松本雄貴のブログ

本。映画。演劇。旅。

96回目「バーバー」(コーエン兄弟監督)

ビリー・ボブ・ソーントン演ずるエドは、義兄の経営する床屋で雇われ理容師として働いている。寡黙に淡々と客の髪を刈る毎日。妻のドリスが会社の上司デイヴと不倫しているのもエドは黙認している。ある日、一人の男がドライクリーニング事業への投資話をエドに持ち込んで来た。エドは、怪しいと思いながらも、理容師として淡々と過ぎる刺激のない日常に虚しさを感じていた為、投資の話に乗っかる。しかし、事業を始めるには資金が必要。エドは、匿名でデイヴに「ドリスとの不倫を世間にバラされたくなければ金を用意しろ」と脅迫状を送る。困ったデイヴは、脅迫状を送った本人であるエドに相談する。脅迫した犯人がエドであることを知る由もないデイヴは脅迫状に書かれた通り、指定の場所に金を置く。こうして資金を手に入れたエドは、投資話を持ち掛けた男に金を全額預け、ドライクリーニングの事業を始める決意をする。その夜、デイヴから電話が掛ってくる。「重要な事だから会って話がしたい」とデイヴに言われ、エドはデイヴの事務所を訪れる。デイヴは、脅迫した犯人がエドだと気付いていた。二人は揉みあいになり、エドは突発的にデイヴを殺害してしまう。翌日、勤務先の床屋に刑事がやって来る。デイヴを殺害した罪で逮捕されるのを覚悟していたエドだが、実は逮捕されたのは自分ではなく、デイヴと不倫をしていた妻のドリスだった…。

ざっと説明すると、こんなお話。コーエン兄弟の映画は、よく殺人事件が起こる。その殺人が計画的なものであっても、突発的なものであっても、必ず人物たちの思い描くようには進まず、どこかで微妙な歯車が狂い、翻弄され、右往左往する。同監督の『ファーゴ』も、こういった系統のサスペンスでだが、主人公の間抜けさ、短絡的な行動などが滑稽で、シリアスなテーマを扱っているはずなのに、どことなく軽さを感じる。主人公のあまりの軽薄さに若干イラ付きもした。

そういう意味で、『バーバー』にはエドという人物に軽薄さはなく、どこか人生を達観している雰囲気に独得の渋さがあった。『バーバー』のエドにも、『ファーゴ』の主人公と同じく、胡散臭い投資話に引っ掛かったり、娘ほどの年齢の女に好意から要らぬ世話を焼いたり(後半で描かれるピアノの下り)、短絡的で間抜けな行動は描かれるのだが、不思議と不快感がない。『ファーゴ』の主人公が、事あるごとに焦り、苛立ち、右往左往しているのに対し、『バーバー』のエドは、自分に降りかかる運命に抗わず、全てを受け入れるようにどっしりと構えている。ここが渋くて良い。とりわけ、ビリー・ボブ・ソーントンの「沈黙の演技」が、この渋さを作り出している。とにかく寡黙である。対して『ファーゴ』の主人公の饒舌は少し鬱陶しい。

同じ監督の映画で、似たようなテーマを扱っているにも関わらず、以上のような理由で、自分は『ファーゴ』よりも『バーバー』を推す。

バーバー(字幕版)

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94回目「オール・アバウト・マイ・マザー」(ペドロ・アルモドバル監督)

数年前に初めて観た時は、途中で10分ほど寝てしまった。当時は少し睡眠不足で疲れていたのである。そのため、ストーリーを見失った。ストーリーは見失ったが、断片的ないくつかのシーンは、強烈に記憶に残っていた。アルモドバルの映画は色気がある。耽美的である。しかし、日本の耽美的な文学作品のように、ジメジメした感じはない。太陽のように明るく、カラッと乾いている。濡れながら乾いているような感じがするのである。かなり際どい題材を扱っており、ともすれば露悪的になりかねないのに、気品を感じるから不思議である。

