松本雄貴のブログ

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58回目「ふらんす物語」(永井荷風:新潮文庫)

自分は結構、海外旅行が好きだ。沢木耕太郎とか金子光晴に憧れてインドを放浪していた時期もあった。といっても訪れたことのある国は全部で11か国とそれほど多くない。ガチでバックパッカーをやってる人には、遠く及ばない。そして、その11か国の中に、フランスは入っていない。

今後もフランスに行く予定はない。もし今、仮に海外に行けるのならヨーロッパよりもアジアかアフリカを選ぶ。アジアかアフリカの方が、混沌としていて面白そうだ。もし今、仮にヨーロッパの国のどこかに行けるのなら、東欧のどこかを選ぶだろう。自分は誠に失礼な話だが、東欧の国々に対して貧しく荒んだイメージを勝手に抱いている。その荒んだイメージが自分に合っている気がする。フランスは文化的に洗練されている印象があり、自分には少し敷居が高いように思う。フランス文学もフランス映画も好きだけど、フランス自体には行きたいと思わない。芸術家としての視点ではフランスはとても魅力のある国だが、旅人としての視点ではあまりそそられるものがない。自分にとって、フランスとはそのような国だ。 

永井荷風は明治の作家である。自分とは違い、芸術家としても旅人としてもフランスに惚れ込んでいる。それはこの『ふらんす物語』を読めば分かる。フランスに対する熱が強すぎて、フランスへの一直線な思いが空回りしている部分も多い。フランスがどれだけ作者にとって住み良い美しい国であるかを表現するために、わざわざ他の国を貶めたり、その貶め方も明らかに差別的な表現を用いていたりする。甚だ視野狭窄的ではあるが、我々とは全く別世界に生きた人物が書いた紀行文として割り切ると、差別的な表現も読んでいてそれほど不快には感じない。寧ろ、作者のフランスへの愛が強すぎるが故の表現だと捉えて読むと、一種の愛嬌をも感じる。それくらい荷風のフランスへの思いは屈託がない。明治の文豪なんて所詮、我々とは生きた時代も見た風景も違うので、差別的表現を一々気にしない方がよい。因みにいうと、この『フランス物語』は国籍に対する差別的表現だけでなく、男尊女卑的な表現も多い。収録されている『雲』という短編が特に男尊女卑的だ。『雲』の主人公はとても最低な男で、自分の性欲は正当化し「女を買う」ということに些かの抵抗も感じないが、女にはプラトニックを求める。そして、女との恋愛が面倒になると、これまた都合の良い言い訳で自身を納得させて女を捨てる。要約すれば、そんな男が出てくる話だ。娼婦に対する偏見もひどいものだ。

これはこれで面白い作品ではあるが、現代の観点から考えると、不快に思う人もいるだろうから、オススメはしない。

ところで、よく巻末に「当作品には差別的な表現があるが、作者に差別を助長する意図はなく、作品の文学的価値と作者が故人であることを鑑み、そのままにしています」と書かれた本を見かけるが、その一言を付け加えることによって、全ての差別的表現が許される文学界の風潮は、どうなのだろう。自分はずっと違和感を持っている。単に免罪符として、このようなフレーズを乱用するのは良くないように思う。いっそのこと、「私は差別する気が満々でこの作品を書きました。それが不快なら最初から読まないで下さい」と書いてくれた方が、潔い気がする。

 もう少し『ふらんす物語』の中身に触れる。タイトルの通り、永井荷風のフランス外遊時の体験を元にした、短編と随筆で8割ほど占められているが、時折、アメリカ滞在時の回想が挿入され、アメリカとフランスの違いを比較する。比較の対象は、車窓から眺める景色の印象であったり、良い芸術が産まれるにはどちらが適しているかの考察であったり、女の性格であったりする。いずれも、荷風の中ではアメリカではなくフランスに軍配が上がる。そういったところが、憎めない。

また後半は、フランスから日本に帰国するまでの道中に訪れた国も舞台となる。ポルトガルシンガポールなど、フランス以外の国について書かれる。この辺りから、アジア諸国に対する差別的表現が顕著になってくる。そして、日本の帰国が徐々に近づくにつれ、フランスにホームシックを感じる様子が面白い。その感情は、当時の文士たちが皆、多かれ少なかれ持っていたであろう西洋コンプレックスの裏返しなのだろうかと思うと、とても興味深い。

ともあれ、今はコロナ禍で海外旅行ができない。『ふらんす物語』は、読むと異国情緒を感じられる。スマホもインターネットもない時代の海外生活を疑似体験でき、お得なのではないだろうか。

以上

 

ふらんす物語 (新潮文庫)

ふらんす物語 (新潮文庫)