日々の読書日記

読書の忘備録です

75回目「悪意の手記」(中村文則:新潮文庫)

不治の病に冒された男が人生に絶望し社会を憎悪する。奇跡的に病気は回復するが、闘病中に心の中で育まれた虚無と悪意は消えず、やがて同級生の親友を殺害する。殺害に至るまでの主人公の心の動きと、その後の数年の人生を、手記形式で描いた小説。なぜ主人公の「私」は親友を殺害したのか。闘病中に感じた虚無の正体は一体何だったのか。果たして「私」は殺人の罪に呵責を感じているのか。或いは感じていないのか。親友を殺害後も事件は発覚せず、一見平凡な生活を送るが、常に「私」の中には「自分は人殺しである」という事実が影法師のように付き纏う。さらに「俺は人殺しだ」と唐突に告白したい衝動に駆られたり、その瞬間に理性が働き告白するのを自制したり、自制したことにより安堵を感じたり、安堵したことに対して自身の卑劣さを感じたり、その時々の「私」の感情の変遷を詳らかに見つめる。罪を背負った人間の自問自答と自己分析によって書かれた手記である。

文体は簡明かつ明晰なのでスラスラと読み進められる。集中して一気に読了できる程の簡明さと勢いのある文体であるが、読み進める度に胸が苦しくなった。それは本書が「殺人」や「少年犯罪」といった重いテーマを扱っているからという理由も勿論あるが、もっと根源的に『悪意の手記』の「私」と読者である自分が似通っていると思ったからだ。決して他人事ではない切実さを本書に対して感じた。それ故の読みづらさと胸の苦しさである。

例えば、白血病を克服しオリンピックに出場したアスリートがいる。或いは、盲目の天才ピアニストがいる。彼や彼女が世間から称賛されるのは当然だと思う。自分も世間と同じく彼や彼女を尊敬している。元々の才能にプラスして、我々の想像を絶するほどの努力をされたのだろう。困難に克服し成功している人たちの物語を見る時、素直に敬服すると同時に、「もし自分が同じような立場だったら、どうだろうか」と考えて虚しい気持ちになる。自分は絶対、アスリートやピアニストのようには振舞えない。恐らくは『悪意の手記』の「私」と同じく世の中を憎み、「なんで俺が?」という思考に落ちていくように思う。幸い自分は、たまたま五体満足に生まれ、これまでも大した病気に罹ったことがないが、自分の性格を冷静に凝視すると、『悪意の手記』の「私」と同じ「悪意の種」を心に抱えているように思うのだ。だから、この小説に妙な親近感を覚えた。

作家が小説を書くとき、作家はどこまで登場人物に自己を投影し肉薄しているのか、という点についても考えさせられた。三人称の小説の場合、作家は登場人物より一段高い所から俯瞰して全体を見る。ある意味、駒のように人物を配置し動かせる。生かすも殺すも自由自在である。三人称小説の登場人物にとって作家は神のような存在だ。しかし、一人称で書かれた小説には、三人称小説のように作家が登場人物に対して持つ優位性はない。小説はあくまで虚構を書く作業なので、一人称だからといって作家がそのまま作中人物になるわけではないが、三人称小説に比べると、作家本人と作中人物の距離は非常に近くなる。作家自身が作中人物に同化する必要が出てくる。『悪意の手記』は一人称で書かれた小説であり、さらに手記という形式を取っている。手記を書く動機は、自分が何者なのか、その存在の根源を見つめ直すためである。普通の一人称小説よりも、より強く密接に人物と同化しなければ、読者に対して説得力を持ちえない。だから、『悪意の手記』のような小説を書くのは精神的にしんどいだろうな、と思った。大きなお世話かもしれないが、中村文則氏の精神状態を少し慮った。何しろ「親友を殺した男」になり切って書かないといけないからだ。

