日々の読書日記

読書の忘備録です

85回目「秘密と嘘」(マイク・リー監督)

数年前にカンヌでパルムドールを受賞した映画。前回のブログで中上健次の『枯木灘』を取り上げた。『枯木灘』を読了して数日後に観たのが、このマイク・リー監督による『秘密と嘘』である。どちらも登場人物たちを取り巻く「複雑な血縁関係」が作品のベースになっており、立て続けに鑑賞すると両者が少しダブった。

久しぶりに良い映画を観た。ストーリーはネットに紹介されているので敢えて詳細には語らない。黒人の娘と白人の母が邂逅する話。そして、母と娘が出会った後の数日が描かれる。役者の演技も、後半の家族・親戚が揃うバーベキューのシーンも、兎に角素晴らしいのだが、実は自分が最も心を掴まれたのは、メイン・ストーリーとは関係のない、サブ・ストーリーのようなシーン。

写真屋を営む弟が、カメラスタジオで客の撮影をするシーンがとても印象に残る。被写体は、老夫婦とか子供とか仲良し紳士たちとか三つ子とかボクサーとか、バラエティーに富んでいる。全体的に重い映画だが、スタジオで写真を撮るシーンは異色。この異色さが、映画にメリハリを付けているような気がした。ここで自分が感じた印象を文章化するのは難しい。とにかく、ストーリーとは全く関係がなく蛇足とも思われるような一連のシーンが、なぜか深く自分の心に残るのだった。

短いけど今日はこの辺で。タイトル以外は、本当に良い映画です。

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82回目「ダウン・バイ・ロー」(ジム・ジャームシュッ監督)

先日、テレビで「日本人が好きな映画ベスト100」という番組を見た。その名の通り、日本人が好きな映画をランキング形式で順に紹介していく番組で、時折、パネラーが見た事のある映画についてコメントを挟む。番組には特に何の不満もないが、まあ予定調和な内容だった。予定調和というのは、別に悪い意味ではない。ランクインした映画はベタなものから、通好みのする少しマニアックなものまで幅広かった。とてもバランスが良く、色んな方面に気を遣った感じが出ていた。そのバランスの良さが予定調和な内容に繋がったのかもしれない。バランスは良いのだけれど、やはり、バランスの良さの中にも少しばかり偏りがあった気もする。しかし、それを批判するつもりはない。製作者も人間である。偏って当たり前だ。ゴールデンのバラエティー番組だ。見ていて肩のこらない気軽に消費できる番組でいいのだ。そもそも、映画に限らずランキング番組というのは、お手軽さが売りのはずである。それに対して批評するのも野暮なのだ。

それでもやはり、この手のお手軽なランキング番組が濫立するのは、少し危惧した方が良いような気もする。そもそも安易に物事の順位付けをするのは、傲慢であり且つ人間の知性に逆行する行為ではないだろうか。と、批判するつもりは無いと言いながら、批判じみたことを書いてしまった。

ともあれ、ランキングされた100本の映画の中に、ジム・ジャームッシュの映画は1本も入っていなかった。自分的には意外だった。例えば、ジブリ映画がランクインされるのは分かる。まあ、入るだろう。『タイタニック』や『ホームアローン』が入るのも、同じ理由で理解できる。ベタだから入るのである。ランキングでは、こういうベタな映画を押さえておく必要がある。一方、ベタなものばかりだと、先に述べたバランスが悪くなるので、マニアックな映画も入れる必要がある。『時計仕掛けのオレンジ』や『セブン』などが入っていたのは、その点を配慮した結果だと思う。だったら同じ理由でジム・ジャームッシュの映画も1本くらい入れればよかったのに、と思うのである。というのは、自分はジャームッシュの映画は「通好みの映画の中でベタ」な映画の筆頭だと思っているからだ。「好きな映画、何?」と聞かれた時にジャームッシュ映画のどれかを答えておけば、まあ無難である。分かりやすいエンタメ性とお洒落な芸術性を兼ね備えている。「ジャームッシュの映画が好き」と言っておけば、映画通に馬鹿にされる心配もないし、あまり映画を観ない人にも気軽に勧められる。「好きな映画」なんて人それぞれだし、それを答えた時に他人にどのように思われるかを考える事自体が、無意味で卑屈な事には違いないが、ジャームッシュ映画には、そういった性質があることも確かである。

