158回目「ブゴニア」(ヨルゴス・ランティモス監督)
あらすじ
ある製薬会社CEOのミシェル(エマ・ストーン)を地球侵略を目論む宇宙人だと信じる陰謀論者のテディは、彼を慕う従弟のドンと共にミシェルを誘拐して自宅の地下室に監禁する。テディたちは、ミシェルに対し、彼女の星の皇帝と退去の交渉をするために宇宙船に連れて行けと彼女に迫る。心理学の学位を持つミシェルは、テディたちを言いくるめながら逃れようとするが、テディの隠された過去が暴かれたことで、事態は思いも寄らない方向へ向かう。
感想
ヨルゴス・ランティモス監督は毎度、「映画とはこういうものだ」という自分の固定観念を思わぬ方向から思わぬ方法で更新してくれるので、毎回楽しみだ。極力、真っ新の状態で観たかったので、「原作がある」「エマ・ストーンが坊主になる」くらいの前知識しか無い状態で鑑賞した。
本作に於いては、ミシェルがテディに監禁されてから次の段階に話が進むまでが、やや長く感じ、長いのが苦手な自分は本来なら眠気に襲われそうになるのだが、一向に眠くならず、というのも、ミシェルとテディとドンのやりとりが絶妙で、気品の中に狂気を感じる、真面目なのかふざけているのか良く分からない会話劇に目が離せなくなってしまったからだ。
映画全体は、ほぼミシェル、テディ、ドンの3人のシーンで占められ、時折、微妙に不快で理解が追い付かない映像が挿入されるのだけれど、そういうのも含めて目が離せない。原作にどこまで依拠してるのかどうか詳しくないので断言はできないのだけれど、例えば、狂人の描き方一つとっても、ランティモス監督の感性って少し変だよなと引っ掛かる。この映画でいうと、テディは最初から明らかに狂人なのだが、「自分を宇宙人だと思っている狂人」ではなく「あいつは宇宙人に違いないと思っている狂人」を描くのである。通常の逆を行く発想なのだ。この狂人は、普通の狂人(言葉として妙だけれど)に輪を掛けて性質が悪い。「自分は宇宙人だと思っている狂人」をレベル1の狂人だとすると、「あいつは宇宙人に違いないと思っている狂人」はレベル2であり、レベル1の狂人と相対する場合に比べて、その難易度は上がる。本作では、ミシェル自身も「あなたの言う通り私は宇宙人だ」と一端狂人のフリをすることで難局を乗り切ろうとするが、レベル1の狂人には有効だと思われるこの手の対話も、レベル2の狂人には通用しない、というのも、レベル2の狂人はハナからミシェルの事を宇宙人だと思っているので、議論がスタート地点に戻るだけで、搦めるはずが逆に搦められてしまうのだ。ここら辺の説明、とても分かりにくいと思うのだが、なんとなく似ている作品が筒井康隆の「最悪の接触」という短編小説があり、これを読んで頂ければ、このシーンに於ける、狂人との対話の困難が少し理解頂けると思う。
などと、「狂人」というワードにフォーカスして考察チックなブログを書いてやろうと映画の鑑賞中に不埒な事を考えていたのだが、そんな自分の考察が全てバカバカしくなるような展開がラストに起きる。つまり、自分の浅はかな考察なんかより、映画の方が一枚も二枚も上手だったのだ。
最後に感想を言うと、「すごく面白い傑作かもしれない」「これはひょっとして世紀の駄作なのではないか」という相反する思いが、矛盾なく脳内にしばらく同居して、未だに結論がだせないでいる、という稀有な体験をさせて頂いた。こんな体験をさせてくれるのも、ランティモス監督くらいだ。
157回目「愛と幻想のファシズム」(村上龍: 講談社文庫)
すごい小説だし、長文のレビューを書いたけど、消えてしまった。もう一回書く気力がない。ただ、どうしても言いたい事をひとつだけ。
ヒロインの名前。「フルーツ」って。
ダサいし悪趣味だ。
