日々の読書日記

読書の忘備録です

72回目「瓶詰の地獄」(夢野久作:角川文庫)

あははははは。いひひひひひ。うふふふふふ。えへへへへへ。おほほほほほ。はっはっは。あーっはっはっはっは。ぐへへ。ぐひひ。いひひ。ほほほ。くっくっく。ききき。けけけ。

と、いうように小説内で笑い声を表現するのは難しい。カギ括弧の中に笑い声を入れると途端に下品になったり、シリアスな内容が滑稽になったりする。小説全体のバランスや雰囲気が、笑い声を表記することによって著しく損なわれる恐れがある。

戯曲の場合は、笑い声も含めて「発語される言葉」として書けばいいので、笑い声をそのまま表記しても小説ほど問題がないように思う。

敢えて滑稽感を出したり、ギャグとして使ったりという以外の目的で笑い声をそのまま表記するのは珍しいだろう。夢野久作の小説は、その数少ない例外ではないだろうか。どの短編も妖しくて怪しい内容だが、笑い声の表記が不思議と妖しさと怪しさに調和している。平仮名ではなく片仮名で表記されているのも一因だろうか。例えば、上品で知的な女性は「オホホホホ」と笑い、粗野な男は「へへへへへ」とか「ハハハハハ」と笑う。ここだけ切り取れば、とても漫画的でギャグのようだが全体を読むと結局この笑い方が正解なのだ。収録されているどの作品も、少なからず陰惨で人の心の暗部を描いている。しかし、このような笑い方の表記によって、ここに描かれているものは現実ではない、一種の黒いファンタジーなのだと読者に思い留まらせる効果がある。だから、陰惨な内容にも関わらず読後感は割と清々しい。覗いてはいけない世界と純然たる創作物を繋ぐ蝶番のような役割を果たしている。そこから、読者は甘美な世界に少しだけ酔わされる。だから、夢野久作の小説は案外エンタメとしても楽しめる。

 

表題作の『瓶詰の地獄』は、正直あまり面白くはなかった。短すぎるというのもあるだろうが、自分的には物足りなかった。割と有名な作品なので、読む前から内容は知っていた。だから、読み終わった後も「ふーん…」としか思わなかった。手紙が書かれた順番や、聖書に絡めた考察などが盛んにされているようだが、それほどこの短編に研究する材料があるのだろうか。

そこから、『人の顔』という、親の醜さの犠牲にされる子供という少し後味の悪い短編を挟んで、バイオレンス色と変態性が強い『死後の恋』『支那米の袋』が続く。この二編は、それぞれ男性・女性の一人語りで書かれており、先に説明した笑い声の記述による効果が顕著だ。

次に収録されている『鉄鎚』は、物語が前の四作よりしっかりとしており、読み応えがあった。夢野久作の十八番である怪しさと妖しさに退廃的な空気が加わり、自分の中では一番面白かった。

5作目は『一足お先に』という短編である。まず、タイトルが素敵だ。この小説に『一足お先に』というタイトルを付けるセンスが光っている。夢遊病をテーマにした作品で、収録作の中では一番ミステリー性が強い。失くしたはずの足の感覚に関する描写がとても巧い。

最後の作品『冗談に殺す』もミステリー仕立てだが、イマイチだった。とても悪い女が出てくる。取り敢えず、動物が好きな人は読まない方がいい。夢野久作の小説に残虐性と猟奇性を求めているのなら、この短編が一番合っているのかもしれないが、その残虐性の向う先が動物というのが最も嫌悪を抱くところだ。

 

67回目「雪沼とその周辺」(堀江敏幸:新潮文庫)