この度、数年前に途中で寝てしまった「オール・アバウト・マイ・マザー」に再チャレンジした。今回は、体調も万端だったので、途中で寝る事はなかった。しかし、ストーリーを完全に理解はできなかった。難解なわけではないが、展開が早く、こちらの理解がなかなか追い付かないのである。

注意深く見ると、おかしなところが多々あるのに気づく。

一人息子を事故で亡くした母親が、昔の友人や偶然出会った尼僧と共に力強く生きていく、みたいな話である。

以下、分からない点。

息子が死んだ経緯。好きな舞台女優に話しかけようと車に駆け寄ったその瞬間、別の車に跳ねられた。これが息子の死因だが、かなり唐突だった。

その舞台女優が演じる舞台。テネシー・ウィリアムズの『欲望いう名の電車』なのだが、相手役の女優が、ドラッグ中毒で出られなくなり、急遽、ただの観客にすぎない母親が代役として舞台に出る。現実ではありえないが、映画では普通の事として描かれる。

恐らく偶然出会ったペネロペ・クルス演じる尼僧。妊娠しているのだが、お腹の中の子の父親は、なんと主人公の元夫と同一人物。すごい偶然である。

以上のような、理屈で考えるとどうしても納得できないエピソードが、次々と起こり、そのスピードを維持したままラストまで駆け抜ける。そのスピード感がすごい。「頭で理解しよう」とする観客を手玉に取り翻弄するような挑発的な映画である。「脚本がご都合主義的」とか「重要な部分の説明を省力し過ぎ」といった、安易な批判は簡単にできる。そんな安易な批判など、屁とも思わない懐の深さのようなものが、この映画にはある。

このスピード感と、アルモドバル映画特有の「ポップな耽美さ」を体験できる稀有な映画であった。

 

93回目「イエスタデイ」(ダニー・ボイル監督)

ビートルズについては、一応、代表曲とメンバーの名前くらいは知っている。東洋思想とかヨガに嵌ってインドのリシュケシュという街に滞在していた、という噂も聞いたことがある。でも、自分がビートルズについて知っていることは、それくらいだ。なぜか、ビートルズに関しては、あまり彼らの作った音楽を聴きたいと思わないのである。興味が湧かない。子供の頃、音楽の授業で「イマジン」を聴いたが、良いとは思わなかった。ありがちで偽善的な歌だなぁ、という感想しか持たなかった。それはビートルズの責任ではなく、捻くれた自分の性格のせいである。

そういう自分だから、この映画を真っ当に評価する資質はないように思う。ビートルズは世界中の誰もが知っている最も偉大なミュージシャン、という前提で作られた映画なので、その前提に当てはまらない自分のような人間は、お呼びでないのかもしれない。

と言いつつ、この映画はとても楽しく拝見できた。

売れないミュージシャン志望の青年が主人公である。ある日、世界中で停電が起き、数秒後に復旧したら、青年以外の誰もがビートルズを知らない世界になっていた、という設定である。この設定がまず面白い。青年は、誰もビートルズを知らないのを良いことに、ビートルズの作った曲を、さも自分が作った曲のように唄う。青年はビートルズの存在しない世界で、自分だけが知るビートルズの曲を唄うことにより成功する。そこに恋愛や、大衆に受ける曲を歌わそうとする周りとの葛藤などを織り込んだ、すこぶる楽しい映画だった。

それで、一番の成功は、自分のような捻くれた人間にも「ビートルズの曲をもっと聴いてみたい」と思わせたことだろう。

イエスタデイ (字幕版)

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91回目「鳥」(アルフレッド・ヒッチコック監督)

