松本雄貴のブログ

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94回目「オール・アバウト・マイ・マザー」(ペドロ・アルモドバル監督)

数年前に初めて観た時は、途中で10分ほど寝てしまった。当時は少し睡眠不足で疲れていたのである。そのため、ストーリーを見失った。ストーリーは見失ったが、断片的ないくつかのシーンは、強烈に記憶に残っていた。アルモドバルの映画は色気がある。耽美的である。しかし、日本の耽美的な文学作品のように、ジメジメした感じはない。太陽のように明るく、カラッと乾いている。濡れながら乾いているような感じがするのである。かなり際どい題材を扱っており、ともすれば露悪的になりかねないのに、気品を感じるから不思議である。

この度、数年前に途中で寝てしまった「オール・アバウト・マイ・マザー」に再チャレンジした。今回は、体調も万端だったので、途中で寝る事はなかった。しかし、ストーリーを完全に理解はできなかった。難解なわけではないが、展開が早く、こちらの理解がなかなか追い付かないのである。

注意深く見ると、おかしなところが多々あるのに気づく。

一人息子を事故で亡くした母親が、昔の友人や偶然出会った尼僧と共に力強く生きていく、みたいな話である。

以下、分からない点。

息子が死んだ経緯。好きな舞台女優に話しかけようと車に駆け寄ったその瞬間、別の車に跳ねられた。これが息子の死因だが、かなり唐突だった。

その舞台女優が演じる舞台。テネシー・ウィリアムズの『欲望いう名の電車』なのだが、相手役の女優が、ドラッグ中毒で出られなくなり、急遽、ただの観客にすぎない母親が代役として舞台に出る。現実ではありえないが、映画では普通の事として描かれる。

恐らく偶然出会ったペネロペ・クルス演じる尼僧。妊娠しているのだが、お腹の中の子の父親は、なんと主人公の元夫と同一人物。すごい偶然である。

以上のような、理屈で考えるとどうしても納得できないエピソードが、次々と起こり、そのスピードを維持したままラストまで駆け抜ける。そのスピード感がすごい。「頭で理解しよう」とする観客を手玉に取り翻弄するような挑発的な映画である。「脚本がご都合主義的」とか「重要な部分の説明を省力し過ぎ」といった、安易な批判は簡単にできる。そんな安易な批判など、屁とも思わない懐の深さのようなものが、この映画にはある。

このスピード感と、アルモドバル映画特有の「ポップな耽美さ」を体験できる稀有な映画であった。