松本雄貴のブログ

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49回目「ラストエンペラー」(ベルナルド・ベルトルッチ監督)

半藤一利の追悼という訳でもないが、『昭和史 1926-1945』(平凡社ライブラリー)を読んでいる。その最中に観たのが、ベルナルド・ベルトルッチの『ラストエンペラー』だ。映画の主役である愛新覚羅溥儀は、『昭和史』の最初の方に紹介される。『昭和史』は、あくまで日本の昭和がメインであるため、溥儀が満州のファースト・エンペラーになった経緯がさらっと説明されているが、映画の方は、幼少期に清国のエンペラーに即位した後、少年時代の紫禁城での生活、結婚、日本との接触満州国のエンペラー即位、終戦、捕虜、収容所、恩赦、自由、最後はかつての紫禁城跡に訪れノスタルジーに耽る、という一生を、回想を挟みながら順序立てて描いている。史実との相違が多少あるらしいが、自分は特に気にならなかった。

歴史が好きな人は、『昭和史』と『ラストエンペラー』を比べてその差異をあげつらうのも一興かもしれない。歴史を扱う映画には、必ず「史実と違う」という批評が付きまとう。もしくは「歴史認識が監督の主観だ」という類の批判もある。映画でも小説でも音楽でも、作品を産み出すという行為は、たとえそれが興行収入を第一に目論んだものであっても、或は、大衆迎合主義的なものであっても、もっぱら作者の主観による作業なので、「監督の主観だ」という批判は、的を射ていないようにも思う。技術が明らかに伴っていない作品は論外としても、差し出された主観に、上手く乗れれば面白いだろうし、乗れなければ、自分とは合わなかっただけだ。それでいいと思う。

一映画好きに過ぎない自分は、完成品として出された物語が面白ければ満足である。

ラストエンペラー』に話を戻すと、紫禁城のセットは、確かに目を見張るものがある。荘厳で重厚な雰囲気を、映像と音楽で壮大に再現している。また、溥儀という人物は大変興味深い。物心が付いた時から、一歩たりとも紫禁城の外に出ることを許されなかった。そんな不自由で閉ざされた世界の中でも、彼はエンペラーとして物質的には何不自由のない生活が保障されている。それは実体のない権威によるものである。5歳に満たない子供には、当然、実務能力も政治手腕もない。生物学的には、我々と同じホモ・サピエンスだ。凡人より突出したカリスマ的能力ではなく、根拠のない権威だけを最初から賦与されているのだ。そして、その根拠のない権威を盲目的に信じている、周りの取り巻きたちの滑稽さ。映画の前半は、そんな特異に過ぎる環境の中で育つ溥儀を描く。非常に興味深い子供時代で、こちらの好奇心を刺激してくれる。さらには、数年後、彼は満州で最初で最後の皇帝になる。日本の都合だけで作られた満州という国で、またもや実態のない権威のみを与えられるのだ。満州は傀儡国家と言われるが、溥儀の半生そのものが、自覚の無いまま時代に翻弄される操り人形的で興味深い。

史実との相違や、歴史の主観という瑕疵があっても、以上のような観客を引き付ける要素があるため、『ラストエンペラー』は観て損のない映画に思えた。

というように自分は、基本的には何をどのように描いても、結果的に面白ければよいと思っている。「面白ければ」というのは、別にストーリーだけに限らない。映像の美しさでも、俳優の演技でも、音楽のカッコよさでも、何かこちらを引き付けるものがあれば、映画を観て良かったと思える単純な人間である。昨年からNHKで放映されていた『麒麟がくる』でも、架空の人物が執拗に出ていて大河ドラマの世界に浸れないという意見が多かったらしいが、自分的には、本木雅弘斎藤道三染谷将太織田信長が見れただけで大満足であった。

そんな自分だから、『ラストエンペラー』も楽しめたのだが、一つだけ納得できない部分があった。

それは、言葉の問題である。『ラストエンペラー』では、登場人物がほぼ全員、中国語ではなく英語を喋る。溥儀は幼少の頃から英語をネイティブのように喋っているし、その他、紫禁城に従事している役人や乳母まで、全て中国語は一切話さず、英語オンリーなのだ。

映画はフィクションの為、史実の相違などは気にならないが、言葉をまるまる変えてしまうのは、何かに対する冒涜のように思えたのだ。その「何か」が何なのかは、説明すると長くなるので割愛する。

 

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