松本雄貴のブログ

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90回目「ザ・ロック」(マイケル・ベイ監督)

ショーン・コネリーニコラス・ケイジ主演のハリウッド映画。

テロリスト達(元米軍海兵隊)が、アルカトラズ島に一般観光客を拉致し、政府に身代金1億ドルを要求する。テロリストたちは、要求を飲めない場合、VXガスを搭載したミサイルを市街に打ち込むと脅迫する。人質救出とミサイル解体の為、立場の異なる2人(ショーン・コネリーニコラス・ケイジ)がテロリスト達に立ち向かう。簡単に言えば、そんな内容の映画。

娯楽超大作あり、特に捻りの無い有りがちなストーリーだけど、それ故に退屈することなく最後まで観られる。派手なアクションシーンは、それなりに楽しい。こういう言い方は失礼かもしれないが、「暇潰し」として観るのに丁度良い映画だと思う。

ただ、こういう映画を観る時に少し引っ掛かる事がある。自分は、人様が作った物に対して偉そうに批判できるような立派な人間でない事は重々承知しているので、これは批判ではなくて、純粋な疑問である、という言い訳を先に述べた上で、この手のハリウッド映画を観て感じる違和感を書く。

この手のハリウッド映画を作る監督、或いはハリウッドのプロデューサー達の目には、この度のウクライナの惨状がどのように映っているのだろう。「これも映画にできる」とか「いつか映画にしてやろう」とでも思っているのだろうか。その事について、「そんな不謹慎な事を思うなんて間違っている」と綺麗事を言うつもりは、毛頭ないけれど、「少し節操がないのでは?」とも思ってしまう。

話しは少しずれるが、ハリウッド産の戦争映画を観た時に、いつも覚える違和感がある。戦争映画の作り手たちが「戦争の悲惨さを伝えたい」と、自分たちの映画の意義を(取って付けたように)説明することがあるが、戦争が存在しなければ、そもそも戦争映画は作れない。自分たちも映画という形で戦争を興行の手段としている。その事の欺瞞性に、本人たちは気付いているのだろうか。気付いていて敢えて撮っているのなら、それは或る意味、立派なのだと思う。気付かずに、自分たちは「平和を唱える善意の第三者」という立場で戦争映画を撮るのは、最も性質の悪いことだと思う。

そのような事を批判染みて書いている自分もまた、自覚の無いままに「善意の第三者」の側に立ってしまう事があるかもしれない。そうならない為に、気を付けなければいけない。世界に目を向けるのと同時に自分自身も注意深く監視することも必要ではないだろうか。