松本雄貴のブログ

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110回目「大人は判ってくれない」(フランソワ・トリュフォー監督)

ヌーヴェル・ヴァーグの旗手、フランソワ・トリュフォーの長編第一作。といっても「ヌーヴェル・ヴァーグ」がどういうものなのか、実はよく分かっていない。漠然とは分かる。「即興演出とか大胆な省略とかを用いて撮った当時としては革新的な映画の総称」くらいに認識している(間違っていたらスミマセン)。ただ、個々の映画を一括りに纏めて総称するのはナンセンスな気もするのである。ゴダールだろうがトリュフォーだろうが、良いものは良いし悪いものは悪い、と言える方が健全な気がする。

ゴダールの『勝手にしやがれ』も、監督の長編第一作で、フランス映画で、「ヌーヴェル・ヴァーグ」とされているが、当然内容は全然違う。『勝手にしやがれ』は、人に何度説明されても良さが分からなかった。自分の審美眼に問題があるのは重々承知しているが、『勝手にしやがれ』のどこがどう良いのか全く分からないのである。その点、『大人は判ってくれない』は難解さもなく、フランス映画によくある鼻に付く感じもせず、割とすんなりと受け入れる事ができた。

冒頭の10分を観た時、ある映画に似ているなと思った。フランスでもヌーヴェル・ヴァーグでもないイランの映画。アッバス・キアロスタミの『友だちの家はどこ』である。どちらも子供が主人公である。この二つの映画が似ていると感じたのは、最初の教室のシーンから主人公の子供が家に帰ってからの数分間までである。親や教師といった大人は、子供に対して絶対的な力を持った理不尽な存在であることが、どちらの映画でも冒頭のシーンで仄めかされる。しかし、その後のプロセスは全然違う。一方は友達のノートを届けるという目的を達成するために子供にとっては過酷な冒険を健気に遂行し、ラストは少しほっこりとさせられる。一方、『大人は判ってくれない』の方は、悪友と一緒に非行に走り、感化院にまで入れられてしまう。「大人=悪」という環境は同じなのに、この差は何なのだろうと考えると中々胸が痛い。『友だちの家はどこ』には、貧しさ故の暖かさを感じられるが、『大人は判ってくれない』は終始、荒んだ印象がある。しかし、単純に二作を比べて『大人は判ってくれない』の子供の方が悲惨だと言い切れないのは、『大人は判ってくれない』のいくつかのシーンには、似たような境遇の同級生との無邪気な友情なども描かれていて、その瞬間がとても幸福そうに見えるのだ。ラストの表情は大人の呪縛から逃れることができた希望なのか、どうしようもない諦めなのか、感慨深い。

 

109回目「パラレル・マザーズ」(ペドロ・アルモドバル監督)

ペドロ・アルモドバル監督の映画は、話の設定を作るのが巧い。その設定さえあれば、どう転んでも面白くなるような設定を作る。中には「さすがにそれはないだろう」と思うような設定もある。しかし、そんな強引な設定でも不思議と作り手の都合を感じさせない。普通は「偶然が多すぎる」とか「展開が強引過ぎる」と思いそうな設定でも、なぜか納得してしまうのである。また、設定から派生したストーリーも練られており、複雑な話なのにストレスを感じることなく、映画の世界に引き込まれる。

そんなアルモドバル監督の新作『パラレル・マザーズ』を映画館で観た。

他のアルモドバル映画と同様、『パラレル・マザーズ』も最初の設定がもうすでに面白い。女の子を出産した、二人のシングルマザーを巡る数奇な運命を描いた物語である。ストーリーの詳細には触れないが、ご多聞に漏れず、いささか強引な設定なのに妙なリアリティーを感じる。

「知らぬが仏」という諺があるが、「知らないまま」だとドラマは展開しない。なぜ、「知ろうとした」のか。そして「知ってから」の葛藤。「知らない」相手に「知らせる」きっかけ。そうして、それから…。確率的にはめったに起こらないであろう偶然が何度も起き、しかし、それがご都合主義的には感じず、なぜか奇跡のように感じる清々しさがあった。