物心が付いた時から今までの人生の中で、悩みが無かった時期はない。常に、何かに対して悩んでいる。「悩みの無い人生というのはつまらない」という人がいる。その言葉の意味は、悩みを乗り越える事によって人は成長する、という事なのだろう。それは、その通りだと思う。「悩みのない人生」というのは想像すると確かにつまらない気がする。でも、悩みのど真ん中に身を置いている間は、たとえそれが傍から見ると非常に些細な悩みであっても、成長なんてしなくていいから早く悩みから解放されたいと思ってしまう。自分の力で悩みを乗り越えようという気力すら起こらない。結果、些細な悩みに対しては、自分が努力して乗り越えるまでもなく、気が付いたら時間が勝手に解決してしまっている。その些細な悩みが終った次には別の些細な悩みが現れる。それの繰り返しで今まで来ている。その間、こちらは悩みを乗り越える為のいかなる努力もしていないので、人間的な成長はゼロである。「悩みを乗り越える為の努力ができない」というのも、また一つの悩みだ。

だから、自分は常に満たされない。何かと人と比べてしまう。そして常に自分は他人に対して劣っているように感じる。溜息が尽きない。焦燥に駆られる。今現在、自分はその些細な悩みを抱えている。しかも今回の悩みは、時間が解決してくれるには文字通り少し長い時間が掛りそうだ。

そんな厄介な時期に読んだのが堀江敏幸の『雪沼とその周辺』である。なんだろう、この今の自分にぴったりの精神安定剤のような小説は。7つの短編が収録されている。いずれも独立した短編だが、各々の作品がどこかで微かにリンクしている。注意深く読まなければ見逃してしまうような微かさだ。そして、注意深く読むことを強制したりもしない。気付く人は気付けばいいし、気付かなくても別によい。そんな感じの微かさだ。この控え目な感じが、まず優しい。差し出がましい優しさではなく、自然に自分の隣に座っていてくれる。そんな優しさだ。

精神安定剤のような小説と書いたが、『雪沼とその周辺』を読んだからといって、今の自分の悩みが綺麗に解決するなんて事はない。明日を生きる活力を与えてくれるようなパワフルなものでもない。この短編集には、そんな劇薬のような力はない。逆に「等身大でいいじゃん」とか「人間は弱くて当たり前」といった言葉で悩みを肯定してくれるような作品でもない。強いて言えば「そんな生き方もあるよね」と教えてくれるような小説だ。肯定も否定もせず、ただ空気のように漂っている。悩みに対して「達観」という程でもなく、「追認」するような恩着せがましい優しさでもなく、「応援」のような暑苦しさでもない。そんな控え目で微かな気配を感じさせてくれる小説である。

収録されている作品の中では特に『送り火』と『ピラニア』が好きだ。特に『ピラニア』の人一倍、不器用だが、変なプライドを持たず、闘争心や出世欲とは無縁の、いわば究極の自然体とでも言えるような主人公が、奥さんと出会い結婚し、細やかな生活を淡々と送っている様子が良かった。大きな幸せではなく、細やかな幸せを、内容と同じく控え目な文体で描かれており、少し身につまされた。今現在、悩んでいる人にとって、少しだけ心の支えになってくれる小説ではないだろうか。 

 

64回目「水いらず」(サルトル:新潮文庫)

本書を読んだからといって、サルトルの哲学について理解できるわけではない。小説はあくまで小説であり、それ以上でも以下でもない。

裏に書かれた粗筋とあとがきの解説によると、一応、収録されている5つの作品はどれも、サルトルの思想である実存主義に関係しているようである。しかし、哲学の知識がなくても充分、小説として楽しめる。むしろ、純粋に小説を楽しむなら余計な知識は邪魔だろう。いずれの作品も粘り気があってどんよりした雰囲気が共通している。そして、そこで描かれる世界は驚くほどに狭い。せせこましい。哲学者が書いた小説なので、さぞかし難解で高尚な世界が描かれているのだろうと思いきや、中身はとても通俗的だ。そういうところが、逆に面白かった。浅学な自分は、サルトルの有名な言葉「実存とは本質に先立つ」とは、つまるところ、「通俗的なものは高尚なものに先立つ」という事の言い換えなのだろうか? なんて思ったりした。多分、間違っていると思う。小説を読んで興味が出たのであれば、そこから哲学を勉強してみるとよい。それが正当な順序だろう。学ぶために小説を読むのは順番が逆である。