本当は、このめちゃくちゃ面白い小説に敬意を表して、かなり長く内容の濃いレビューを書いたのだけれど、上述の通り、操作ミスで消してしまって、もう一度書く気力がないのだ。
久しぶりのブログ投稿なのに…。多分、こういう凡ミスをする自分のような人間、この小説の主人公から真っ先に消されるだろうな。
156回目「悪霊」(ドストエフスキー:新潮文庫)
あらすじ
1861年の農奴解放令によっていっさいの旧価値が崩壊し、動揺と混乱を深める過渡期ロシア。青年たちは、無政府主義や無神論に走り秘密結社を組織してロシア社会の転覆を企てる。――聖書に、悪霊に憑かれた豚の群れが湖に飛び込んで溺死するという記述があるが、本書は、無神論的革命思想を悪霊に見たて、それに憑かれた人々とその破滅を、実在の事件をもとに描いた歴史的大長編である。
感想
率直な感想は、面白かった&難しかった。ただ、当初期待していた面白さ&難しさではなく、なんとも言えない面白さ&難しさだった。
高校3年生の時、数学の授業で「行列」なるものを教わった時の記憶が蘇った。
行列。計算方法は分かるけど、「なんのためにこんな計算をするのか?」その理由が分からなかった。それとよく似た感じである。
自分が『悪霊』に当初期待していた面白さは「難しさ」に起因するもので、あらすじに紹介されている「無政府主義」とか「無神論的ニヒリズム」といった思想・哲学について深く考えさせられる面白さであった。どういうメカニズムで無政府主義なるものが誕生し、人々が洗脳され、国が荒廃していくのか、その経緯が詳らかに語られる、謂わば、「重たいけど、それ故に読み込んでしまう」面白さがあると思っていたのだが、実際の『悪霊』は意外と重くなかった。なんだろう。登場人物の行動がとても漫画的で、ゆえに漫画を読んでいるような面白さだったのである。スタヴローギンが市長の鼻を掴んで引きずった、なんてことがさも深刻に語られるが、読みようによってはギャグともとれるし、とても漫画的だ。自分はこのシーン、「マイク・タイソンやんけ」と突っ込んでしまった。
それとか、ステパン氏という人物の、一つ一つの言動が妙に腹が立つ。「お前、いくつやねん」と、思わず言いたくなるような言動をチョコマカとかまして来やがる。
「私」なる物語の語り部たる人物も、正直邪魔だった。ドストエフスキー目線の3人称と「私」目線の1人称が混ざり合ってどうにも混乱した。
なんといっても、肝心の主人公スタヴローギンが全く出てこない。「出てこないのに存在感がある」というような『羊たちの沈黙』におけるレクター博士みたいな感じでもなく、純粋に存在感がなかった。だから、スタヴローギンの何がヤバいやつなのか、よく分からない。彼が小説中でした事といえば、最初の方にシャートフと喧嘩したのと、真ん中の方でガガーノフって奴(こいつもかなり唐突に出て来た印象)と決闘したのと、最後の最後に人物紹介風の告白をしたくらいであり、この登場シーンの少なさと物語の中での彼の評価が釣り合っていない気がしてならなかった。
最も、「自らの手を下すことなく、社会に不安をもたらす人間」とでも解釈すれば、腑に落ちる所かもしれないが、他の人物たちのキャラクターが強烈で(これが自分的には面白い所だった)、スタヴローギンという人物を通してドストエフスキーが何を表現したかったのか分からなかったし、その重責は、他の人物、例えば、自殺マニアのキリーロフとか、物語中で一番あれこれ動き回るピョートルとかでも十分担えると思った。
無理矢理、今現代の社会の風潮と結びつけるなら、度々出てくる「檄文」というものが、今は「SNS」とか「犬笛」なんかに置き換えられ、無責任な大衆を煽り、社会を混乱させ不穏にさせるツールになるのではないか、と思った次第だ。そういや、最近、実際に逮捕された人物がいるけれども、さすがに彼とスタヴローギン(あるいはピョートル)を置き換えるのは、あまりにこの人物が軽薄であるし、『悪霊』の人物に失礼な気がする。