動物を見た時、「かわいい」と思うと同時に何とも言えない不思議な気分になることがある。例えば、猿回しの猿が、芸をするのを見た時。彼らは、確実に人語を理解し、人間との意思疎通もできる。仕草や表情なんかを見ても立派な感情を持った生物であることが分かる。しかし、彼らは話せない。言語がないのである。感情があるのに言語がないというのは、どういうことなのだろう。「嬉しい」とか「悲しい」と感じても、「嬉しさ」「悲しさ」を表現できる言葉がない。「嬉しさ」「悲しさ」といった概念は頭の中に確実に存在するのに、それを言語化できない。概念と言語を繋ぐ橋がないのである。そして、この橋がない状態が動物にとってはスタンダードなのだ。競馬を見ても、変な気持ちになる。競馬という競技が成立することが、なんだかとても不思議なのだ。F1レースなら分かる。車という機械を人間が動かす。アクセルを踏めば車が発信する。車には感情なんて無いから、アクセルを踏めば、車が発信するのは科学的に何の矛盾もない。当たり前の事として成立する。しかし、同じことが車ではなく馬で成立してしまうことが、自分には不思議でならないのだ。馬は車と違い感情がある。だから、騎手にどれだけの技術があっても、馬が「走りたくない」と思えば、成立しないはずだ。それなのに毎回、馬は走る。何故なんだ?と、結構真剣に思うのである。馬はとても賢い生物で、人間が作った競馬のルールを理解し、人間が自分たちに求めていることも理解しているから、あのように走るのだろうけれど、そこまでの知能を有しながら、言葉を持たないというのが不思議なのだ。

動物を見た時に感じる不思議さは、まだある。夕方に電線に止まっている燕の群れ。何百匹もの燕が等間隔に並び、誰が合図した訳でもないのに一斉に飛び立つ。あの一糸乱れぬ隊列を見た時、猿回しや競馬を見た時とは真逆の不思議さを感じる。個別の燕には生き物としての心がある。しかし、集団で飛び立つあの規則的で美しい動きには、猿や馬に見る感情がない。あらかじめ動きをプログラムされたロボットのようだ。高度な感情と知能を有しながら言葉を持たない猿や馬を見た時のなんとも言えない感じではなく、燕のあの動きには、感情を一切持たない機械的な冷たさがある。情緒を全く感じないのである。故に、とても不気味なのだ。

ヒッチコックの代表作であり、パニック映画の原点ともいえる『鳥』の恐さは、燕の群れを見た時に感じる不気味さに通じるものがある。映画の見どころは、鳥たちが本格的に人間を襲撃し始める中盤以降。徐々に数が増え、知らない間に群れをなし、人間に襲い掛かる。無駄な感情を一切持たず、人間を襲う冷徹さ。夕刻に見る燕の群れと同じく、あらかじめ行動がプログラムされたロボットのようであり、しかもプログラムの内容は「人間を襲う」という一点に集中されている。シンプルで精緻あるが故にとても怖い。

そんな『鳥』だが、描かれる人間ドラマは正直よく分からなかった。登場人物たちの行動が、現代人の常識と照らし合わせると、とても不自然だ。ペットショップで会った見知らぬ男に、鳥を届ける女。男の方は女の名前を知っており、初対面であるはずの女は不信感を抱くのに、その男の妹の為に「ラブ・バード」なる鳥をサプライズで届けるのである。しかも、父親に依頼して、車のナンバーから男の住所を割り出すなど、まるでストーカーである。最初は名前を知っていた男がストーカー気質かと思ったが、女の行動の方が異常だ。また、部外者の癖に、小学校に普通に侵入するし、この映画の世界には、個人情報とかセキュリティとかの概念がないのだろうか。「ラブ・バード」にしても、何かの伏線になるのかと思ったが、結局なんでもない。

ラストは好きだ。特にオチはないが、終幕感の漂う終わり方が映画の不気味な世界観を象徴しているようで良かった。

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90回目「ザ・ロック」(マイケル・ベイ監督)

