日々の読書日記

読書の忘備録です

52回目「ダブリナーズ」(ジェイムズ・ジョイス 柳瀬尚紀訳:新潮文庫)

先日、祖母が亡くなった。通夜の前日、自分は祖母と一緒の部屋で寝た。葬儀会館に祖母を一人で残せないため、自分が祖母と一緒に留守番をしたのだ。祖母が眠っている横に布団を敷き、一夜を明かした。文字通り、死者に寄り添ったのだ。

祖母との思い出に浸り、懐かしんだ。同時に、自分のすぐ横に死者がいることに対して少し恐怖も感じた。自分は普段寝付きの悪い方だが、その晩は意外に安眠できた。祖母とは全然関係ない夢を見た。どんな夢だったか、断片しか覚えていないが、その夢の中に祖母は出てこなかった。朝、葬儀会社の人がやってきて「よく眠れましたか?」と聞いた。「はい」と答えたあと、少し変な気分になった。

ジョイスの『ダブリナーズ』の一編に、自分も迷い込んだ気がしたのだ。

書評でも何でもないが、書いておきたくなったので。

 

ダブリナーズ (新潮文庫)

ダブリナーズ (新潮文庫)

 

 

50回目「カンガルー・ノート」(安部公房:新潮文庫)

『カンガルー・ノート』を最初に読んだのは中学生の頃だ。途中から意味が分からなくなり、読了するのが苦痛だった記憶がある。その後、安部公房の小説は『砂の女』『他人の顔』『飢餓同盟』『箱男』『燃えつきた地図』などを読んだ。これらは、『カンガルー・ノート』と違い、途中で意味を見失う事はなかった。中でも『砂の女』は、とてもスリリングな小説で、これまでに数回、繰り返して読んだ。『飢餓同盟』『他人の顔』は、一度しか読んでおらず、もう殆ど覚えていないが、『砂の女』同様、とても興奮し一気に読んだことを覚えている。『箱男』『燃えつきた地図』も難解ではあったが、楽しめた。

つまり、『カンガルー・ノート』は、自分が読んだ安部公房の小説で唯一、肌が合わないと感じた作品だった。ゆえに、中学生の頃に読んで以来、再読することはなかった。

そんな『カンガルー・ノート』を、この度、再度読み返したのは、特に理由があってのことではない。なんとなく読んでみようと思ったに過ぎない。約20年ぶりに読んだわけだが、相変わらず「意味が分からない」と思った。しかし、中学生の頃と違い苦痛は感じなかった。恐らく、中学生の頃は「意味が分からない」ものを許容するだけの度量が、自分の中に無かったのだ。それは、経験と語彙力に基づくものだろう。意味を問い、意味を考えることも重要であるが、意味を考えることを放棄してこそ楽しめる作品も数多ある。概ね、シュルレアリスムとは、言葉から意味を削ぎ落した先にある原風景を表現する芸術だと、薄学ながら考えている。意味を削ぎ落した結果、限りなく純粋で虚無的な世界が産まれる。経験も語彙も乏しい中学生に、この虚無の面白味を理解することは、そもそも無理な注文なのだ。

ただし、一般的に安部公房の小説はシュルレアリスム的とされるが、虚無的な感じはない。『カンガルー・ノート』は作品全体に情緒・情感が漂う。もっといえば、主人公の男の悲哀をも感じ取れる。寧ろ、中学生の自分が『カンガルー・ノート』の意味を理解できなかったのは、作品の奥にあるこの悲哀を嗅ぎ取ることができなかったからではないだろうか。

『カンガルー・ノート』は、夢の話だ。それも一人の男が死ぬ直前、刹那のうちに見た夢だと自分は解釈している。さらに自分の解釈を述べると、男は神経症を患っているように思えた。それが故に社会から孤立してしまった男。強迫観念に苛まれた挙句に、自殺してしまった男。その自殺の直前に見た夢の話。目の無い死んだ母親、知恵遅れの少女、採血をする看護婦などが出てくるが、それらはいずれも男の性的願望、性的コンプレックスの投影のように思う。後ろめたい願望を、夢という形で死ぬ直前に成就した男の記録を描いた小説なのだと、自分は結論付けた。だから、後味の決して良い小説では無いし、一見バッド・エンドのように見えるが、実は、最後に自身の願望を成就できたと思うと、あながちハッピー・エンドなのかもしれない。