例えば、母になった二人の女のレズシーンがある。最初は友情の意味合いの軽いキスだと思ったが、キスが執拗に長く、そのまま愛撫に流れる。このシーン、あの二人の関係を考えれば、唐突感が否めない。なぜ、性的な関係になってしまうのか、理由も分からない。でも、あのような立場・状況に置かれた人間同士の間には、性的な関係が自然に生まれるのだ、と、妙に納得してしまうような説得力がある。

「ないない」を「あるある」と思わせるのが、アルモドバルの映画の一番の美点だと思う。

そして、ペネロペ・クルスはアルモドバルの映画に出てる時が一番良い、と思う。『ボルベール』とか『オール・アバウト・マイ・マザー』とか。

 

108回目「欲望」(ミケランジェロ・アントニオーニ監督)

なんとなくダラダラと見始めて、ちょっと退屈だなと思いつつも途中で鑑賞を止める事もなく、というか、切り上げるタイミングを見失い、結局ラストまで観た。ダラダラと見続けて気が付けば終わっていた。全体的に印象が薄い映画だった。ラストもモヤモヤとしまま終わった。そのモヤモヤの正体を突き止めてみようという積極的な意思も働かない。全体的に見ても部分的に見てもよく分からない映画で、「難解」というのとも少し違う、そういう意味では不思議な映画なのだけれども、その不思議さが魅力的に感じるかというと、それはそれでそうでもない、なんて、感想までも抽象的になってしまう。

自分の場合、こういう映画は通常最後まで観ずに途中で切り上げることが多いのだが、最後まで観てしまったのは、やはり、『欲望』には人の目を画面に引き留めておく何かがあるのだろうか。「もう観るのをやめよう」と思ったタイミングで、ちょっと面白そうな画面に出くわす。その連続で最後まで観てしまったのかもしれない。もう少し具体的に言えば、静と動のコントラスト、その切り替えが巧みだ。

ポップでエネルギッシュな若者たちがロンドンの街中を車で走るオープニング。若いけど、どこか傲岸不遜な感じのする主人公のカメラマンがモデル達に指示しながら撮影するシーンなど、映画の冒頭はテンションが高い。そのテンションの高さは、冒頭だけでなく、その後も随所に現れるのだが、この言わば「動」にあたる部分が自分には退屈であった。むしろ、男が部屋にこもり無言でネガを確認するシーンや終盤のパントマイムでテニスをするシーンに引き付けられた。前者のネガを確認するシーンはBGMも流れておらず、無音の状態が異様に長いのだが、ホラーやサスペンスを見ているような緊張感があり、否が応でも見入ってしまう。ずっとダラダラと鑑賞していたのが、この「静」のシーンは目が釘付けになった。また、パントマイムのテニスも、なぜ唐突にテニスをするのかの意味は全く分からないのだけど、「いや、このシーンは必然なのだ」と思わせるような不可解な魅力があった。

そういう感じで頑張って最後まで観て、それなりに楽しめたのだけど、じゃあこの映画を自分は理解しているのかと問われれば、全く理解はしていない。

ちなみに、この『欲望』。自分はずっとアントニオーニではなくルキノ・ヴィスコンティが撮ったと勘違いしていた。

 

107回目「最後の将軍~徳川慶喜~」(司馬遼太郎:文春文庫)

坂本龍馬とか新選組が好きな人はけっこういるが、「徳川慶喜が好き」という人には出会ったことがない。よく耳にする「好きな歴史上の人物は?」といった質問に徳川慶喜を一番目に挙げる人は稀な気がする。日本を近代化に導いた立役者の一人であることは間違いないのに、なぜこうも不人気なのだろう?(自分の周りだけかもしれませんが…)やはり、戊辰戦争で幕府のために戦っている仲間を裏切って自分だけ逃げた将軍のイメージが強いからだろうか。しかし、それには慶喜なりの理由があって、…というのは、本書『最後の将軍』を読めばよく分かる。だから、ここでは説明しない。弱腰とか口だけとか無責任とか敵前逃亡とか色々言われているが、実は自分は慶喜がけっこう好きなのだ。