ショーン・コネリーニコラス・ケイジ主演のハリウッド映画。

テロリスト達(元米軍海兵隊)が、アルカトラズ島に一般観光客を拉致し、政府に身代金1億ドルを要求する。テロリストたちは、要求を飲めない場合、VXガスを搭載したミサイルを市街に打ち込むと脅迫する。人質救出とミサイル解体の為、立場の異なる2人(ショーン・コネリーニコラス・ケイジ)がテロリスト達に立ち向かう。簡単に言えば、そんな内容の映画。

娯楽超大作あり、特に捻りの無い有りがちなストーリーだけど、それ故に退屈することなく最後まで観られる。派手なアクションシーンは、それなりに楽しい。こういう言い方は失礼かもしれないが、「暇潰し」として観るのに丁度良い映画だと思う。

ただ、こういう映画を観る時に少し引っ掛かる事がある。自分は、人様が作った物に対して偉そうに批判できるような立派な人間でない事は重々承知しているので、これは批判ではなくて、純粋な疑問である、という言い訳を先に述べた上で、この手のハリウッド映画を観て感じる違和感を書く。

この手のハリウッド映画を作る監督、或いはハリウッドのプロデューサー達の目には、この度のウクライナの惨状がどのように映っているのだろう。「これも映画にできる」とか「いつか映画にしてやろう」とでも思っているのだろうか。その事について、「そんな不謹慎な事を思うなんて間違っている」と綺麗事を言うつもりは、毛頭ないけれど、「少し節操がないのでは?」とも思ってしまう。

話しは少しずれるが、ハリウッド産の戦争映画を観た時に、いつも覚える違和感がある。戦争映画の作り手たちが「戦争の悲惨さを伝えたい」と、自分たちの映画の意義を(取って付けたように)説明することがあるが、戦争が存在しなければ、そもそも戦争映画は作れない。自分たちも映画という形で戦争を興行の手段としている。その事の欺瞞性に、本人たちは気付いているのだろうか。気付いていて敢えて撮っているのなら、それは或る意味、立派なのだと思う。気付かずに、自分たちは「平和を唱える善意の第三者」という立場で戦争映画を撮るのは、最も性質の悪いことだと思う。

そのような事を批判染みて書いている自分もまた、自覚の無いままに「善意の第三者」の側に立ってしまう事があるかもしれない。そうならない為に、気を付けなければいけない。世界に目を向けるのと同時に自分自身も注意深く監視することも必要ではないだろうか。

 

89回目「自由の幻想」(ルイス・ブニュエル監督)

昔、ダウンタウンのコントに『実業団選手権』というのがあった。小学生の時に初めて見て爆笑した。しかし、このコントの面白さを文章で伝えるのは困難だ。「面白さ」には言語化が可能なものと、そうでないものがある。映画でも小説でもお笑いでも、粗筋があるものは、「面白さ」を第三者に伝えやすい。なんなら、粗筋を最初から最後まで紹介するだけで、内容は伝わる。逆に『実業団選手権』のようなコントは「取り敢えず見て下さい。面白いから」としか言えない。「ボケたらつっこむ」という「お笑いのセオリー」のようなものから遠く離れた場所にある笑いで、これを笑えるかどうかは、見る者の感覚に大きく依拠するように思う。

ルイス・ブニュエルの『自由の幻想』は、『実業団選手権』と似ているかもしれない。「映画の粗筋とは、こうあるべきだ」という世間の常識から、大きく逸脱している映画であった。まさに、常識に捕らわれずに自由に撮っている。とても不埒で危険なものを見ている感じである。などと書いたが、やはり自分の文章力では、なかなかこの映画の面白さを上手に説明できない。例えば、夢の話のように単に荒唐無稽なだけではない、常識的な映画以上に規律を重視しているような感じもある。この規律の部分がきちんとしているからこそ、自由が際立つのだろうか。