①水いらず

表題作だが、収録作品の中では、自分は一番よく分からなかった。正直印象の薄い作品だ。不能者である夫の元から一度逃げだした女が、結局、夫の元に戻ることになった顛末が書かれている。読後の印象は薄いが、人間の身体のどことなく醜い感じを上手く表現している。適度に日焼けした筋骨隆々で健康的な身体と対照的な、ぶよーんとした脂肪をまとった色白の不健康な身体に対する生理的な嫌悪を文体から感じた。個人的な感覚だが、納豆を食べている人の口元とか、スイカを食べた後に吐き出された種とスイカの残骸を見る時に感じる気持ち悪さと同じものを感じた。納豆やスイカが嫌いなわけではないが、食べている人を見るのが苦手なのだ。自分だけにしか分からない感覚だと思う。

②壁

死刑囚と密室という設定、それぞれの囚人の心理描写が巧みで、最後まで緊迫感を持って読めた。プロットもよく考えられており、短編小説として引き締まっている。サルトルの思想を、サルトルの小説に無理矢理こじつけて解説するには、この『壁』が一番しっくりくると思う。つまるところ不条理な世界が書かれている。カミュの不条理とサルトルの不条理はどう違うのだろう。なんてことを考えたい人は考えてみるとよいと思う。自分は面倒くさいから物語の世界に浸るだけで充分だ。

自分は小学生の頃、この『壁』と似たシチュエーションを体験した事がある。A君という友達とキャッチボールをして遊んでいた。A君の投げたボールが、B老人の盆栽に当たって割れた。自分は、素直にB老人に謝ろうとしたけど、A君は「バレないうちに逃げよう」と提案した。結局、自分とA君は逃げた。過去にも同じ経緯で自分はB老人の盆栽を割ったことがあるので、容易に犯人として挙げられた。で、B老人は自分の家に来て共犯者を教えろと言ったが、自分はA君を裏切るのが嫌だったので、C君という全然違う友達の名前を言った。C君には悪い事をしたと思ったが、当時、C君とは喧嘩中だったし、C君が潔白ならすぐに解放されるだろうと高を括っていた。しかしC君は盆栽を割るよりももっと悪い犯罪、すなわちスーパーでお菓子を万引きしていた。自分が適当に垂れ込んだのが原因でC君の万引きバレてしまったのである。『壁』とは若干違うが、自分が初めて世の中の不条理を感じた瞬間だった。「不条理」という言葉を覚えるよりもずっと昔の話である。

③部屋

狂人と結婚した娘とその両親が出てくる話。人は、自分の価値では測れない異質な他者に対して畏怖と軽蔑の両方を感じようとする。いずれも愚かな感情であり、愚かであるが故に人間的な感情でもある。いわば、卑小な感情だ。神を崇める宗教も、無神論的なニヒリズムも、人間が卑小な存在であるからこそ生まれたシステムなのではないだろうか。なんてことを考えてしまったが、まぁ、せせこましい話である。

④エロストラート

 一番、面白かった。一人の人間がテロリストになるまでの変遷、つまりテロリスト誕生のメカニズムがよく分かる。内容はマーティン・スコセッシの『タクシードライバー』にそっくりな小説。『タクシードライバー』にはラストに救いがあったが、『エロストラート』は少しダーティーだ。『タクシードライバー』の主人公には人としての良心や可愛げのようなものがあったが、『エロストラート』の主人公は終始、自分勝手な妄想に取りつかれている。

⑤一指導者の幼年時代

これについては、書きたいことが沢山ある。それ故、まだ自分の中で纏まっていない。今後、考えが纏まればブログに感想を書こうと思う。

 

 

61回目「存在の耐えられない軽さ」(ミラン・クンデラ:集英社文庫)

昔、加藤周一という人の論評を読んでとても感動した覚えがある。小説でも映画でもなく、評論を読んで感動したのは、この時が初めてであった。「知の巨人」と呼ばれた人で、世間的には左派系の論客とされているようだが、右とか左とかの分類がいかに無意味であり、人間の知性はそんな分類を越えたところにあるということを、当時の自分は加藤周一の文章を読んで思い知らされたのだ。