自分の好きなタイプに「能力は高いけど、やる気がない人」というのがある。この「やる気がない」という部分が重要なのである。慶喜は、その典型である。「将軍なんてやりたくないけど、皆がやれって言うから仕方なくやることにした。正直、うざい。政治になんて興味ないし。写真とか釣りとかしてる方がずっといい」みたいな所がクールでよい。そして、自分が属する幕府という組織が時代にそぐわないことも誰よりも早く気付き、自ら大政を奉還するのも潔くて好きだ。といっても、幕府に対して情が全くないわけでもなく、慶喜なりの愛情があり感傷にふける場面もなかなか人間臭くて面白い。人間臭さでいうと、長州より薩摩を晩年に至るまで憎んでいたところなんかも、また一周回って魅力的である。

逆に、西郷隆盛とか大久保利通などは、自分の好みからは外れる。熱血漢的な感じが暑苦しい。傲慢さを感じる。自信に漲っている感じが嫌なのだ。ただ、世間はこういうタイプの方が受け入れやすいのだろう。カリスマ性のある指導者というイメージが容易に定着するからだ。あくまで勝手なイメージだが、職場にいて欲しくないタイプの人間である。

というわけで、自分は慶喜が好きなのだ。余談だが、自分は政治家が全員嫌いだ。与党も野党も国会議員も地方議員も全員嫌いなのだ。ただ、唯一例外があって、元内閣総理大臣細川護熙さんは好きなのだ。

政界引退後は、陶芸なんかやって余生を楽しんでる所が、なんとなく慶喜に似ている気がして、渋い。

 

106回目「草薙の剣」(橋本治:新潮文庫)

10代から60代の6人の男が主人公。それぞれ年齢が高い順に「昭生」「豊生」「常生」「夢生」「凪生」「凡生」という名前が付けられている。彼ら6人のそれぞれの人生を、昭和から平成の終わりまでの歴史と同時に描かれる。令和は入っていない。

橋本治の『草薙の剣』を読んだ人は、恐らく皆、ある事に気づくと思う。それは、この6人の主人公以外は、全て固有名がないこと。「昭生の父」とか「豊男の養母」という扱いである。故に、6人の主人公から遠い関係性にあるもの程、助詞「の」が多くなる。「夢生の父方の祖父」なんて具合である。そして、主要6人以外の、固有名を持たない人間たちのドラマが、主要6人以上に緻密に書き込まれている。だから、読んでいる途中で軽く混乱する。こんな書き方をしていても、きちんと小説として成立させるのは、小説の技法が優れているからに他ならない。ただ、不満もある。戦前から戦後の混乱期にかけての時代と、平成に入ってからの最近の時代は、その出来事の書き込み方にかなりムラがあるように思えた。主に「昭生の兄」や「豊生の養父」が活躍する、戦後の混乱期などは、内容に重みがあり引き込まれる。でも、肝心の「昭生」「豊生」が出てくる現代に近い話になると、物語の密度が薄れていくように感じた。日本で少年犯罪の増加や引き籠りが社会問題になり始める「夢生」や「凪生」の章は、出来事をダイジェストに紹介されているような性急さを感じてしまった。

 

 

105回目「ニック・オブ・タイム」(ジョン・バダム監督)

ジョニー・デップが主演の映画。面白いけど突っ込みどころは沢山ある。映画内で流れる時間と実際の時間が同じ、というのがこの映画のセールス・ポイントらしい。その点に関しては「言われてみれば確かにそうだなぁ」くらいの感慨しかない。イニャリトゥ監督『バードマン~あるいは無知と言う名の偏見~』(←これは、監督名も正式タイトルも合っているか自信がない)とか、サム・メンデス監督の『19○○~命を懸けた伝令~』(←これも正式タイトルを忘れたので○○で誤魔化す。ご了承を。)のように最初から終わりまでワンカットで撮っている、なんてのはインパクトがあるけれど、『ニック・オブ・タイム』は、そんな手法は使っていない。話はスピーディーに展開して、ハラハラドキドキさせられる。

でも、根本的によく分からない部分があった。州知事の暗殺なんて大それた計画を立てているのに、その実行犯役を駅でたまたま見つけた素人に任せるかね? 自分たちでやった方が確実なのに。見てもらえれば分かるが、この映画に出てくる悪者たちは、無駄に用意周到で狡猾なくせに、一番大事な部分が杜撰すぎるのだ。こいつらは殺人を抵抗なくできる残虐性は持ち合わせている(秘書の女性をいとも簡単に殺害するシーンがある)。それなのに、肝心の知事暗殺の実行は、素性の分からない男の娘を誘拐して脅す、なんて回りくどい方法を採用しているのだ。それで知事の暗殺をすんなり出来ないジョニー・デップにイラついているのだ。