この映画の中で、比較的、面白さを文章化し易いシーンを以下に紹介してみる。

学校内で女児が行方不明になった。連絡を受けた両親が学校へ行く。担任の教師が、女児が行方不明になった経緯を両親に説明する。両親は、当然不安になり心配する。そんな様子を見ていた女児が「私ならここにいるよ」と両親のもとに駆け寄る。しかし両親は「今、あなたが行方不明になっているのだから、それどころじゃない。少し静かにしていて」と女児に言う。両親は、行方不明の女児を捜索するように学校長に言う。学校長は、行方不明になった女児の特徴や服装を、目の前にいる女児を見ながら調書に書き込む。何日経っても女児の捜索は終わらない。

というもの。古典落語的で比較的分かりやすい。女児が目の前にいるのに女児が行方不明であることのナンセンス。これが笑い所なのだけど、やはり文章にしても面白さは伝わりにくい。

不思議なのは、こんなデタラメな世界なのに、「子供が行方不明になると親は心配する」という常識は一応、持っているのである。これが「規律」にあたる部分であり、この規律さえも無くなってしまえば映画は成り立たなくなってしまう。自由を自由に自由たらしめるには、規律は必要なのだ。なんのこっちゃ。

で、ここまで書いて、この「規律」さえも取っ払っているのに、きちんと作品として成立している短編を思い出した。筒井康隆の『最悪の接触』という小説。この面白さも自分の文章力では表現できない。『実業団選手権』『自由の幻想』『最悪の接触』、これらの面白さを感じてみたい人は、是非、ご自分の目で…。

 

86回目「激突!」(スティーブン・スピルバーグ監督)

一台の赤い乗用車がアメリカの田舎道を走っている。片道一車線である。運転手は普通の中年男性。カーラジオを聞きながら、たまに車内で独り言を呟いている。後方にチラチラと大型タンクローリーが見えるが、別に気にならない。よくある光景である。途中、中年男性は給油のためガソリンスタンドに立ち寄る。少し後に、先のタンクローリーもガソリンスタンドに入る。男の給油が中々終わらないのに業を煮やしたのか、タンクローリーが、クラクションを鳴らす。ここら辺から、少し不穏な空気が漂い始める。

給油が終わり、家路に向う中年男性。ここから本格的にタンクローリーの執拗な嫌がらせが始まる。嫌がらせとは、すなわち「煽り運転」である。終始一貫して、タンクローリーが乗用車を煽る行為が描かれる。映画の9割が、タンクローリーによる煽り運転のシーンである。煽り運転の極致といっていい。シンプルこの上ない映画である。しかし、全く退屈させない。90分間、常にハラハラドキドキさせられる。あの手この手を使って、タンクローリーは乗用車を煽るのである。「激突!」というタイトル通り、派手なカーチェイスもある。もちろん、車同士の派手な衝突や爆発も面白いが、それよりも心理面での追い込み方が面白い。乗用車を運転する中年男性が、徐々に神経を消耗していく様がリアルだった。

ひょっとしたら「タンクローリー」は存在せず、中年男性の内なる不安やストレスがもたらした幻想なのではないか、とか、「タンクローリー」とは現代人が抱える不安のメタファーではないだろうか、なんて文学的な深読みもしたが、中年男性以外の登場人物も「タンクローリー」を認知しているため、やはり「タンクローリー」は純粋かつ物理的に存在し、中年男性を攻撃しているのである。しかも、何故かくも執拗にタンクローリーが乗用車を煽るのか、その理由が一切描かれないのも恐い。動機のない純粋な悪意でもって物理的に人を攻撃する。もっとも関わりたくないタイプの悪意である。さらに、タンクローリーを運転するドライバーの顔が一切見えないのも恐い。この演出によって、タンクローリー自体が明確な悪意を持ったモンスターのように見えるのである。

これは、スピルバーグの初期の作品である。シンプルな設定で映画を面白くする要素が、凝縮されているように思う。皆さんも、車を運転するならドライブレコーダーは付けた方がいいですよ。