松本雄貴のブログ

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51回目「アメリ」(ジャン=ピエール・ジュネ監督)

アメリ』は、当たり前だが「アメリ」という名前の女性が主役の映画だ。

アメリ』は公開当時、一大ブームになったらしい。詳しくは知らないのだが、アメリのファッションを真似したり、生活スタイルを真似したり、劇中でアメリが食べるクレームブリュレが流行ったり、いわゆる「アメリ現象」なるものが日本でも20代から30代の女性を中心に巻き起こったらしい。

公開当時、自分は高校生だった。この「アメリ現象」が、自分の周りでも起こっていたのかは、覚えていない。リアルタイムでも観たが、「お洒落な映画だな」と高校生ながら思っただけで、内容は殆ど忘却していた。今回、約20年ぶりに再見したわけだが、この映画が当時ブームになったというのは何となく分かる気がした。それも、老若男女問わず広く浅く流行るのではなく、ある一定の層に深く支持される類の映画だろうと思った。その一定の層に受けるポイントを上手く押さえている映画だと思ったのだ。最初から戦略的にその層に受けるように撮ったのか、偶然受けたのかは不明だが、結果的にブームになったのだから強かですごい映画なのだと思う。

「一定の層」とはどういう層か。「インテリ」とか「ブルジョア」といったものに憧れを抱いている人達、もっと平たく言えば「アート風」とか「映画通」を気取りたい人達だ。『アメリ』はそのような人達に受ける映画だと思う。こういう事を言えば嫌味に聞こえるかもしれないが、別にこのような層に属する人達を否定しているわけではない。自分自身も映画通を気取りたい人間だし、インテリと思われたい人間だし、マニアックな映画の知識を披露して他人に一目置かれたいと考えている、せせこましい人間だ。要するに、自虐と自戒の念を込めて書いている。なので、怒らないで頂きたい。

そんなフォローはさておき。

アメリ』は、まず映像がとてもお洒落だ。センスがある。話のテンポもいい。ポップだ。難解で近寄りがたいフランス映画のイメージを払拭してくれる。といって、分かりやすい平板なストーリーとか、勧善懲悪の話だと映画通にはあまり響かない。そういう分かりやすい映画を無意識に見下しがちなのが、映画通の厄介なところだが、『アメリ』は適度に毒がある。下ネタもあるが、卑猥になり過ぎず、かといってソフトにもなり過ぎず、お洒落な感じに処理している。この塩梅が絶妙で映画通の喜ぶポイントを押さえている。ブラックユーモアのブラック加減も、これくらいがちょうどいい。あまりに重いと敬遠されるし、軽すぎるとやはり神妙な顔で映画を語りたがる映画通には物足りない。ただ、その割には冒頭で母親が即死するシーンや、いじめのシーンなどは悪趣味で、若干、『アメリ』の世界観から逸脱していると思うが、全体的にお洒落に仕上がっていれば、映画通は気にならない。全体の雰囲気が良ければ、小さいことは考えず目をつぶるのが、この映画を支持する層の特徴だからだ。要するに『アメリ』を支持する層は、考えることが苦手なのかもしれない。他人にインテリだと思われたいくせに考えるのは嫌いなのだ。だから、いつまでもインテリ風なだけで本当のインテリにはなれないのだ。自分がそうだから、よく分かる。

ここまで『アメリ』をどうにか褒めようとしたが、途中で批判じみてきた。やはり、自分は『アメリ』のような映画は好きになれない。どうしても「見た目だけ」と思ってしまう。「見た目」が良い事は間違いなく素晴らしい長所ではあるが、『アメリ』には中身がないように思うのだ。中身に惹かれるものが、『アメリ』には殆どなかった。例えば、『アメリ』はナレーションが多すぎる。このナレーションが本当にうざかった。アメリの内面や行動も、殆どナレーションで説明している。本来、演技やセリフで丁寧に見せないといけない部分まで、ナレーションですましている。それも、いかにも気の利いた事を言っている風のナレーションで、鼻に付く。こういったところが、手抜きのようにしか思えなかった。そして「映画通は見た目を多少、お洒落にしておけば細かいところは気にならないだろう」と侮られているようで、居心地が悪かったのである。

映画を観る時の自分自身の姿勢について考えさせられた映画であった、という点では見て良かったと思う。

蛇足だが、同じ監督が撮った『デリカテッセン』という映画は結構好きです。

以上。

 

アメリ(字幕版)

アメリ(字幕版)

  • 発売日: 2018/12/14
  • メディア: Prime Video