また『悪意の手記』には作家が人物になり切るスタイルをとったが為の綻びも僅かに感じた。一番の綻びは「文章が巧い」ということだ。「文章が巧い」という作家にとっては一番の美点が、『悪意の手記』に於いては唯一の汚点になっている気がした。「巧い文章」に触れた時に、やっぱりこの手記は実際に親友を殺めた少年ではなく、中村文則というプロの作家が書いた創作物なのだな、と些か冷静になってしまったのである。

犯罪者の心理を描写した作品は沢山あるが、作家の想像力だけで書かれたものより、永山則夫のような実行犯が書いたものの方が身に迫るものがあるのは、ある意味致し方ないことだ。だからといって、作家が実際に殺人を犯すわけにはいかない。できるなら、純粋な想像力だけで書かれ、尚且つ永山則夫を凌駕するような作品を読んでみたい。ともあれ、自分の好きな町田康の『告白』とはまた違う手触りで、『悪意の手記』も良い読書体験をさせてくれた小説でした。

 

74回目「サイドウェイ」(アレクサンダー・ペイン監督

たまに観たくなる映画の一つ。

マイルスとジャック。2人の中年男の珍道中を描いたロードムービー。マイルスは小説家志望だが、まだ夢は叶わず教師として生計を立てている。ワインに造詣が深い。恋愛は奥手で不器用。繊細な性格。

ジャックはテレビ俳優でプレイボーイ。浮気性。ジャックの独身最後の記念として、2人で気ままなドライブをすることに。その道中、マイルスはマヤという女性と出会い恋に発展する。

男の友情と男女の恋愛が描かれるが、平板な展開でストーリーに起伏はない。一週間という明確な時間が設定してあり、それぞれの章は「月曜日」「火曜日」という具合に曜日で区切られる。この演出が、これといった事件が起こるわけではないのに、ちょっとした余韻を残してくれる。夜中、不器用なマイルスがやっとマヤと結ばれる。2人が家の扉の前でキスをし、2人はそのまま家の中へ。カメラは2人を追わず、外の方向にパンしたまましばらく固定。やがて夜から朝になり、マヤが一人外に出て微笑みながらコーヒーを飲む。そのシーンで「木曜日」のテロップが入る。自分的にはここが『サイドウェイ』のクライマックスで一番好きなシーン。その後も映画は二転三転あるのだが、オマケみたいなもの。敢えて結末をはっきりさせないラストも好き。男2人のドタバタでコメディ色が強いが、甘いだけではないビターな大人の恋愛映画だ。

自分は正直、恋愛映画が苦手だ。他人の恋愛模様を見せられても鼻白むことが殆どだ。『バッファロー66』のような少し特殊な恋愛映画や、どこか壊れた人間が描かれる恋愛、或いは見た目がエログロでも実は途轍もなくプラトニックを描いた恋愛映画などは見ていられる。しかし、美男美女を主役にしたオーソドックスな恋愛は、恥ずかしくて見ていられない。『サイドウェイ』は、そういう意味ではオーソドックスな恋愛を描いている。だけど、何故か自分の琴線に触れるから不思議だ。

マイルスとジャックの友情も、2人の性格の違いが軸になっている。性格が真逆な者同士はウマが合う、というとてもベタな設定だが面白い。ベタ故に面白いのかもしれない。男2人の関係はニール・サイモンの『おかしな二人』に似ている。

実際問題、性格が真逆な人っているのだろうか。人の性格って、明確に分けられるほど、はっきりしているわけではないと思う。自分だって、或る友人からは「単純で分かりやすい」と言われる。でも別の友人からは「気難しくて何を考えているか分からない」と言われる。がさつな人にだって繊細な部分は絶対あるし、そもそも、人間関係なんて演技の連続ではないだろうか。人は如何に他人に本当の自分を見せないか、という事に腐心している生物ではないだろうか。

