松本雄貴のブログ

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91回目「鳥」(アルフレッド・ヒッチコック監督)

動物を見た時、「かわいい」と思うと同時に何とも言えない不思議な気分になることがある。例えば、猿回しの猿が、芸をするのを見た時。彼らは、確実に人語を理解し、人間との意思疎通もできる。仕草や表情なんかを見ても立派な感情を持った生物であることが分かる。しかし、彼らは話せない。言語がないのである。感情があるのに言語がないというのは、どういうことなのだろう。「嬉しい」とか「悲しい」と感じても、「嬉しさ」「悲しさ」を表現できる言葉がない。「嬉しさ」「悲しさ」といった概念は頭の中に確実に存在するのに、それを言語化できない。概念と言語を繋ぐ橋がないのである。そして、この橋がない状態が動物にとってはスタンダードなのだ。競馬を見ても、変な気持ちになる。競馬という競技が成立することが、なんだかとても不思議なのだ。F1レースなら分かる。車という機械を人間が動かす。アクセルを踏めば車が発信する。車には感情なんて無いから、アクセルを踏めば、車が発信するのは科学的に何の矛盾もない。当たり前の事として成立する。しかし、同じことが車ではなく馬で成立してしまうことが、自分には不思議でならないのだ。馬は車と違い感情がある。だから、騎手にどれだけの技術があっても、馬が「走りたくない」と思えば、成立しないはずだ。それなのに毎回、馬は走る。何故なんだ?と、結構真剣に思うのである。馬はとても賢い生物で、人間が作った競馬のルールを理解し、人間が自分たちに求めていることも理解しているから、あのように走るのだろうけれど、そこまでの知能を有しながら、言葉を持たないというのが不思議なのだ。

動物を見た時に感じる不思議さは、まだある。夕方に電線に止まっている燕の群れ。何百匹もの燕が等間隔に並び、誰が合図した訳でもないのに一斉に飛び立つ。あの一糸乱れぬ隊列を見た時、猿回しや競馬を見た時とは真逆の不思議さを感じる。個別の燕には生き物としての心がある。しかし、集団で飛び立つあの規則的で美しい動きには、猿や馬に見る感情がない。あらかじめ動きをプログラムされたロボットのようだ。高度な感情と知能を有しながら言葉を持たない猿や馬を見た時のなんとも言えない感じではなく、燕のあの動きには、感情を一切持たない機械的な冷たさがある。情緒を全く感じないのである。故に、とても不気味なのだ。

ヒッチコックの代表作であり、パニック映画の原点ともいえる『鳥』の恐さは、燕の群れを見た時に感じる不気味さに通じるものがある。映画の見どころは、鳥たちが本格的に人間を襲撃し始める中盤以降。徐々に数が増え、知らない間に群れをなし、人間に襲い掛かる。無駄な感情を一切持たず、人間を襲う冷徹さ。夕刻に見る燕の群れと同じく、あらかじめ行動がプログラムされたロボットのようであり、しかもプログラムの内容は「人間を襲う」という一点に集中されている。シンプルで精緻あるが故にとても怖い。

そんな『鳥』だが、描かれる人間ドラマは正直よく分からなかった。登場人物たちの行動が、現代人の常識と照らし合わせると、とても不自然だ。ペットショップで会った見知らぬ男に、鳥を届ける女。男の方は女の名前を知っており、初対面であるはずの女は不信感を抱くのに、その男の妹の為に「ラブ・バード」なる鳥をサプライズで届けるのである。しかも、父親に依頼して、車のナンバーから男の住所を割り出すなど、まるでストーカーである。最初は名前を知っていた男がストーカー気質かと思ったが、女の行動の方が異常だ。また、部外者の癖に、小学校に普通に侵入するし、この映画の世界には、個人情報とかセキュリティとかの概念がないのだろうか。「ラブ・バード」にしても、何かの伏線になるのかと思ったが、結局なんでもない。

ラストは好きだ。特にオチはないが、終幕感の漂う終わり方が映画の不気味な世界観を象徴しているようで良かった。

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