松本雄貴のブログ

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83回目「いかれころ」(三国美千子:新潮社)

最近、本を読んでも映画を観ても感想を書く時間が無い。だから今回のブログは、以前、ある読書会に参加した際に、自分の感想をまとめた文章を少し編集して載せます。

 

一回読んだだけでは、登場人物の関係性が掴み辛く、2回読んだ。人物相関図を書いて読むと、とてもクリアに読めた。

一回目に読んだ時は、一人称の語り手が4歳の幼児であることに違和感を覚えた。閉鎖的な村社会での、どことなく不穏で陰湿な雰囲気、「家」という制度が内包している差別性、久美子の志保子に向ける悪意などを、感覚として認知はできても、ここまで高度に言語化するのは4歳児には無理だろう、という違和感である。

語り手が大人になってから4歳の頃の記憶を頼りに書いた、という設定だとしても、幼児の頃の記憶をこんなに鮮明に書けるのは、かなり記憶を補完する必要があり、一つ一つの描写にリアリティがあるが故に、それはリアルな記憶ではない脚色されたもの、という矛盾を感じた。つまり、描写が巧いが故の綻びを感じてしまった。

しかし、そんな矛盾は2回目の読了で消えた。相関図を片手に注意深く読むと人物の関係性がクリアになったおかげで、「4歳の私」を一人称にした語り口は、「いかれころ」という小説に、独得の効果を与えたのではないかと思い直した。閉鎖的な村での封建的な家族の関係、という一見すると通俗的なテーマに陥りそうな小説だが、それを幼児の視点で描く事で生々しさが緩和され、一種のファンタジーのように読めた。

父の隆志と叔母の志保子の関係も、ひょっとしたら恋愛関係にあるのではないか、というような「匂わせる程度」に書かれており、そこに読者が想像力を働かせる余地が残してある。・・・ように感じた。

もしこれが大人の視点から書かれた物語なら、隆志と志保子の関係も、もっと露骨で直接的に描かれそうだが、そうならない所が良かった。

ダイバーシティが声高に叫ばれる現代にあって、一昔前の結婚観や女性観を堂々と口にする登場人物たちにも、あまり嫌悪を感じないのは、やはりそれが幼児の視点からのもので、悪意のない無邪気さが含んでいるからだと思う。

個人的には、志保子が意味ありげに持っていた籠の中に、犬を久美子の写真、久美子と隆志の結婚式の写真が入っていたシーンに感動した。

また、「いかれころ」という狂人を連想させる言葉が、じっさいに精神を病んでいるとされる志保子ではなく、久美子や隆志、まだ見ぬお腹の中の妹に向けられた言葉であるところに、何か考えさせられるものがあった。