でも、悪者達がアホでムカつく奴らであるからこそ、こいつらがやっつけられるのは爽快感があるのも事実である。

 

104回目「ボヴァリー夫人」(フローベール:新潮文庫)

この小説の主人公はエマという名前の女性である。エマの物語である。しかし、タイトルは『エマ』ではなく『ボヴァリー夫人』である。小説内では、エマの行動と心理が最も多く描かれているのにも関わらず、この著しく主体性を欠いたタイトルが興味深い。しかも、作中ではエマ以外にも「ボヴァリー夫人」と称される人物が二人いる(ボヴァリーの母親とボヴァリーの先妻)。タイトルと内容のバランスが些か悪い気がする。『ハムレット』を『クローディアスの息子』とか『オフィーリアの恋人』と呼ぶような感じの不当さである。

 

それで、粗筋を簡単に記すと、もともと空想好きでロマンティストであったエマが、医師シャルル・ボヴァリーの元へ嫁ぐ。娘が産まれる。エマは、なんの面白味もない結婚生活に飽き飽きしていた折、年下のレオンという青年と出会い、お互い淡い恋心を抱く。しかし、レオンとの不倫は未遂に終わる。その後、ロドルフという年上で女の扱いが上手いおっさんと出会い、たちまち不倫関係になる。エマはシャルルの目を盗み、幾度となくロドルフと情事を重ね、やがてロドルフと駆け落ちしたいと打ち出すが、自分の生活を破滅させたくない保守的なロドルフは、エマとの駆け落ちをあっさり断る。ショックを受け、精神的に追い詰められたエマだが、気晴らしに観に行った芝居の劇場で、かつて不倫未遂に終わったシレオンと再会する。二人は、たちまち不倫関係になり、レオンに会うために、エマは多額の借金をするようになる。やがて、借金が膨らみ、財産を差し押さえられ、レオンにもロドルフにも裏切られ、首が回らなくなり、気が触れて、しまいには砒素を飲んで自殺してしまう。と、いう内容。

フランス文学の名作とされる作品だが、内容は昼ドラと変わらない。通俗の極みのような小説だが、それ故、エンターテイメント性が強く、退屈せずに一気に読める。途中に、医療ミスや宗教談義などの余興もある。まさに、盛沢山のエンタメだ。

エマが破滅していくのは、いわば自業自得であり、理屈で考えれば読者がエマに同情する余地はないのであるが、なぜか読んでいる間中、エマに対する嫌悪感はなく、寧ろ哀れみを感じ応援したくなってしまうから不思議である。逆に、不倫の被害者であるはずの夫・シャルルには、嫌悪の情を抱いてしまう。シャルルは、浮気も不倫もせず、一途に妻を愛し、妻に優しく、妻を気に掛け、妻の機嫌を損なわず、つまり、常に妻を中心に考えて行動している、夫の鑑のような男である。真面目過ぎるが故に面白味に欠ける部分はあるが、それでも、女を欲望のはけ口としか思っていないロドルフに比べると、まさに聖人君子のような男である。最後の最後に妻の不貞を知った後でも、全てを赦してしまうくらいのお人好しなのである。本来、自分は「正直者が損をする世の中は間違っている」と考えており、そのセオリーでいくと、欲望のまま自由奔放に生きているエマが破滅するのを「いい気味だ」と思い、被害者である真面目なシャルルを救ってやりたい気持ちになるのが自然であるはずなのに、そのように感情が赴かないのはどうしてだろう、と考えた。すると、その理由がタイトルに行き着いた。

ボヴァリー夫人』である。結局、自由奔放に生きているように見せかけているが、真面目なだけで何の魅力もない「ボヴァリー」の「夫人」でしかない、という事実。タイトルが、すでにエマの悲劇を物語っているのである。つまり、不倫の被害者であるシャルルよりも、より一層の悲劇性を、エマは内包しており、その悲しみに無意識に触れたがために、エマに対して嫌悪ではなく、憐憫の情を持ったのだった。