ところで、「日本人が好きな映画ベスト100」の一位を飾ったのは『ショーシャンクの空に』だった。無実の罪で捕まった男が脱獄する話である。内容はジャームッシュの『ダウン・バイ・ロー』と同じである。『ショーシャンクの空に』は確か、中学生の時に観た記憶がある。それなりに感動したのを覚えている。それは、『ショーシャンクの空に』が中学生にも感動できるように撮られた映画だからだと思う。観客が感動するような工夫が脚本にも演出にも取り入れられた結果であろう。その工夫に素直に乗っかり中学生の自分は感動したのである。

ダウン・バイ・ロー』は、つい先日、映画館で観た。こちらも感動した。しかし、『ショーシャンクの空に』を見た時の感動とは、全く性質の異なる感動であった。『ダウン・バイ・ロー』は、そもそも観客を感動させようとして撮られた映画ではない。3人の男たちが脱獄するきっかけや、その方法は見事に省略されている。脱獄映画の醍醐味といってよい部分を大胆にカットしている。ストーリーも淡々と進むし、起伏や伏線があるわけでもない。しかし、交わされる台詞のユーモアと、一つ一つの画にセンスが光っており、「感動する映画」を見せられた時以上の感動を味わえる。強引に観客を感動させようという映画が蔓延っている中、ジャームシュッの映画は清々しくて瑞々しい。とても稀有な映画だった。

 

80回目「ソードフィッシュ」(ドミニク・セナ監督)

映画を観ながら、映画の本筋とは殆ど関係の無いことを三つ考えてしまった。何を考えたかを、下らない順に紹介する。

一つ目は、ジョン・トラボルタという俳優についてある。

ジョン・トラボルタ・・・。不思議な俳優だと思う。自分はジョン・トラボルタの顔を見ると何故か笑いそうになるのである。シリアスなシーンでも、ジョン・トラボルタの顔が画面に映ると笑いそうになる。別に、取り立てて変な顔ってわけでもないのに、なぜこうも笑ってしまうのか。あの髪型のせいだろうか。彼の顔がクローズアップされると、とたんに画面が漫画的になるような気がする。昔、ジー・オーグループという会社を経営していた胡散臭いおっさんに、ジョン・トラボルタはなんとなく似ていて、そこら辺も妙に笑ってしまいそうになる一因なのかもしれない。

二つ目は、エロスとタナトスについて考えたのである。

エロスというのは「生」に対する欲望。タナトスとは「死」に対する欲望である。この二つは表裏一体で、エロスの方は「生」よりも「性」といった方がしっくりくるかもしれないが、どちらも相反する欲望ながら人間の中に存在するのである。『新宿スワン』という漫画があって、スカウトマンの話なのだけど、後半は殆ど暴力団の抗争の話になる。暴力団の一人に灰沢という男が出てくる。この灰沢の台詞に「森永が生きてれば俺の負け。死んでれば俺の勝ち。・・・まさに命の極(きわ)!射精(イっち)まいそうだぜ」というのがある。(正確ではありません)要するに、賭けに勝ったら生き残るけど負けたら殺されるという極限の状態にエクスタシーを感じている場面で、こういうのがエロスとタナトスの表現として面白いと思ったのだが、『ソードフィッシュ』にも同じようなシーンがある。ヒュー・ジャックマン扮する主人公が、「政府のデータベースを1分以内にハッキングしろ」とジョン・トラボルタに脅されるシーン。頭にはピストルを向けられている。下半身は美女が口で自分のナニをナニしている。この状態で冷酷にもカウントダウンが始まる。このシーンを観た時に、ヒュー・ジャックマンの顔に灰沢の先の台詞が自分の中にアテレコされたのである。エロスとタナトスである。

三つ目は、テロリズムと自己犠牲、という主題を考えたのだが、長くなりそうだし面倒くさいから、今日はこの辺で。

気が向いたら、追記します。

 

78回目「ダージリン急行」(ウェス・アンダーソン監督)