真偽のほどは知る由も無いが、人は死ぬ直前、これまでの人生が走馬灯のように脳裏に浮かぶらしい。夢の話は、とりとめがない。夢なのだから、現実では起こり得ない荒唐無稽なことも起こる。だから、意味が分からなくて当然と言えば、当然なのだ。しかし『カンガルー・ノート』は、ただ単に荒唐無稽なイメージを羅列しているわけではない。話が空中分解せず、読者をぎりぎり小説の世界に留まれるように工夫されている。この工夫に舌を巻く。例えば、「カイワレ大根」がそうである。『カンガルー・ノート』には、カイワレ大根が出てくる。脛にカイワレ大根が生えてしまった男が病院に行く、というのが話の発端である。その病院のベッドで横になった辺りから夢の中に移行するのだが、その後も話の要所要所でカイワレ大根が出てくる。「脛にカイワレ大根が生える」という設定など無くても『カンガルー・ノート』という小説は成立するし、寧ろ、必要のない設定なのではとも思うが、さにあらず。このカイワレ大根が出てくるタイミングが絶妙なのだ。一歩間違えれば滅茶苦茶になって雲散霧消しかねない夢の話を、カイワレ大根の描写を要所に挟むことによって読者を繋ぎとめている。いわば接着剤としての役割を担っている。

『カンガルー・ノート』は7章からなる。章ごとに場面が変わる。これら一つひとつの章が、まったく脈絡なく続いているのかといえば、そういうわけではない。場面転換が唐突で、病院のベッドから夢に移行した瞬間も、その境目が分かりずらいし、レールに乗って移動するベッドに始まり、烏賊爆弾など、作中に出てくる小道具は突拍子もないし、ここら辺が夢の話であることから生じる「分かりにくさ」なのだが、注意深く読むと、物語としての体裁はきちんと整っている。「意味が分からない」と書いたが、案外、意味は分かるのだ。

もう少し感じた事を書くと、ピンク・フロイドの『エコーズ』や『鬱』が出てくるのだが、この小説の世界観は、キング・クリムゾンの『21世紀の精神異常者』と『ムーン・チャイルド』の方が合っているのでは、と思った次第だ。

以上

 

カンガルー・ノート (新潮文庫)

カンガルー・ノート (新潮文庫)

 

 

47回目「死の家の記録」(ドストエフスキー著 工藤精一郎訳:新潮文庫)

囚人の生活とか刑務所内の環境とかは、一般人にはなかなか触れる機会がない。時折、囚人に対する虐待や暴行、さらには、それによる囚人の死亡などのニュースを耳にすることがある。その度に、刑務所という場所に対して負のイメージを持ってしまう。ニュースを聞いた瞬間は、刑務所内では虐め・暴力・虐待などが日常的に行われている劣悪な環境なのだろうなぁ、堅気の人間には耐えられないだろうなぁ、酷い所だなぁと思ってしまう。

しかし、よく考えてみると、刑務所内で囚人に対する非人道的な事件が起こる確率は、ごくごく珍しいことだと分かる。というのは、珍しいからこそ事件としてニュースで扱われるのであり、非人道的行為が自明のものとして日常的に発生しているのであれば、ニュースにはならない。原則ではなく例外だから事件になるわけだ。そして、そのような例外的なものに対して、「ああ、この(一応)民主主義の発達した現代の日本で、このような陰惨な事件が起こったのか・・・痛ましいな」と暗い気持ちになるわけである。

つまり、現代の日本の刑務所における囚人の生活というのは、例外的に虐待などの悲劇的な事件が起こる可能性はあるが、最低限の人権は保障されており、我々のような外野が「非人道的だ!」と憤るほど悲惨な場所ではないと想像できる。もちろん、罪を償う為の場所であるから、娑婆に比べると時間的自由・空間的自由は著しく制限されていることも周知の通りだ。間違っても、自ら進んで入りたいと思うような場所ではない。

というのが、現代の日本の刑務所に対して自分が持っているイメージだ。では、『死の家の記録』の舞台である19世紀のロシアの刑務所はどうだろうか。19世紀である。「思想」が理由で逮捕されるような時代である。読む前は、今の日本では「あってはならない事件」としてニュースで報じられるであろう、上記のような非人道的なことが日常的に起こっていたのだろうと想像した。裏に書かれたあらすじも、この監獄がいかに地獄のような凄惨な場所であったか、という部分を強調している。当然、読者である自分もそこに期待して読む。

