしまった。

無論、自分をテレビの前に留まらせたのは映画の力である。兎に角、主役の子供の演技が目を見張る。

ローダという名の小学生の女子が主人公。

映画は、どこにでもある家庭の朝の団欒から始まる。ピアノを弾いたり父母に元気よく挨拶したり、最初は活発で少しませた所のある子供という感じでしかないのだが、それも束の間。話が進むうちに、父母たちに向って発せられるローダの言葉の量が、異常なくらい多いことに気付く。ちょっと口が達者な子供というレベルをはるかに超えた異常さを感じる。この時点で、自分の心は映画に掴まれた。しかし、最初の内は子供から発せられる言葉の量が異常に多くても、内容自体は子供らしいと笑っていられる可愛いものだ。それが、ローダの同級生が死んだというニュースがラジオで流れた辺りから、ローダの言葉から子供らしい可愛さが消え、同時に薄気味悪さが芽生える。

同級生の死とは、ローダが同級生を殺害した事を意味する。この映画はミステリーではい。ローダが犯人であることは明白に分かる。動機は「書き方のメダルが欲しかったから」というもの。小学校の授業の一つである「書き方」にローダは自信を持っていた。メダルを貰えるのは当然、自分だと思っていた。しかし、書き方のメダルを貰ったのは同級生の男の子であった。ローダはその事に納得できない。だから同級生を殺害しメダルを自分のモノにしたのである。

小学生がクラスメートを殺害するという事件がそもそも異常なのだが、『悪い種子』という映画はそこの異常さには殆ど焦点を充てていない。事件が発覚しそうになった時、冒頭から一切テンションの変わらない饒舌で周りの大人たちを煙に巻く、その言葉のエネルギーの異常さ。そしてそのエネルギーの発生源が可憐な見た目の女の子という異常さ。要するに『悪い種子』は異常な映画なのだ。この異常さは意志の強さと直結する。ローダは「欲しいものは何が何でも絶対に手に入れる」「世界は自分が中心に回っている」という確固たる信念を持っている。一点の曇りもない。もしローダが大人なら、単に自己中心的で嫌な奴という印象しか持たないが、子供であるという所に妙な逞しさと清々しさを感じる。そして、純度百パーセントの悪がある。自分が悪であることに無自覚な悪である。この悪は、数ある悪のなかで最も厄介である。その悪に「過剰な言葉」を装填させ、大人を攻撃するのである。こんな悪魔を演じた子役は、すごい才能である。子役には、撮影後にカウンセリングが必要ではないかと要らぬ心配をしたが、何十年も昔の映画であることを忘れていた。ローダを演じたパティ・マコーマックは現在76歳。『悪い種子』出演後も沢山の映画に出演しているし、どうやら今でも現役らしい。

 

余談だが、自分はどうも子供の演技というのが嫌いであった。歌舞伎に出てくる子役を見るとイラっとする。子供のくせに演技しているのが、鼻に付くのである。子供の演技でも見ていられるのは、演技をしていない(しているのかもしれないが)風の自然体の子供と、「子供であること」が映画の宿命になっている子供。この2種類の子供の演技は見ていられる。

前者はアッバス・キアロスタミなどの映画に出てくる子供。後者は「霧の中の風景」や「シティ・オブ・ゴッド」などの子供が典型例である。だから「ストレートな子供の演技」で感銘を受けた子供は『悪い種子』が初めてである。

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