ウェス・アンダーソン監督の映画を最初から最後までちゃんと観たのは、この『ダージリン急行』が初めてだ。過去に『グランド・ブダペスト・ホテル』と『ムーンライズ・キングダム』を途中まで観てやめてしまった。なんとなく映画のテンションについていけなかったのだ。独得で個性的な世界観を持った監督だと思ったが、自分には合わなかった。『ダージリン急行』も、やはり自分には合わなかった。最後まで観るのが苦痛だった。90分程の映画だが、時間以上に長く感じた。特に後半の3兄弟の列車を降りてからの展開が異様に長く感じた。

それでも、なんとか最後まで観た。苦痛を感じたけれど、「面白くない」とは思わなかった。こういう感覚も珍しい。「まぁ面白いんだけどなぁ…」の「…」の後に続く感想が出てこない感じだ。

長らく疎遠だった3兄弟が、関係を修復するために一緒にダージリン急行に乗ってインドを旅する話。3兄弟は皆、それぞれの事情を抱えているのだが、その事情がどうにも薄口で観る者に訴えかけてこない。その事情とは、例えば、出産間近の妻と離婚したがっているとか、別れた恋人を忘れられないとか、交通事故に遭い顔に包帯を巻いているとか、そういう類の事情で、その後の展開に深く関わるわけでもない。会話の中の簡易な台詞一言で説明されて終わるだけである。別に深刻な事情が見たい訳ではないが、もう少し奥行きを持たせた方がよかったのではないか。或いは、深刻さとは無縁の「軽さ」を意図していたのだろうか。だとしたら、もっと「軽さ」を徹底的に追及して欲しいと思った。観た限りでは、さして深刻でもないネタを並べ立てて空回りしている印象しか残らなかった。ヒマラヤで尼僧になった母親というのも、どこまでがギャグなのかよく分からなかった。川で溺れた少年が死に、その家族の葬儀に招待されるという展開もあまり必要性が感じられなかった。全体的にとてもスムーズに話が進むのに爽快感を感じないのは、そもそも挿入される物語が平板に過ぎ、観る必要のないものを観させられている感じがしたからだ。その平板な物語にもう少し監督の拘りがあれば、印象も大きく変わったかもしれない。一つひとつの画面作りはとても上手くセンスがあるのだが、この拘りの無さが勿体ないと思った。例えば降り立った街で靴磨きの少年に靴を片方盗まれるシーンも、インドの露天商の実態を知っていれば、あり得ないシーンである。商売道具を置いたまま片方の靴を盗んで逃げるなんて愚挙をするはずがない。こういう部分にもっと拘りを持って撮って欲しいと思ったのだ。

画面作りが上手くセンスがあると書いた。これは、過去に途中で観るのをやめた『グランド・ブダペスト・ホテル』と『ムーンライズ・キングダム』も同様だ。途中で観るのをやめたが、映像美の印象だけは今でも覚えている。特に、この『ダージリン急行』は、ウェス・アンダーソン独得の色彩にインドの街の猥雑さと混沌さがとてもよく合っている。そういうのもあって、最後まで観れたのだと思う。

 

76回目「パッション」(ブライアン・デ・パルマ監督)

ゴダールメル・ギブソンも同名の映画を撮っている。今回は、ブライアン・デ・パルマの『パッション』である。当たり前だが、他の『パッション』と内容は全然違う。3つの『パッション』の中では、エンターテイメント色が強く、一番見やすいのではないだろうか。

アルモドバルの映画を薄口にした感じの印象を受けた。上司(女)と部下(女)と愛人(男)の三角関係もアルモドバルの映画ほどドロドロとはしていないし、後半のミステリー仕立てもアルモドバルの映画ほど込み入っていない。それ故に、若干の物足りなさはあるが、無駄がなくスピーディーに話が展開するので、最後まで退屈することなく観ていられる。