かなり長い小説で、読了するのに約一か月掛かったのだが、苦労して読んだ割に、肩透かしを食らった感じがした。部分的には面白い個所もあり、読み入ってしまうのだが、全部を読み終わった後に残るのは「イマイチ」という感想と、徒労感であった。

しかし、せっかく一か月も掛かって読んだのだから、どの点が自分には合わなかったのかを考えてみる。

死の家の記録』は、ドストエフスキーが、実際に思想犯としてシベリアに流刑にされ、監獄にぶち込まれた時の体験を元に書かれた小説だ。小説ではあるが「創作」というよりは、ドストエフスキーの観察力・洞察力・記憶力を駆使して書かれた事実の列挙というニュアンスの方が強い。その名の通りまさに「記録」なのだが、物語的な味付けも多分にされている。自分にはこの味付けが少々、クドかった。蛇足が多すぎるように思ったのだ。例えば、第2部の後半、唐突にある囚人が、なぜこの場所に収容されたのかを、隣で寝ている別の囚人に語りだすのだが、何かストーリーに関わる重要な事なのかと思いきや、ただの痴話喧嘩の話であったり、そして、その痴話喧嘩の内容が妙に入り組んでいて、小説の中で別の小説を読まされているような感じなのだ。恐らく、下らない理由で、自分の許嫁を実際に殺害してしまう男の短絡的で残虐な性格を描く事によって、監獄内の人物がどれほど異常であるかを表現しているのだろうが、翻訳の問題なのか、異常性よりも、単に「下らない話」という印象だけが残った。

また、全体を通して、登場人物のキャラクターの説明を延々と読まされているような感じがした。しかも、その性格に一貫性がないように思った。例えば、作中で、粗暴で狂暴な性格の持ち主などと評された人物が、ドストエフスキー本人の投影である主人公に、とても優しく接したりする。良い奴なのか悪い奴なのか分からない。また、無学で頭が悪い男と称された人物が、とても手先が器用だったり、監獄内の世渡りに長けていたりする。頭が良い奴なのか、悪い奴なのか分からない。混乱するのである。このように、無意味に長い部分、蛇足に過ぎる箇所がありすぎた故、読むのが苦痛であった。これが、『死の家の記録』を「イマイチ」と感じた第一の理由である。

また、自分が期待したポイントが「監獄の凄惨さ」であったことも大きい。『死の家の記録』は、あらすじにも強調されているように、どれだけこの監獄が悲惨な場所であったのか、そこを主題にしているように思うが、小説を読む限りは、それほど凄惨な感じもしないのである。囚人たちが恐れている鞭の刑(チケイと言うのだが、漢字変換が出てこない)も、別にそんなに痛そうとも思わない。囚人たちの人間関係も、例えば貴族出の囚人たちと、ポーランド人の囚人たちと、殺人などの罪を犯した純粋な囚人たちの間には、分厚い壁があり、純粋な囚人は、貴族出の囚人たちを毛嫌いしており、その人間関係がもたらす、不自由や凄惨さも語られてはいるが、別のシーンでは、彼らは結構仲良くやっているのだ。その様子は微笑ましくさえあり、随分と牧歌的だ。一緒に、芝居を作ったり、それを見たり、クリスマスが来るのを浮き浮きしながら待っていたり、「19世紀のロシアの監獄」から連想する凄惨なイメージとは、随分と程遠いのである。

同じ時期にBSで観たスピルバーグの『シンドラーのリスト』の方が、余程、凄惨で悲惨だった。

というのが、『死の家の記録』を読んで、イマイチと感じた理由である。

ただ、部分的には本当に面白く、ドストエフスキーの洞察力に何度も舌を巻いたのも事実である。

以上。

 

死の家の記録(新潮文庫)

死の家の記録(新潮文庫)

 

 

40回目「叫び声」(大江健三郎:講談社文芸文庫)

ブログの更新が少し滞ってしまった。最近、精神的に疲弊しており、良い作品に触れてもブログを書く気力が起こらなかったのだ。自分は基本的に怠け者なので、ブログを書くことに向いていないのかもしれない。だから、テーマの硬軟にかかわらず、ほぼ毎日のようにブログを更新している人は、単純に尊敬する。

