松本雄貴のブログ

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61回目「存在の耐えられない軽さ」(ミラン・クンデラ:集英社文庫)

昔、加藤周一という人の論評を読んでとても感動した覚えがある。小説でも映画でもなく、評論を読んで感動したのは、この時が初めてであった。「知の巨人」と呼ばれた人で、世間的には左派系の論客とされているようだが、右とか左とかの分類がいかに無意味であり、人間の知性はそんな分類を越えたところにあるということを、当時の自分は加藤周一の文章を読んで思い知らされたのだ。

中でも、かつてソ連軍がチェコプラハを占領し、プラハの自由を脅かした事件について書かれた論評『言葉と戦車』が白眉であった。

破壊の象徴である「戦車」と自由の象徴である「言葉」を対比し、「圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉」の戦いに決着が付かないと結ぶ。この一文の中に世界の不条理が凝縮されているような美しさを感じたのである。まさに美文だ。

そんな加藤周一の文章に接したのも学生時代。論の内容も殆ど忘れかけていた折りに、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読んだ。加藤周一の『言葉と戦車』は「言葉」と「戦車」の対比で論を紡いでいくが、『存在の耐えられない軽さ』は、言葉ではなく、言葉を発する主体である「人間の身体」の対比で物語を紡いでいるように思った。身体は「人間の生」或いは「人間の性」の最も具体的で万人に与えられた身近な表現ツールである。そして、その身体の対比として描かれるのは、当時のプラハを含むヨーロッパの世相である。

終戦後の世界の混沌、つまり、冷戦のはじまり、社会主義の台頭、遠いアジアの戦争、言論の弾圧、芸術に対する検閲など、不穏で混沌とした世相を描きながら、同時にその大きな時代の流れに翻弄される4人の男女の恋愛を描く。リアルな肉体を持った4人の人間である。

幾人もの女の肉体を貪りながらプラトニックな愛を求め続ける男。幼少期の母親のトラウマから逃れるため一人の男の愛に執着する女。彼らが人生の途中に於いて、自らを律した思想とは相いれない精神的・肉体的困難に直面した時、その困難を乗り越える一つひとつの方法・手段も大変興味深く面白い。彼らの浮気や性愛、インモラルな情事などは全て、混沌の時代に肉体をもって対抗するための彼らなりの手段であり、必然であったと思わせる。それくらいに込み入った関係性(それは登場人物の人間関係だけでなく、世相と人間の関係も含む)を立体的に描いた長編だった。

ただ、少しばかり作者が顔を覗かせすぎている部分があり、そこが蛇足に思えた。読者の解釈に委ねるべき部分にまで作者が地の文で解説してしまうのは、もったいないと思った。

 

これをもし日本で映画化するなら、主人公は石田純一が最も適していると思ったが、年を取り過ぎているので却下だ。