中でも、かつてソ連軍がチェコプラハを占領し、プラハの自由を脅かした事件について書かれた論評『言葉と戦車』が白眉であった。

破壊の象徴である「戦車」と自由の象徴である「言葉」を対比し、「圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉」の戦いに決着が付かないと結ぶ。この一文の中に世界の不条理が凝縮されているような美しさを感じたのである。まさに美文だ。

そんな加藤周一の文章に接したのも学生時代。論の内容も殆ど忘れかけていた折りに、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読んだ。加藤周一の『言葉と戦車』は「言葉」と「戦車」の対比で論を紡いでいくが、『存在の耐えられない軽さ』は、言葉ではなく、言葉を発する主体である「人間の身体」の対比で物語を紡いでいるように思った。身体は「人間の生」或いは「人間の性」の最も具体的で万人に与えられた身近な表現ツールである。そして、その身体の対比として描かれるのは、当時のプラハを含むヨーロッパの世相である。

終戦後の世界の混沌、つまり、冷戦のはじまり、社会主義の台頭、遠いアジアの戦争、言論の弾圧、芸術に対する検閲など、不穏で混沌とした世相を描きながら、同時にその大きな時代の流れに翻弄される4人の男女の恋愛を描く。リアルな肉体を持った4人の人間である。

幾人もの女の肉体を貪りながらプラトニックな愛を求め続ける男。幼少期の母親のトラウマから逃れるため一人の男の愛に執着する女。彼らが人生の途中に於いて、自らを律した思想とは相いれない精神的・肉体的困難に直面した時、その困難を乗り越える一つひとつの方法・手段も大変興味深く面白い。彼らの浮気や性愛、インモラルな情事などは全て、混沌の時代に肉体をもって対抗するための彼らなりの手段であり、必然であったと思わせる。それくらいに込み入った関係性(それは登場人物の人間関係だけでなく、世相と人間の関係も含む)を立体的に描いた長編だった。

ただ、少しばかり作者が顔を覗かせすぎている部分があり、そこが蛇足に思えた。読者の解釈に委ねるべき部分にまで作者が地の文で解説してしまうのは、もったいないと思った。

 

これをもし日本で映画化するなら、主人公は石田純一が最も適していると思ったが、年を取り過ぎているので却下だ。

 

58回目「ふらんす物語」(永井荷風:新潮文庫)

自分は結構、海外旅行が好きだ。沢木耕太郎とか金子光晴に憧れてインドを放浪していた時期もあった。といっても訪れたことのある国は全部で11か国とそれほど多くない。ガチでバックパッカーをやってる人には、遠く及ばない。そして、その11か国の中に、フランスは入っていない。

今後もフランスに行く予定はない。もし今、仮に海外に行けるのならヨーロッパよりもアジアかアフリカを選ぶ。アジアかアフリカの方が、混沌としていて面白そうだ。もし今、仮にヨーロッパの国のどこかに行けるのなら、東欧のどこかを選ぶだろう。自分は誠に失礼な話だが、東欧の国々に対して貧しく荒んだイメージを勝手に抱いている。その荒んだイメージが自分に合っている気がする。フランスは文化的に洗練されている印象があり、自分には少し敷居が高いように思う。フランス文学もフランス映画も好きだけど、フランス自体には行きたいと思わない。芸術家としての視点ではフランスはとても魅力のある国だが、旅人としての視点ではあまりそそられるものがない。自分にとって、フランスとはそのような国だ。 

永井荷風は明治の作家である。自分とは違い、芸術家としても旅人としてもフランスに惚れ込んでいる。それはこの『ふらんす物語』を読めば分かる。フランスに対する熱が強すぎて、フランスへの一直線な思いが空回りしている部分も多い。フランスがどれだけ作者にとって住み良い美しい国であるかを表現するために、わざわざ他の国を貶めたり、その貶め方も明らかに差別的な表現を用いていたりする。甚だ視野狭窄的ではあるが、我々とは全く別世界に生きた人物が書いた紀行文として割り切ると、差別的な表現も読んでいてそれほど不快には感じない。寧ろ、作者のフランスへの愛が強すぎるが故の表現だと捉えて読むと、一種の愛嬌をも感じる。それくらい荷風のフランスへの思いは屈託がない。明治の文豪なんて所詮、我々とは生きた時代も見た風景も違うので、差別的表現を一々気にしない方がよい。因みにいうと、この『フランス物語』は国籍に対する差別的表現だけでなく、男尊女卑的な表現も多い。収録されている『雲』という短編が特に男尊女卑的だ。『雲』の主人公はとても最低な男で、自分の性欲は正当化し「女を買う」ということに些かの抵抗も感じないが、女にはプラトニックを求める。そして、女との恋愛が面倒になると、これまた都合の良い言い訳で自身を納得させて女を捨てる。要約すれば、そんな男が出てくる話だ。娼婦に対する偏見もひどいものだ。