そういう意味で、『サイドウェイ』も『おかしな二人』も実は平板な人物しか描いていないのではないだろうか、という不満を持っているけれど、どちらも面白いと思ってしまう自分は、やはり友人が言うように「単純で分かりやすい」人間なのだろうか。まあ、どうでもいい。映画でも演劇でも小説でも面白ければ、それでいいのだ。それ以上考える事は野暮なのだ。おぼん師匠とこぼん師匠は似ていると思う。

 

 

73回目「悪い種子」(マーヴィン・ルロイ監督)

1956年公開の映画。まず原作の小説があり、次いでブロードウェーで舞台化され、最後に映画化された。その後、別の監督でリメイクされている。知ったような書き方だが、全部ウィキペディアで調べた情報である。原作小説は読んでいないし、舞台はもちろん観ていない。先日、適当にテレビをザッピングしていたらBSプレミアムでやっていた。正直、夜も遅いので見るつもりはなかったのだが、ダラダラと最後まで見てしまった。

無論、自分をテレビの前に留まらせたのは映画の力である。兎に角、主役の子供の演技が目を見張る。

ローダという名の小学生の女子が主人公。

映画は、どこにでもある家庭の朝の団欒から始まる。ピアノを弾いたり父母に元気よく挨拶したり、最初は活発で少しませた所のある子供という感じでしかないのだが、それも束の間。話が進むうちに、父母たちに向って発せられるローダの言葉の量が、異常なくらい多いことに気付く。ちょっと口が達者な子供というレベルをはるかに超えた異常さを感じる。この時点で、自分の心は映画に掴まれた。しかし、最初の内は子供から発せられる言葉の量が異常に多くても、内容自体は子供らしいと笑っていられる可愛いものだ。それが、ローダの同級生が死んだというニュースがラジオで流れた辺りから、ローダの言葉から子供らしい可愛さが消え、同時に薄気味悪さが芽生える。

同級生の死とは、ローダが同級生を殺害した事を意味する。この映画はミステリーではい。ローダが犯人であることは明白に分かる。動機は「書き方のメダルが欲しかったから」というもの。小学校の授業の一つである「書き方」にローダは自信を持っていた。メダルを貰えるのは当然、自分だと思っていた。しかし、書き方のメダルを貰ったのは同級生の男の子であった。ローダはその事に納得できない。だから同級生を殺害しメダルを自分のモノにしたのである。

小学生がクラスメートを殺害するという事件がそもそも異常なのだが、『悪い種子』という映画はそこの異常さには殆ど焦点を充てていない。事件が発覚しそうになった時、冒頭から一切テンションの変わらない饒舌で周りの大人たちを煙に巻く、その言葉のエネルギーの異常さ。そしてそのエネルギーの発生源が可憐な見た目の女の子という異常さ。要するに『悪い種子』は異常な映画なのだ。この異常さは意志の強さと直結する。ローダは「欲しいものは何が何でも絶対に手に入れる」「世界は自分が中心に回っている」という確固たる信念を持っている。一点の曇りもない。もしローダが大人なら、単に自己中心的で嫌な奴という印象しか持たないが、子供であるという所に妙な逞しさと清々しさを感じる。そして、純度百パーセントの悪がある。自分が悪であることに無自覚な悪である。この悪は、数ある悪のなかで最も厄介である。その悪に「過剰な言葉」を装填させ、大人を攻撃するのである。こんな悪魔を演じた子役は、すごい才能である。子役には、撮影後にカウンセリングが必要ではないかと要らぬ心配をしたが、何十年も昔の映画であることを忘れていた。ローダを演じたパティ・マコーマックは現在76歳。『悪い種子』出演後も沢山の映画に出演しているし、どうやら今でも現役らしい。

 

余談だが、自分はどうも子供の演技というのが嫌いであった。歌舞伎に出てくる子役を見るとイラっとする。子供のくせに演技しているのが、鼻に付くのである。子供の演技でも見ていられるのは、演技をしていない(しているのかもしれないが)風の自然体の子供と、「子供であること」が映画の宿命になっている子供。この2種類の子供の演技は見ていられる。