そもそも、自分は文章を書くのが苦手なのだ。ある作品を読んで「面白い」と思った。或いは、「面白くない」と思った。それ以上、何を掘り下げることがあるのだろう。作品に対する批評なんて、意味があるのだろうか。そんな虚無的な考えが根底にあるため、書評や映画評を書くときは、自分自身に感じる白々しさと格闘しながら書いている。「批評には意味があるのだ」という情熱と、「批評になど意味はない」という虚無感が自身の中で拮抗している時は、必然的に筆が遅くなる。いうなれば、今がそんな状態なのだ。

大江健三郎の『叫び声』は、作者が20代の頃に書いた長編だ。若々しい熱量に溢れた小説で、こんな小説に触れると、冒頭に書いた自分の批評に対する考えがいかに甘いかを確認させられる。作者が若かりし頃に感じていた、世の中への異議申し立てが、体裁など気にせず書かれている。地下の奥深くで堆積したマグマが沸点を超えて爆発したような印象を文体から受けた。ただ、書かれている内容はかなり陰湿で暗い。負の方向に、文体のエネルギーが向かっている。熱のある文体なのだが、カラッと乾いた暑さではなく、ジトッとした蒸し暑さを感じた。(どうも例えが上手くなくてすみません)

4人の男(うち一人はアメリカ人)の青春、あるいは友情が描かれているのだが、青春というワードから受ける明るい印象は皆無だ。「癲癇」「梅毒」「強姦」といったおぞましい言葉、或いは、今日では差別的とされる言葉が、単なるフレーズとして使われているのではなく、小説を構成する重要なファクターになっている。そして、この4人の男がそれぞれ曲者でろくでもない奴らなのだ(特に呉鷹男という人物)。その点が、明るく健康的な他の青春小説と『叫び声』の大きな違いである。

4人の男の友情は、猥雑さという点では、開高健の『日本三文オペラ』やヤン・ソギルの『夜を賭けて』の登場人物たちと似ている。『日本三文オペラ』も『夜を賭けて』もアパッチ族をテーマにした小説で、作中の人物たちは、皆とても粗雑で暴力的だが、どこか愛嬌があり同時に大変な時代を生き抜こうとする逞しさがあったように記憶している。一方、『叫び声』の登場人物たちには、愛嬌や逞しさはない。(虎という人物は多少、可愛げのようなものは感じたが)。ネガティブで退廃的な妄想にとり付かれている。矛盾しているように思うが、そのネガティブで退廃的な妄想が、この小説の一番の美点のようにも思う。こんな小説を書いた若い頃の大江健三郎は、どこか危ういところがあり、その危うさを、小説を書くことによって昇華させていたのかもしれない。一歩踏み外せば、作者自身が小説中に描かれる危ない行為に手を染めてしまうような、ギリギリのラインに立っていたのかもしれない。と、いうのは勿論考え過ぎで、危険な人物を描く作家がイコール危険な人物、というのはありえない。ありえないのだが、一瞬、読者である自分に錯覚させる魔力があった。

5章からなる小説なのだが、4章の『怪物』は、正直物足りない。妄想から殺人に至るまでの、意識の変化がとても幼稚で、通俗的に過ぎる。「自分は怪物だ」と錯覚して、後先のことを考えずに犯罪に走る人間の思考回路は、概ね小説で描かれているような稚拙で短絡的なものだと思うし、リアリティがあるのかもしれないが、『叫び声』という小説では、「犯罪者の心理」などといった陳腐な言葉に要約されるような、ありきたりな事は描いて欲しくなかった。もっとこちらの想像力を超えるような狂った世界を描いて欲しかった。というのが、ひとつ不満である。

以上

 

叫び声 (講談社文芸文庫)

叫び声 (講談社文芸文庫)

 

 

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38回目「コルタサル短編集 悪魔の涎・追い求める男」(フリオ・コルタサル:岩波文庫)

アルゼンチン出身の作家、フリオ・コルタサルの短編集だ。表題の2作を含め、全10作品が収録されている。ラテンアメリカの文学について、自分は殆ど知らない。ガルシア・マルケスの小説を過去に一作だけ読んだことがあるくらいだ。

何も知らないので、変な偏見を持たずに読み始めたのだが、読み終わった後も「なるほど、これがラテンアメリカの文学か」とはならなかった。規定のジャンルに分類するのが困難なほど、どの作品も毛色が違ったからだ。そもそも、文学でも芸術でも、ある既存のカテゴリーに分けること自体がナンセンスであり作家に失礼な気がする。「ジャンル」とか「テーマ」などといった、一言では要約できないモノを描くことが本来の文学であるはずだ。そんなことはさておき。

