松本雄貴のブログ

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57回目「闇の奥」(ジョゼフ・コンラッド:岩波文庫)

フランシス・フォード・コッポラの映画『地獄の黙示録』の原作。映画は完全版で3時間半くらいあり非常に長い。『地獄の黙示録』を観たのは15年ほど前だろうか。あまり覚えていないが、ジャングルの奥地へ主人公一行が船で進んでいくシーンの臨場感と、泥沼から男が顔を出すシーンの薄気味悪さは覚えている。

また、冒頭に流れるドアーズの『The End』と「カタツムリが剃刀の上を這う」イメージが、他の戦争映画にはあまり感じない不穏さを強く印象付けられた。この不穏さは戦争ではなく人間一般が持つ不穏さだと、若い頃の自分は結論付けたのである。しかし、若い頃の感覚ほど当てにならないものはない。この感覚が正しいのかどうかを再度検証するため、今回、『闇の奥』を読み終えてからもう一度『地獄の黙示録』も観ようと思ったのだが、なかなか時間がなく、まだ観ていない。だったら最初から書くなという話だ。ただ、早くブログを更新したかったので、映画は再見していないが、続けて書くことにする。

地獄の黙示録』はベトナム戦争の映画で、舞台もベトナム(orカンボジア?)だが『闇の奥』はアフリカの奥地である。取りあえず、『闇の奥』を映画化しようと思い立った時に、設定をベトナム戦争にアレンジしようとする発想はまず自分には思いつかない。

『闇の奥』では主人公マーロウが、アフリカの奥地にいるクルツいう名の腕きき象牙採取人に会いに行くという話。『地獄の黙示録』では、主人公ウィラード大尉がカンボジアの奥地で独立王国を築いているカーツ大佐を暗殺しに行くという話。

マーロウがウィラード大尉に、クルツがカーツ大佐にそれぞれ置き換えられている。得たいが知れないが、ある種のカリスマ性を持った人物に会いに行くことが映画と小説の共通部分であり、話の根幹である。この部分を変えてしまえば換骨奪胎したことにはならない。映画はかなり大胆で飛躍したアレンジだが、小説の主題・モチーフを変えているわけではなく、ちゃんと残している。さらに戦争映画が持つスケールと狂気を獲得している。当時の自分は『地獄の黙示録』を語れるほどには理解しておらず、長くて難解な映画だと正直思ったが、コッポラ監督の原作に対する敬意は、『闇の奥』を読み終えた今は感じられる。

ここからは『闇の奥』を読んだ純粋な感想を書く。

まず、マーロウは実際にクルツに会うのだが、自分はクルツが登場しない方がよいのではないかと思った。カフカの『城』が、目の前にあるはずの城に永遠に辿り着けない様子を描くことにより、実体があるのかないのか分からない城に翻弄される不条理、ひいては存在の不安というものの表現に成功しているのと同様に、『闇の奥』も最後までクルツが現れない方が、クルツという存在の不気味さと不可解さをより強く表現できたのではないかと思った。事実、ラスト近くでマーロウがクルツに会う場面、そして二人が会話をする場面は、クルツの登場に些か興覚めした。「すごい奴」「得体の知れない男」というネタフリにずっと付き合わされていたが、実際に現われると、どうってことのない少し精神がおかしいだけの普通の男という印象がぬぐえなかった。クルツはもっと悪魔的で怪物的な人間だろうというこちらの予想が悪い意味で裏切られた感じがした。カフカの『城』もベケットの『ゴドーを待ちながら』も「現れないこと」「辿り着けないこと」に価値がある。『闇の奥』も、こっちの系統であってほしかった。あと、『闇の奥』は三人称の小説だが、ストーリーの9割はマーロウが同僚の船員たちの前で喋るという形で書かれている。つまり、一人語りが恐ろしく長い。それならば、マーロウの独白とかマーロウの手記という形で、最初から最後まで一人称の小説として書いた方がよかったのではないだろうか。話の継ぎ目で、たまに現実の船の上に戻るのが、効果的とも思えなかった。 

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)