松本雄貴のブログ

本。映画。演劇。旅。

63回目「エイリアン」(リドリー・スコット監督)

『エイリアン』は、自分にとって特別な映画だ。自分の意志で見た初めての映画が『エイリアン』なのだ。中学1年生の時、近所のTUTAYAで会員証を作った。親の扶養に入っている健康保険証を持参し、受付カウンターで複写式になっている専用の用紙に氏名や住所を記入し、無事に会員証を作り終えた。何だか大人の世界に少し近づいた気がして嬉しかった。その初めて作った会員証で最初に借りたのが、『エイリアン』だった。何故、数ある映画の中から『エイリアン』を選んだのか。それには、少し恥ずかしい理由がある。

実はその数年前、つまり小学生の頃に一度だけ友達の家で『エイリアン』を見ている。最初から通しで見たわけではなく、エイリアンが登場するシーンをダイジェストで見た。当然、細かいストーリーなどは何も覚えてないし、多分、理解もしていなかった。ラスト近くの、シガニー・ウィーバー扮するリプリーが服を脱ぎ、お尻が半分見える少しエッチなシーンだけを鮮明に覚えていた。その日の夜は、なんだか見てはいけないものを見たような気がして悶々としていた。中学生になって、もう一度そのシーンを見たいと思ったから『エイリアン』を真っ先に借りたのだ。つまり、自分にとって最初の「性の目覚め」は『エイリアン』なのだった。

小学生とか中学生にとって、『エイリアン』は危険だ。人が映画を見る動機は様々だが、「知らない世界を覗きたい」という欲求が根底にあると思う。或いは、仕事とか学校といった現実での生活に疲れた時に、非現実なファンタジー求める気持ちもあるだろう。至福を求める気持ちの裏には罪悪感と背徳感が伴う。中学生の時に見た『エイリアン』が、あれだけ見ている最中にドキドキしたのは、宇宙船の中という現実の世界では体験できない設定、小学生の時に初めて触れたエッチなシーンの確認、乗組員が徐々にエイリアンに襲われていく恐怖など、まさに、人が映画に求める「危険な感じ」が全て詰まっていたからだ。大人の世界に憧れるけど、不良になるには真面目だった中学生の自分にとって、『エイリアン』を見ることは禁忌に触れることと同じだった。「よくない事」をしている時に感じる後ろめたさと恍惚を同時に味わっていたのだ。

そんなこんなで、『エイリアン』は自分にとって特別な映画なのだ。その『エイリアン』をつい先日、久しぶりに再見した。さすがにもう大人だし、『エイリアン』なんかよりずっと危険な映画も観ているし、『エイリアン』が自分にとって特別な映画であることに変わりはないが、当時のように興奮することはなく冷静に観た。リプリーの半ケツも、別にどうってことはない。まぁ、当然だ。

冷静に観ると、細かい部分に至るまで『エイリアン』的な世界観が行き届いており、映画としての完成度が高くて面白かった。『エイリアン』が今でもSF映画の金字塔とされるのも頷ける。乗組員の中にアンドロイドが一体紛れ込んでおり人間を監視しているという設定も、現代のSF映画ではよく見る設定だが、当時としてはかなり斬新だったのではないだろうか。そして、このアンドロイドがとても気持ち悪い。アンドロイドなのだから、中身は電気配線や機械が埋め込まれたメカニックな感じかと思いきや、白い気持ちの悪いドロドロした体液みたいなものを口から吐いて、生々しい生物的な気持ち悪さがある。この気持ち悪さは、主役のエイリアンのフォルムとはまた違った気持ち悪さがあった。アンドロイドの性格も嫌な性格だ。人間とアンドロイドの共存をテーマにした作品は、だいたい、人間の方が性格的に悪く、「心」の芽生え出したアンドロイドに対して非人間的な仕打ちをすることが多いが、『エイリアン』に登場するアンドロイドは逆で、このアンドロイドは最後の皮肉めいた台詞も含めて、嫌な奴だった。そういったところも面白かった。

最初にエイリアンに取りつかれた男の腹から、小さいエイリアンが出てくるシーンも、ものすごく気持ち悪かった。ゴキブリが一匹出ただけで慌てふためく自分には、とても耐えられない。あの場にいたら発狂すると思う。猫の演技もよかった。なんとも言えない表情が、上手かった。最後に優秀な女性と猫が助かるというのも、お約束みたいなものだが、良かった。

てか、こんな気持ち悪い映画を見てリビドーを感じた小学生の自分が少し怖い・・・。