しかし、この映画に出てくる女性上司は本当に嫌なやつで、先に「若干物足りない」と書いたが、この女性上司の「嫌な奴具合」は、物足りないどころか、かなり突き抜けており、彼女の奸計に嵌った部下の女性は本当に観ていて同情した。つまり「嫌なやつ」の描き方の巧さに舌を巻いたのである。「嫌なやつ」は相手が嫌がる事をするから「嫌なやつ」になる。「嫌なやつ」を描きたければ同時に「相手が嫌がる事」を考えなければいけない。自分のような常人には、せいぜい「陰口を叩く」とか「根も葉もない噂を流す」とか、そのレベルの事しか思いつかない。『パッション』で描かれる「相手が嫌がる事」は、そんなレベルを優に超えており、相手を再起不能の状態にまで叩きのめす。人の尊厳を徹底的に踏みにじる。映画を観ていて不快な気分になると同時に、「よくこんな酷い仕打ちを思いつくなあ」と殆ど感心したのだった。少し前に触れた『悪い種子』という映画の少女が、大人になったら、こんな女になるのだろうなぁ、と思った。

この女性上司の嫌がらせと執念に、まさに映画のタイトルである「情熱」を感じたのだが、復讐する側の女性部下には、その復讐の方法も含めて、女性上司に感じた程の情熱は感じなかった。ラストも、なんとなく消化不良だった。

 

74回目「サイドウェイ」(アレクサンダー・ペイン監督

たまに観たくなる映画の一つ。

マイルスとジャック。2人の中年男の珍道中を描いたロードムービー。マイルスは小説家志望だが、まだ夢は叶わず教師として生計を立てている。ワインに造詣が深い。恋愛は奥手で不器用。繊細な性格。

ジャックはテレビ俳優でプレイボーイ。浮気性。ジャックの独身最後の記念として、2人で気ままなドライブをすることに。その道中、マイルスはマヤという女性と出会い恋に発展する。

男の友情と男女の恋愛が描かれるが、平板な展開でストーリーに起伏はない。一週間という明確な時間が設定してあり、それぞれの章は「月曜日」「火曜日」という具合に曜日で区切られる。この演出が、これといった事件が起こるわけではないのに、ちょっとした余韻を残してくれる。夜中、不器用なマイルスがやっとマヤと結ばれる。2人が家の扉の前でキスをし、2人はそのまま家の中へ。カメラは2人を追わず、外の方向にパンしたまましばらく固定。やがて夜から朝になり、マヤが一人外に出て微笑みながらコーヒーを飲む。そのシーンで「木曜日」のテロップが入る。自分的にはここが『サイドウェイ』のクライマックスで一番好きなシーン。その後も映画は二転三転あるのだが、オマケみたいなもの。敢えて結末をはっきりさせないラストも好き。男2人のドタバタでコメディ色が強いが、甘いだけではないビターな大人の恋愛映画だ。

自分は正直、恋愛映画が苦手だ。他人の恋愛模様を見せられても鼻白むことが殆どだ。『バッファロー66』のような少し特殊な恋愛映画や、どこか壊れた人間が描かれる恋愛、或いは見た目がエログロでも実は途轍もなくプラトニックを描いた恋愛映画などは見ていられる。しかし、美男美女を主役にしたオーソドックスな恋愛は、恥ずかしくて見ていられない。『サイドウェイ』は、そういう意味ではオーソドックスな恋愛を描いている。だけど、何故か自分の琴線に触れるから不思議だ。

マイルスとジャックの友情も、2人の性格の違いが軸になっている。性格が真逆な者同士はウマが合う、というとてもベタな設定だが面白い。ベタ故に面白いのかもしれない。男2人の関係はニール・サイモンの『おかしな二人』に似ている。

実際問題、性格が真逆な人っているのだろうか。人の性格って、明確に分けられるほど、はっきりしているわけではないと思う。自分だって、或る友人からは「単純で分かりやすい」と言われる。でも別の友人からは「気難しくて何を考えているか分からない」と言われる。がさつな人にだって繊細な部分は絶対あるし、そもそも、人間関係なんて演技の連続ではないだろうか。人は如何に他人に本当の自分を見せないか、という事に腐心している生物ではないだろうか。