これはこれで面白い作品ではあるが、現代の観点から考えると、不快に思う人もいるだろうから、オススメはしない。

ところで、よく巻末に「当作品には差別的な表現があるが、作者に差別を助長する意図はなく、作品の文学的価値と作者が故人であることを鑑み、そのままにしています」と書かれた本を見かけるが、その一言を付け加えることによって、全ての差別的表現が許される文学界の風潮は、どうなのだろう。自分はずっと違和感を持っている。単に免罪符として、このようなフレーズを乱用するのは良くないように思う。いっそのこと、「私は差別する気が満々でこの作品を書きました。それが不快なら最初から読まないで下さい」と書いてくれた方が、潔い気がする。

 もう少し『ふらんす物語』の中身に触れる。タイトルの通り、永井荷風のフランス外遊時の体験を元にした、短編と随筆で8割ほど占められているが、時折、アメリカ滞在時の回想が挿入され、アメリカとフランスの違いを比較する。比較の対象は、車窓から眺める景色の印象であったり、良い芸術が産まれるにはどちらが適しているかの考察であったり、女の性格であったりする。いずれも、荷風の中ではアメリカではなくフランスに軍配が上がる。そういったところが、憎めない。

また後半は、フランスから日本に帰国するまでの道中に訪れた国も舞台となる。ポルトガルシンガポールなど、フランス以外の国について書かれる。この辺りから、アジア諸国に対する差別的表現が顕著になってくる。そして、日本の帰国が徐々に近づくにつれ、フランスにホームシックを感じる様子が面白い。その感情は、当時の文士たちが皆、多かれ少なかれ持っていたであろう西洋コンプレックスの裏返しなのだろうかと思うと、とても興味深い。

ともあれ、今はコロナ禍で海外旅行ができない。『ふらんす物語』は、読むと異国情緒を感じられる。スマホもインターネットもない時代の海外生活を疑似体験でき、お得なのではないだろうか。

以上

 

ふらんす物語 (新潮文庫)

ふらんす物語 (新潮文庫)

 

 

57回目「闇の奥」(ジョゼフ・コンラッド:岩波文庫)

フランシス・フォード・コッポラの映画『地獄の黙示録』の原作。映画は完全版で3時間半くらいあり非常に長い。『地獄の黙示録』を観たのは15年ほど前だろうか。あまり覚えていないが、ジャングルの奥地へ主人公一行が船で進んでいくシーンの臨場感と、泥沼から男が顔を出すシーンの薄気味悪さは覚えている。

また、冒頭に流れるドアーズの『The End』と「カタツムリが剃刀の上を這う」イメージが、他の戦争映画にはあまり感じない不穏さを強く印象付けられた。この不穏さは戦争ではなく人間一般が持つ不穏さだと、若い頃の自分は結論付けたのである。しかし、若い頃の感覚ほど当てにならないものはない。この感覚が正しいのかどうかを再度検証するため、今回、『闇の奥』を読み終えてからもう一度『地獄の黙示録』も観ようと思ったのだが、なかなか時間がなく、まだ観ていない。だったら最初から書くなという話だ。ただ、早くブログを更新したかったので、映画は再見していないが、続けて書くことにする。

地獄の黙示録』はベトナム戦争の映画で、舞台もベトナム(orカンボジア?)だが『闇の奥』はアフリカの奥地である。取りあえず、『闇の奥』を映画化しようと思い立った時に、設定をベトナム戦争にアレンジしようとする発想はまず自分には思いつかない。