収録されている10作品とも毛色が違うが、面白さの優劣はある。

それぞれの感想を以下に記す。 

『続いている公園』

わずか2ページしかない非常に短い作品。短いが、なかなか薄気味の悪い印象を残す作品。ありがちな発想ではあるが、ちょっと背筋が寒くなる。

 『パリにいる若い女性に宛てた手紙』

口から兎を吐き出す男が出てくる。奇想天外な設定だが、そのような「ありえない」ことを、普通の日常のように描く。主人公は「口から兎を吐き出す」せいで、色々な困難を経験するが、「なぜ口から兎を吐き出すのか」という根本的な疑問には、一切触れられない。そんなことは、大した問題ではなく、ただ吐き出してしまった兎の処理に右往左往する様子が描かれる。方向性はカフカの『変身』と同じような気がする。

 『占拠された屋敷』

地味な兄妹が住んでいる家が、徐々に何者かに占拠されていく。最初に半分を占拠され、次いで、全部を占拠される。兄妹は抗うことなく事実を受け入れる。権力に搾取され、洗脳され、反抗する意志をも持たなくなってしまった独裁国家の国民の悲劇を寓意的に描いている、という解釈は飛躍しすぎだろうか。そんな大袈裟なことは考えずに読む方が、案外、不条理な世界を体感できてよいかもしれない。

 『夜、あおむけにされて』

自分の解釈が合っているのか自信はないが、悪夢だと思っていた方が現実で、現実だと思っていた方が悪夢だった。・・・ということでいいのかな? 

 『悪魔の涎』

自分的には、これが一番難解で、かつ面白かった。「斬新な実験性と幻想的な作風」と、コルタサルの小説の特徴が表紙に紹介されているが、まさしく、そんな小説だった。安部公房の『箱男』に似た印象を持った。

 『追い求める男』

収録作品の中で一番長い。そして、一番マトモな小説。それ故、あまり面白くなかった。「物語」という点では、一番読み応えがあるのだが、他の作品と比べると少し浮いている。天才的なサックス奏者の伝記を、彼の友人であるジャズ批評家の一人称で描いた作品。音楽家としては天才だが、普段の生活は麻薬に溺れるダメ人間というシンプルな構図で描いて欲しかった。批評家と芸術家の関係性に言及するところなど、蛇足だと思う。薬物中毒者の退廃的な生活と、ステージ上で輝く天才サックス奏者、そのコントラストを順に描く方が、分かりやすく、面白いと思った次第だ。

 『南部高速道路』

これは面白かった。高速道路上で途轍もなく長い渋滞に巻き込まれた人達のお話。高速道路上という隔絶された空間の中で、他人同士がコミュニティを形成し、渋滞から解放されるために様々な手段を画策していく様子が面白い。協力だけでなく、敵対や利害関係もきちんと描かれる。人々が隔絶される場所が、無人島とか密室ではなく、高速道路上というのがよい。あくまで渋滞だから、少しずつ流れていくのである。車の外に出て色々な事を画策するのだが、渋滞が少し和らいで車がわずかに流れ出すと、運転席に戻って進まなければいけない。じゃないと後続車にクラクションを鳴らされる。こういう描写は高速道路だからこそできるのであり、無人島ではありえない。流動する密室という、ありそうでなかった設定が効いている。またコミュニティが形成される様子が興味深い。延々と果てしなく続いている渋滞の中では、全ての人間が同じコミュニティに属することは不可能であり、登場人物たちは、自分たちの手の届く範囲でチームを作る。ゆえに、コミュニティの境界線は曖昧だ。その曖昧さが上手に表現されている。国境の概念なども、よく似たものなのだろう。

 『正午の島』

南部高速道路が面白かったので、次の作品は、正直、印象が薄い。飛行機のキャビンアテンダント(男性)が、フライト中にいつも見下ろしていたギリシャの離島を訪れ、定住することを決める。仕事も恋人も安定した生活も捨てて、夢見ていた地に住む男のロマンが描かれる、『イントゥ・ザ・ワイルド』のような小説なのかと思いきや、ラストが少しいただけなかった。

 『ジョン・ハウエルへの指示』

芝居を観に来ていた男が、急に舞台に上げられ役者にされてしまう、というお話。冒頭の3行が、格言めいている。演劇とか舞台役者をやっている人なら、この短編は参考になるかもしれない。ピーター・ブルックに捧げられたものらしい。