155回目「グランドツアー」(ミゲル・ゴメス監督)
あらすじ
1918年、イギリスの公務員エドワードはビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)に駐在していた。彼の婚約者であるモリーがエドワードと結婚するために現地を訪れたものの、モリーがビルマに到着する寸前にエドワードが行方をくらましてしまう。モリーは消えたエドワードを捜してアジアを旅する。
感想
物足りない。もったいない。忙しない。鑑賞中は、そんな感想がとめどなく頭によぎった。婚約者から逃げる男と、追いかける女。それだけの映画。シンプルこの上ない設定であるが故、小手先の手法による誤魔化しが効かない。監督の力量次第で、傑作にも駄作にもなりそうな映画で、観る前から期待値は上がっていたのだけれど、感想は前述の通り。駄作とは言わないし、見どころも多々あるのだけれど、全体的にイマイチだと思った。
何故か。色々、理由はある。上映中のためネタバレにならない程度に説明をするので、興味のある方は読んでください。
この映画、前半は逃げる男の視点で描かれ、後半は追う女の視点で描かれる。二人が逃亡と追跡の為に訪れる国は全部で7か国。ビルマ→シンガポール→タイ→ベトナム→フィリピン→日本→中国の順に旅をする。で、この映画の上映時間は129分。129を7で割ると、およそ18分。これは二人が訪れた時間だから、さらに2で割ると、9分。つまり、一人あたりの一国の滞在時間は9分しかなく、短すぎる。もっと一つの国について、じっくり鑑賞したかったという不満がどうしても残る。特に、このようなストーリーより「幻想的な映像」を重視しているような映画なのだったら、猶更、そのように感じてしまう。各々の国の表層をサラッと掠めただけで、深いところまで潜っていかないもどかしさがある。本当に申し訳程度にトゥクトゥクなんかが映るが、各国の特徴だけをダイジェストに移した安上がりな観光案内以上のモノでしかない。とりわけ、シンガポールとフィリピンは印象が全く残らない。「え、もう次の国に行ったの?」と突っ込んでしまった。さらに後半の女目線のパートでは、自分の見逃しでなければ、多分、フィリピンと日本のシーンを端折っている。これは手抜きではないのか?
この『グランドツアー』という映画は前半だけ、或いは後半だけでも成り立つ。自分の好みとしては後半の方が見どころは多かったので、後半のシーンだけにして、もう少し各々の国を深く描いて欲しかった。
もう一点、ナンクセを言うと、この映画は殆どがモノクロなのだが、これがもったいないと感じた。まさに発展の途上であるアジア各国の熱気は、モノクロよりも原色バリバリのカラーの方が合っていると思う。こんなのは好みとか感覚の問題で、何より、監督に東南アジアの熱気を撮る意図なんてなく、全然別のアジアを撮りたかったのであれば、自分の意見などお門違いだろうけど、せっかく2000円払って観たのだから不満は言わせてもらうと、ジャングルや賭博場や繁華街や市場なんかのシーンは、絶対に白黒よりカラーの方が良かったのではないか、と自信を持って言える。
最後に別にフォローするわけではないけれど、こうやってブログを書いてる時点で、「ブログを書きたくなる」くらいには面白い映画だったと思う。

154回目「オペラは踊る」(サム・ウッド監督)
あらすじ
イタリアのミラノで大富豪の未亡人をたらしこんで、オペラのアメリカ巡業の資金を手に入れた詐欺師のドリフトウッド。一座を率いて意気揚々とアメリカ行きの船に乗り込んだが、そこには無名歌手のひと癖ありそうなマネージャーと助手が入り込んでいて大騒動になる。