『闇の奥』では主人公マーロウが、アフリカの奥地にいるクルツいう名の腕きき象牙採取人に会いに行くという話。『地獄の黙示録』では、主人公ウィラード大尉がカンボジアの奥地で独立王国を築いているカーツ大佐を暗殺しに行くという話。

マーロウがウィラード大尉に、クルツがカーツ大佐にそれぞれ置き換えられている。得たいが知れないが、ある種のカリスマ性を持った人物に会いに行くことが映画と小説の共通部分であり、話の根幹である。この部分を変えてしまえば換骨奪胎したことにはならない。映画はかなり大胆で飛躍したアレンジだが、小説の主題・モチーフを変えているわけではなく、ちゃんと残している。さらに戦争映画が持つスケールと狂気を獲得している。当時の自分は『地獄の黙示録』を語れるほどには理解しておらず、長くて難解な映画だと正直思ったが、コッポラ監督の原作に対する敬意は、『闇の奥』を読み終えた今は感じられる。

ここからは『闇の奥』を読んだ純粋な感想を書く。

まず、マーロウは実際にクルツに会うのだが、自分はクルツが登場しない方がよいのではないかと思った。カフカの『城』が、目の前にあるはずの城に永遠に辿り着けない様子を描くことにより、実体があるのかないのか分からない城に翻弄される不条理、ひいては存在の不安というものの表現に成功しているのと同様に、『闇の奥』も最後までクルツが現れない方が、クルツという存在の不気味さと不可解さをより強く表現できたのではないかと思った。事実、ラスト近くでマーロウがクルツに会う場面、そして二人が会話をする場面は、クルツの登場に些か興覚めした。「すごい奴」「得体の知れない男」というネタフリにずっと付き合わされていたが、実際に現われると、どうってことのない少し精神がおかしいだけの普通の男という印象がぬぐえなかった。クルツはもっと悪魔的で怪物的な人間だろうというこちらの予想が悪い意味で裏切られた感じがした。カフカの『城』もベケットの『ゴドーを待ちながら』も「現れないこと」「辿り着けないこと」に価値がある。『闇の奥』も、こっちの系統であってほしかった。あと、『闇の奥』は三人称の小説だが、ストーリーの9割はマーロウが同僚の船員たちの前で喋るという形で書かれている。つまり、一人語りが恐ろしく長い。それならば、マーロウの独白とかマーロウの手記という形で、最初から最後まで一人称の小説として書いた方がよかったのではないだろうか。話の継ぎ目で、たまに現実の船の上に戻るのが、効果的とも思えなかった。 

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

 

 

54回目「プールサイド小景・静物」(庄野潤三:新潮文庫)

今年は庄野潤三の生誕百年であり、よく行く書店では特集が組まれていた。書店の片隅に「庄野潤三生誕100年」と書かれたPOPが飾られてあり、そこに庄野潤三の幾つかの本が平積みされていた。別に大層なものではないが、興味を引いた。それで一番目立った置き方をされていたこの文庫を購入してさっそく読んだわけである。

表題作含め、7つの短編が収録されている。以下に個別の感想を記す。

①舞踏

不倫の話。夫の方が不倫する。不倫相手は、自分より一回りも年下の少女。夫の身勝手さが腹立たしい。同時に妻の健気さがやるせない。内容は、昨今の芸能人の不倫スキャンダルと殆ど変わらない。恐ろしく通俗的だ。妻が行きたがっていたコンサートに不倫相手と行くことになり、多少の後ろめたさを感じながらも、自分自身に言い訳しながら納得する様子など、夫の描写が「バカな男」そのものである。とてもベタな描き方だ。「文学は人間を描く事」とすれば、この短編は文学ではない・・・、というわけでも実はない。ここに描かれる人物は夫婦ともに古いタイプの人間で、それは作者自身が古いタイプの人間だから、描く人間が古くなるのだ、と結論付けようとしたが、案外、そんな読み方をする自分が古いのかもしれない。「文学は人間を描く事」という考えがそもそも固定観念であり、頭でっかちなのかもしれない。もっと気楽に読めば、ろくでなしの夫にムカつき、健気な妻に同情し、総じて楽しく賑やかな読書体験ができる。

