松本雄貴のブログ

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104回目「ボヴァリー夫人」(フローベール:新潮文庫)

この小説の主人公はエマという名前の女性である。エマの物語である。しかし、タイトルは『エマ』ではなく『ボヴァリー夫人』である。小説内では、エマの行動と心理が最も多く描かれているのにも関わらず、この著しく主体性を欠いたタイトルが興味深い。しかも、作中ではエマ以外にも「ボヴァリー夫人」と称される人物が二人いる(ボヴァリーの母親とボヴァリーの先妻)。タイトルと内容のバランスが些か悪い気がする。『ハムレット』を『クローディアスの息子』とか『オフィーリアの恋人』と呼ぶような感じの不当さである。

 

それで、粗筋を簡単に記すと、もともと空想好きでロマンティストであったエマが、医師シャルル・ボヴァリーの元へ嫁ぐ。娘が産まれる。エマは、なんの面白味もない結婚生活に飽き飽きしていた折、年下のレオンという青年と出会い、お互い淡い恋心を抱く。しかし、レオンとの不倫は未遂に終わる。その後、ロドルフという年上で女の扱いが上手いおっさんと出会い、たちまち不倫関係になる。エマはシャルルの目を盗み、幾度となくロドルフと情事を重ね、やがてロドルフと駆け落ちしたいと打ち出すが、自分の生活を破滅させたくない保守的なロドルフは、エマとの駆け落ちをあっさり断る。ショックを受け、精神的に追い詰められたエマだが、気晴らしに観に行った芝居の劇場で、かつて不倫未遂に終わったシレオンと再会する。二人は、たちまち不倫関係になり、レオンに会うために、エマは多額の借金をするようになる。やがて、借金が膨らみ、財産を差し押さえられ、レオンにもロドルフにも裏切られ、首が回らなくなり、気が触れて、しまいには砒素を飲んで自殺してしまう。と、いう内容。

フランス文学の名作とされる作品だが、内容は昼ドラと変わらない。通俗の極みのような小説だが、それ故、エンターテイメント性が強く、退屈せずに一気に読める。途中に、医療ミスや宗教談義などの余興もある。まさに、盛沢山のエンタメだ。

エマが破滅していくのは、いわば自業自得であり、理屈で考えれば読者がエマに同情する余地はないのであるが、なぜか読んでいる間中、エマに対する嫌悪感はなく、寧ろ哀れみを感じ応援したくなってしまうから不思議である。逆に、不倫の被害者であるはずの夫・シャルルには、嫌悪の情を抱いてしまう。シャルルは、浮気も不倫もせず、一途に妻を愛し、妻に優しく、妻を気に掛け、妻の機嫌を損なわず、つまり、常に妻を中心に考えて行動している、夫の鑑のような男である。真面目過ぎるが故に面白味に欠ける部分はあるが、それでも、女を欲望のはけ口としか思っていないロドルフに比べると、まさに聖人君子のような男である。最後の最後に妻の不貞を知った後でも、全てを赦してしまうくらいのお人好しなのである。本来、自分は「正直者が損をする世の中は間違っている」と考えており、そのセオリーでいくと、欲望のまま自由奔放に生きているエマが破滅するのを「いい気味だ」と思い、被害者である真面目なシャルルを救ってやりたい気持ちになるのが自然であるはずなのに、そのように感情が赴かないのはどうしてだろう、と考えた。すると、その理由がタイトルに行き着いた。

ボヴァリー夫人』である。結局、自由奔放に生きているように見せかけているが、真面目なだけで何の魅力もない「ボヴァリー」の「夫人」でしかない、という事実。タイトルが、すでにエマの悲劇を物語っているのである。つまり、不倫の被害者であるシャルルよりも、より一層の悲劇性を、エマは内包しており、その悲しみに無意識に触れたがために、エマに対して嫌悪ではなく、憐憫の情を持ったのだった。