感想
マルクス兄弟の映画。マルクス兄弟、名前は知っていたけど彼らの作品を観るのは初めてでした。映画に詳しい知人から「コメディを勉強したいならマルクス兄弟は見るべき」と言われたので、見た。
自分の悪い癖で、「勉強のため」とか「知識を得るため」という動機が頭にあると、そっちが気になってニュートラルに鑑賞できない。どうにも肩肘を張ってしまう。コメディなんて、極めてフラットに見て面白ければ笑えばいいだけの話なのに、自分の性格上、そういう訳にはいかない。
映画の方に、そんな自分の癖を破壊させるだけの有無を言わさぬ面白さがある場合は、自分も小難しく考えるのを止め、素直に笑う方向に舵を切るのだが、正直に言うと、そこまでのパワーはなかった。
少々、ストーリーが分かり辛い部分もあったし、ラスト近くのドタバタはやや冗漫に感じた。
ただ、知人の言った「コメディを勉強したいならマルクス兄弟の映画云々」は少し分かる気がする。
一口にコメディと言っても、その種類は様々で、ギャグで笑わすコメディ、動きで笑わすコメディ、シチュエーションや喋くりで笑わすコメディーなど幅広いが、この映画にはそういった様々なジャンルのコメディの基本が網羅されてるような気がした。「笑い」に関して専門的に分析する人間ほど「面白くない」というのが持論なので、「面白くない奴」にならないために、これくらいにしておきます。
でも、なんとなく見終わった後は幸せな気分になりました。
153回目「ワン・バトル・アフター・アナザー」(ポール・トーマス・アンダーソン)
あらすじ
元革命家のボブ(レオナルド・ディカプリオ)は、最愛の娘・ウィラ(チェイス・インフィニティ)と共に平凡な日々を送っていた。しかしある日突然ウィラが何者かにさらわれたことで彼の生活は一変する。ボブを執拗(しつよう)に追い詰める軍人のロックジョー(ショーン・ペン)や、次々と彼に襲いかかる刺客たちと死闘を繰り広げる中で、ボブの心に革命家時代の闘争心がよみがえる。
感想
どうでもよい話だが、監督のポール・トーマス・アンダーソンは、名前の頭文字をとって「映画界のPTA」と言われているそうである。ほんまかいな。PTAだったら、さぞかしお堅い映画を撮りそうなものだが、そんなわけはない。
もうひとつ、どうでもいい話だが、脇役でベニチオ・デル・トロが出演しているが、最近、彼が元阪神のピッチャー・下柳に見えてしゃーない。
で、本題の感想なのですが、最初から最後までタランティーノの映画のテイストを感じた。主に、セリフ回しや登場人物の名前、時折挿入されるバイオレンス描写と下ネタなどが、タランティーノ作品と似ているので、そのように感じたのかもしれない。タランティーノの独特のノリが好きな自分としては、それはそれで面白かったのだが、どうも決定的な部分でタランティーノ作品と『ワン・バトル・アフター・アナザー』は違う気がする(そもそも違う映画なので違って当たり前なのですが)。上手く言えないけれども、「ふざけきっている」感のようなものが、タランティーノの映画にはある。一見シリアスなシーンに見えても、どこかふざけている。それが分かっているから、安心できる。「笑っていいのか分からない」というところは皆無なのだ。
一方、『ワン・バトル~』の方は、全編、ふざけているシーンも多いが、部分部分で真面目なのだ。この部分的に垣間見える真面目さが、自分には欠点のように思えた。
例えば、この映画は白人の黒人に対する差別に言及している箇所が幾つかあるが、ノリとテンションで軽く見せてはいるけれども、意外にしっかりと「人種差別はダメ」というメッセージが透けてしまっている。要するに「批評性がある良い映画」という枠内にこじんまりと纏まっているのだ。タランティーノだったら、「人種差別」を扱うにしても、「テーマ」としてではなく、笑いの手段として用いる気がする。