プールサイド小景

表題作であり、作者はこの短編で芥川賞と獲った。これも『舞踏』と同じく夫婦が描かれる。会社の金を着服しバーに通っていた夫。会社にばれて夫はクビになった。仕事が無くなったため、リフレッシュも兼ねて子供たちが通う学校のプールで泳いでいる。プールサイドからは、夫がかつて通勤していた電車が走る光景が眺められる。タイトルはここから来ている。ラストの描写は哀愁が漂っていて少し寂しい。情けなくだらしない夫と、そんな夫を支える健気な妻は、『舞踏』の夫婦と似ているが『プールサイド小景』は、もう少し夫婦の感情の機微が繊細に描かれている。バーの話を聞こうとする妻に対して、全てをさらけ出し告白するフリをしながら、絶対に話の確信に触れない夫の卑小さと、その卑小さの奥に女の影を察知し戸惑う妻。夫婦両方の心理がとてもキメ細かく書かれており面白かった。

③相客

人物の関係が少しゴチャゴチャしており、若干分かりづらかった。「私」「兄」「長兄」「弟」「父」が出てくる。その中の「兄」にまつわる話なのだが、「兄」と「長兄」が紛らわしかった。これは、自分の読解力の問題だ。冒頭のエピソードは「私」が「弟」から聞いた話であり、本編とは関係ないのだが、その後、その話から「私」が思い出したエピソードが語られ、二つの伝聞が終った後に「兄」の話になる。つまり、分かりにくかった。内容は割愛するが、汽車の中での刑事と客のやりとりで刑事が言った言葉に対して「私」が感じた戦慄が印象に残っている。なんのこっちゃ。

④五人の男

タイトルの通り、5人の男の話である。この5人の男が実在の人物なのかフィクションなのかは分からない。一応、作者が関わり合いを持った男たちという体で書かれている。それぞれの話が独立しており、5人の男がどこかで関連しているという訳でもない。本当に、5人の男のそれぞれの人物紹介で終っている。3人目の男が一番面白かった。お喋り好きの男で、家にやって来ては色々な武勇伝を語るのだが斜視のため周りで男の話を聞いている人は、自分に向けられて話しているのか分からず相槌を打つのが難しい、みたいな部分が少し毒もあり面白かったのだ。

⑤イタリア風

日本人の夫婦が、アメリカ旅行中に、かつて電車の中で知り合い友達になったイタリア人夫婦に久しぶりに会いに行くという話。日本と外国の家族観や価値観などが語られているが、人と人が久しぶりに邂逅する際のイザコザや誤解、変な気を遣ってしまう感じが共感できる。自分は別に対人恐怖症ではないのだが、外国人・日本人・異性・同性、関係なく「久しぶりに会う」という事に対してとても緊張する。いくら気心の知れた仲の良い人でも、何か緊張してしまうのだ。こんな自分だからか、電話口の相手の口調を過剰に気にしてしまう主人公に共感を覚えたのであった。

⑥蟹

一風変わった漁師町の宿屋。何が変わっているのかというと、部屋に「セザンヌ」とか「ルノワール」といった画家の名前が付いている。そこに泊まる数組の家族の話。歌とかクイズとか生き物を通じて、別々の家族に薄く微かな交流が生まれる。大人たちの交流は常識があり遠慮があり距離がある。でも子供たちの交流は、遠慮も距離もない。とても純粋で無垢な交流だ。とても平和で控え目な短編で、収録作品の中では一番好きだった。

静物

作者と自分は祖父と孫くらいの年齢差がある。でも、この作品で描かれる家族の一コマは、まるで自分の子供時代の断片が書かれているかのように錯覚した。ある家族の、本当に何でもない風景が切り取られて繋がっているだけの短編なのだが、この懐かしさはなんだろう。優しさと懐かしさと寂しさとノスタルジーを同時に味わいながら、後味のさっぱりした読後感があった。

以上

 

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)