 『すべての火は火』

最初の3ページくらいは、恐らく、誰が読んでも全く内容が分からないだろう。何故かというと、全く関係のない二つの物語がミックスされているからだ。ミックスされていることに気付いてからは、何となく、分かるだろう。しかし、不親切だ。二つの物語を混ぜているのだが、改行したり段落を変えたりすることで二つを区別しているわけではない。普通に続いているように見えて、急に別の話に変わっている。前衛的といえばそうなのかもしれないが、方法は短絡的で安直だと思った。太宰治の『虚構の春』の方が、まだ工夫されていたように思う。

 

以上

 

 

34回目「希望の国のエクソダス」(村上龍:文春文庫)

村上龍の小説は、ほとんど読んでいなかった。大昔に『コインロッカー・ベイビーズ』と『限りなく透明に近いブルー』を途中まで読んで投げ出した。それ以降、エッセイをたまに読むくらいで、小説は全く読んでいない。

まずタイトルが苦手だった。今回、読了した『希望の国エクソダス』しかり『愛と幻想のファシズム』しかり。何か大仰でカッコ付けてる感じが苦手で、ずっと敬遠していたのだった。

しかし、読まず嫌いはよくないので、改めて『希望の国エクソダス』を購入し読みだしたのだが・・・。 

これがすこぶる面白い。ナマムギというパキスタンで地雷撤去の作業をしている少年。その少年に触発された日本の中学生達が、日本という国のシステム(このシステムには日本の様々な問題が内包されている)を見限り、中学生達だけの新たな組織を作っていく(組織という概念自体が作中の中学生に言わせればナンセンスなものなのだが、あらすじ説明の便宜上使用した)。中学生たちによる革命を、経済と国際情勢の膨大な知識を絡めながら壮大なスケールで描いた小説で、どこを読んでも退屈させない。作中の中学生たちの破天荒かつ理知的な行動に比例して文体もとにかくエネルギッシュだ。

希望の国エクソダス』の前に古井由吉の短編集を読んでおり、こちらは個人の内面や一つの事象に深く深く掘り下がっていくような小説で、そのような内向の文学を好んで読んでいた自分には、古井由吉の文学とは全然テイストの違う、外に向かってエネルギーを放出しているような『希望の国エクソダス』は、とても新鮮だった。 

物語の狂言回しであるの「おれ」のキャラクターが魅力的だ。「おれ」は中年の雑誌記者で、ナマムギの取材のために乗った飛行機の中で、中村くんという一人の中学生と出会う。これが、中学生達と「おれ」の最初の出会いであり、以後、「おれ」は中学生達と接しながら、言葉に出来ない複雑な感情を抱くようになる。 

この「複雑な感情」が、とても丁寧に描かれている。小説を牽引する力は、「おれ」の外側の状況、すなわち、中学生達の奮闘(中学生達は概ねクールなので奮闘ではないかもしれない・・・)と激動の社会情勢を並行して描くダイナミズムにあり、事実、そこにも目を奪われるが、一方で「おれ」の内面は、とても繊細にミニマムに描かれている。そして「おれ」の目線の低さが、とても人間的だ。自分は中学生達から信頼されている数少ない大人だと自負し喜ぶ反面、自分の旧来の価値観からは明らかに異質で規格外である中学生に、畏怖する感覚がとても共感できる。

嫉妬とも憧憬とも言えない感情や、自分は他の大人たちと同じく中学生の敵であるのか、或いは、彼らの理解者であり応援者であるのか、逡巡する瞬間。中学生の突飛な行動と発想を、自分の倫理観と照らし合わせて違和感を覚える瞬間。しかし、その違和感を「自分が正しい」という根拠にまで発展できないもどかしさ。「自分は何も知らない」ということを知った瞬間。その一つ一つに頷かされる。

「おれ」が完全に中学生の味方であり、旧態依然とした大人のシステムに中学生と共に戦うというような単純な二項対立の物語だと鼻白むが、そうでないところが、小説に奥行きを与えている。横軸にダイナミックなストーリーがあり、エンタメ経済小説としても充分楽しめるが、奥行きに以上のような「おれ」の葛藤を始め、文学的な主題が流れており、重厚な小説に仕上がっている。