この「つきぬけてない感じ」が自分としては、少しもったいなく感じた。
また、純粋に主人公とその味方に感情移入できなかった、というのもある。
正義と悪が戦う分かり易い構図だったら、すんなりと主人公のディカプリオ側を応援できるのだが、そもそも、ディカプリオは「正義」ではない。革命家と称してはいるけれども、やっている事はテロ行為と同じだし、イデオロギーとは関係のない所で強盗などの犯罪行為も行っているし、何より最初に対立の原因を作ったのは、ディカプリオ側であるから、そのような事実を知ってしまっている観客は、素直に「ディカプリオ頑張れ」とは思えない。もっとも敵である警官側はゴリゴリの差別主義者であるというマイナス面があるから、彼らが正義の側にやられるのは爽快感が少なからずあるが、プラスとマイナスのバランスが些か悪い気がする。
いや、正義というのは常に相対的なものであり、立つ側によっては「正義」と「悪」は容易に入れ替わる訳で、そういった一筋縄ではいかない複雑性をこの映画はきちんと描いているのだ、なんていう意見もあるかもしれないが、今の自分はそんなことをこの手の映画には求めていない。そういうのは、そういうのが得意な映画に任せておけばいいのだ、と思います。
152回目「NIMIC/二ミック」(ヨルゴス・ランティモス監督)
あらすじ
妻と3人の子供がいるチェロ奏者の男は、オーケストラのリハーサルの帰り、地下鉄内で奇妙な女と遭遇する。女は地下鉄をおりた後も男を追いかけ家にやって来ると、男のふりをして家族に溶け込み始める...。
感想
先ほど、映画館でウェス・アンダーソン監督の新作である『ザザコルダのなんちゃらかんちゃら』というタイトルもきちんと覚えていない映画を観てきた。
誇張でもなんでもなく、開始10秒で「多分、自分には合わない」とうっすら思い、開始1分で確信に変わった。最後まで観るのが苦痛だった。自分は元々、ウェス・アンダーソンの映画が苦手で、正直、何が面白いのかさっぱり分からない。
これは、作品の良し悪しではなく、本当に相性なのだろう。ただ、「相性が悪い」と一刀両断するのは、なんとなく心の据わりが悪いので、もう少し補足すると、ウェス・アンダーソン監督作品の背後に常に感じる「俺の映画ってすごいっしょ?」的な自意識がどうにも苦手なのだ。作品の方で、観客を取捨選択している気がして、それだけなら別に良いのですが、その選択から外された側の人間は「センスがない側の人間」と断定されてるようで、どうにも嫌なんですね。自覚無きエリート臭を感じるのです。
と、批判的な事をのたまったけれど、すごい監督であることは分かっている。どのシーンを切り取っても「ウェス・アンダーソン監督の絵だなぁ」と分かる個性は凄いと思う。
で、今回紹介するのが、相性という意味ではどの作品も自分にぴったり合致するヨルゴス・ランティモスの『NIMIC/二ミック」という僅か15分程のミニドラマ。
ランティモスの映画も、ウェス・アンダーソン同様、どのシーンを切り取っても「ランティモスだなぁ」と分かる。そして、常に観るものを不安にさせる。不安であるが故に画面から、目が離せなくなる。何でもないシーンからでも、観客の不安感を煽る監督の手腕はすごい。沸騰したお湯にゆで卵が入っている映像。こんなシーンですら、何故か不穏な空気を醸し出している。役者の表情、歩くスピード、音楽が流れるタイミングなどなど、全て「観客を不安にさせる」ことに特化した演出がさえわたっている。
ウェス・アンダーソン監督の「色彩とシンメトリーの美」を追求した画面作りにも引けをとらない、気がする。