そういう意味で、『サイドウェイ』も『おかしな二人』も実は平板な人物しか描いていないのではないだろうか、という不満を持っているけれど、どちらも面白いと思ってしまう自分は、やはり友人が言うように「単純で分かりやすい」人間なのだろうか。まあ、どうでもいい。映画でも演劇でも小説でも面白ければ、それでいいのだ。それ以上考える事は野暮なのだ。おぼん師匠とこぼん師匠は似ていると思う。

 

 

73回目「悪い種子」(マーヴィン・ルロイ監督)

1956年公開の映画。まず原作の小説があり、次いでブロードウェーで舞台化され、最後に映画化された。その後、別の監督でリメイクされている。知ったような書き方だが、全部ウィキペディアで調べた情報である。原作小説は読んでいないし、舞台はもちろん観ていない。先日、適当にテレビをザッピングしていたらBSプレミアムでやっていた。正直、夜も遅いので見るつもりはなかったのだが、ダラダラと最後まで見てしまった。

無論、自分をテレビの前に留まらせたのは映画の力である。兎に角、主役の子供の演技が目を見張る。

ローダという名の小学生の女子が主人公。

映画は、どこにでもある家庭の朝の団欒から始まる。ピアノを弾いたり父母に元気よく挨拶したり、最初は活発で少しませた所のある子供という感じでしかないのだが、それも束の間。話が進むうちに、父母たちに向って発せられるローダの言葉の量が、異常なくらい多いことに気付く。ちょっと口が達者な子供というレベルをはるかに超えた異常さを感じる。この時点で、自分の心は映画に掴まれた。しかし、最初の内は子供から発せられる言葉の量が異常に多くても、内容自体は子供らしいと笑っていられる可愛いものだ。それが、ローダの同級生が死んだというニュースがラジオで流れた辺りから、ローダの言葉から子供らしい可愛さが消え、同時に薄気味悪さが芽生える。

同級生の死とは、ローダが同級生を殺害した事を意味する。この映画はミステリーではい。ローダが犯人であることは明白に分かる。動機は「書き方のメダルが欲しかったから」というもの。小学校の授業の一つである「書き方」にローダは自信を持っていた。メダルを貰えるのは当然、自分だと思っていた。しかし、書き方のメダルを貰ったのは同級生の男の子であった。ローダはその事に納得できない。だから同級生を殺害しメダルを自分のモノにしたのである。

小学生がクラスメートを殺害するという事件がそもそも異常なのだが、『悪い種子』という映画はそこの異常さには殆ど焦点を充てていない。事件が発覚しそうになった時、冒頭から一切テンションの変わらない饒舌で周りの大人たちを煙に巻く、その言葉のエネルギーの異常さ。そしてそのエネルギーの発生源が可憐な見た目の女の子という異常さ。要するに『悪い種子』は異常な映画なのだ。この異常さは意志の強さと直結する。ローダは「欲しいものは何が何でも絶対に手に入れる」「世界は自分が中心に回っている」という確固たる信念を持っている。一点の曇りもない。もしローダが大人なら、単に自己中心的で嫌な奴という印象しか持たないが、子供であるという所に妙な逞しさと清々しさを感じる。そして、純度百パーセントの悪がある。自分が悪であることに無自覚な悪である。この悪は、数ある悪のなかで最も厄介である。その悪に「過剰な言葉」を装填させ、大人を攻撃するのである。こんな悪魔を演じた子役は、すごい才能である。子役には、撮影後にカウンセリングが必要ではないかと要らぬ心配をしたが、何十年も昔の映画であることを忘れていた。ローダを演じたパティ・マコーマックは現在76歳。『悪い種子』出演後も沢山の映画に出演しているし、どうやら今でも現役らしい。

 

余談だが、自分はどうも子供の演技というのが嫌いであった。歌舞伎に出てくる子役を見るとイラっとする。子供のくせに演技しているのが、鼻に付くのである。子供の演技でも見ていられるのは、演技をしていない(しているのかもしれないが)風の自然体の子供と、「子供であること」が映画の宿命になっている子供。この2種類の子供の演技は見ていられる。

前者はアッバス・キアロスタミなどの映画に出てくる子供。後者は「霧の中の風景」や「シティ・オブ・ゴッド」などの子供が典型例である。だから「ストレートな子供の演技」で感銘を受けた子供は『悪い種子』が初めてである。

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