ということで、もっと村上龍の小説を読みたくなった。次は『昭和歌謡大全集』でも読もうかな。オバサン軍団と少年軍団が殺し合う話らしいし、これもスケールがでかそうだ。期待する。

以上

 

希望の国のエクソダス (村上龍電子本製作所)
 

 

22回目「高瀬舟」(森鴎外:集英社文庫)

『じいさんばあさん』『高瀬舟』『山椒大夫』『寒山拾得』『最後の一句』『堺事件』『阿部一族』の7つの短編が収録されている。そして『高瀬舟』と『寒山拾得』には森鴎外自身による解説が付いている。さらに巻末の解説(川村湊林望)も読み応えがあり、鴎外の年譜まで収録されている。これで340円(税別)はかなりお得だ。
 収録されている7作の中では、『寒山拾得』だけが他の作品とは少し毛色が違う。まず『寒山拾得』だけが死ぬ人がいない。他の6作品は沢山の死が存在する。『寒山拾得』だけが極めて平和なお話だ。下らない話だった。下らない話というのは、面白い。昔の中国の官僚のおっさんが、高名らしい僧侶に会いに行くだけの話なのだが、この官僚のおっさんの通俗的な性格が面白かったのだ。大正5年に書かれた小説なので、多少の文章の読みにくさはあるが、慣れればどうってことない。下らない小説なので読み終わった後、特に何も残らないのだが、それが逆に清々しかった。とは言っても、人間には「道」に対する態度が三種あるというくだりは、少し残っている。下らないトーンで書かれているので油断していると、急に人生の真理が説かれて襟を正される。『寒山拾得』はそん小説だった。
『じいさんばあさん』もどうってことない話なのだが、編集が上手い。無駄がない。短編小説のお手本のような小説だ。現在の情景の後に過去の出来事を書いて最後に現在に戻る。映像的でスピード感のある小説だった。とても巧いのだが、全体の中では印象が薄い作品だ。「巧いなぁ」という感想以外には特になにもない。
高瀬舟』は小学校だか中学校だかの国語の教科書に載っていた。当時の小学生だか中学生だかの自分は、『高瀬舟』の主題を理解していたのだろうか。いわゆる安楽死の是非をテーマにした小説だが、テーマの重さと情景の静けさが重なってシンミリとした気分になった。夜の高瀬川を下る高瀬舟の情景描写の上手さに舌を巻く。中盤に庄兵衛が人間の煩悩について考える場面に、鴎外の人間とか人生に対する諦念のようなものが滲み出ているように思え、感慨深かった。
山椒大夫』はいわゆる人身売買の話である。昔は、こういう事が頻繁に起こっていたのだろうか。人身売買というと、なんだか凄惨なイメージを持ってしまうが、『山椒大夫』に於いては昔話的にデフォルメされているので、人身売買という語感からイメージするような生々しい感じはない。母親と二人の姉弟と老女中の4人が、父親に逢うために旅をしていたところへ、人さらいに誘拐され、二人の姉弟は母親と離れ離れになってしまう。『山椒大夫』とは、姉弟を買った人物の名前だ。二人は山椒大夫の家で奉公させられる。やがて弟が山椒大夫の屋敷から脱走し、姉は自害する。可哀想な話ではあるが、それよりも二人の子供の気丈さが素晴らしい。アホみたいな感想で申し訳ないが、読んでいる間中、ずっと二人の姉弟を応援していた。
最後の一句』は、この中で一番好きな作品かもしれない。『山椒大夫』と同様、とても気丈な子供たちが出てくる。一番好きな作品だが、子供たちが持っている「死」の概念が、現代と比べてものすごくかけ離れている。この時代では、この子供たちのような考えがわりと普通なのかは不明だが、度が過ぎる親孝行に狂気を感じたのだ。
『堺事件』『阿部一族』も忠義の為に自分の命を顧みない、正に武士道を生きる人たちが沢山出てくる。どこか精神的に軟弱で未熟になっている現代人が読むと、単純に尊敬する。どちらも面白いのだが、命を捧げるのは殆どが成人した男だ。だから『堺事件』『阿部一族』よりも、『最後の一句』の方が、年端もいかない女の子が、親の為に死のうとする分、狂気の熱量を感じるのだ。
 あと『阿部一族』は、『阿部一族』が登場するまでが長い。前半部分も面白いのだが蛇足だ。前半は前半で別の小説にしてくれた方がよかった。森鴎外にそんな注文をしても仕方がないが。
以上。