前者はアッバス・キアロスタミなどの映画に出てくる子供。後者は「霧の中の風景」や「シティ・オブ・ゴッド」などの子供が典型例である。だから「ストレートな子供の演技」で感銘を受けた子供は『悪い種子』が初めてである。

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72回目「瓶詰の地獄」(夢野久作:角川文庫)

あははははは。いひひひひひ。うふふふふふ。えへへへへへ。おほほほほほ。はっはっは。あーっはっはっはっは。ぐへへ。ぐひひ。いひひ。ほほほ。くっくっく。ききき。けけけ。

と、いうように小説内で笑い声を表現するのは難しい。カギ括弧の中に笑い声を入れると途端に下品になったり、シリアスな内容が滑稽になったりする。小説全体のバランスや雰囲気が、笑い声を表記することによって著しく損なわれる恐れがある。

戯曲の場合は、笑い声も含めて「発語される言葉」として書けばいいので、笑い声をそのまま表記しても小説ほど問題がないように思う。

敢えて滑稽感を出したり、ギャグとして使ったりという以外の目的で笑い声をそのまま表記するのは珍しいだろう。夢野久作の小説は、その数少ない例外ではないだろうか。どの短編も妖しくて怪しい内容だが、笑い声の表記が不思議と妖しさと怪しさに調和している。平仮名ではなく片仮名で表記されているのも一因だろうか。例えば、上品で知的な女性は「オホホホホ」と笑い、粗野な男は「へへへへへ」とか「ハハハハハ」と笑う。ここだけ切り取れば、とても漫画的でギャグのようだが全体を読むと結局この笑い方が正解なのだ。収録されているどの作品も、少なからず陰惨で人の心の暗部を描いている。しかし、このような笑い方の表記によって、ここに描かれているものは現実ではない、一種の黒いファンタジーなのだと読者に思い留まらせる効果がある。だから、陰惨な内容にも関わらず読後感は割と清々しい。覗いてはいけない世界と純然たる創作物を繋ぐ蝶番のような役割を果たしている。そこから、読者は甘美な世界に少しだけ酔わされる。だから、夢野久作の小説は案外エンタメとしても楽しめる。

 

表題作の『瓶詰の地獄』は、正直あまり面白くはなかった。短すぎるというのもあるだろうが、自分的には物足りなかった。割と有名な作品なので、読む前から内容は知っていた。だから、読み終わった後も「ふーん…」としか思わなかった。手紙が書かれた順番や、聖書に絡めた考察などが盛んにされているようだが、それほどこの短編に研究する材料があるのだろうか。

そこから、『人の顔』という、親の醜さの犠牲にされる子供という少し後味の悪い短編を挟んで、バイオレンス色と変態性が強い『死後の恋』『支那米の袋』が続く。この二編は、それぞれ男性・女性の一人語りで書かれており、先に説明した笑い声の記述による効果が顕著だ。

次に収録されている『鉄鎚』は、物語が前の四作よりしっかりとしており、読み応えがあった。夢野久作の十八番である怪しさと妖しさに退廃的な空気が加わり、自分の中では一番面白かった。

5作目は『一足お先に』という短編である。まず、タイトルが素敵だ。この小説に『一足お先に』というタイトルを付けるセンスが光っている。夢遊病をテーマにした作品で、収録作の中では一番ミステリー性が強い。失くしたはずの足の感覚に関する描写がとても巧い。

最後の作品『冗談に殺す』もミステリー仕立てだが、イマイチだった。とても悪い女が出てくる。取り敢えず、動物が好きな人は読まない方がいい。夢野久作の小説に残虐性と猟奇性を求めているのなら、この短編が一番合っているのかもしれないが、その残虐性の向う先が動物というのが最も嫌悪を抱くところだ。

 

71回目「21グラム」(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督)

見終わってから2週間ほど経っているので、だいぶ記憶が薄らいでいる。重たい映画であったことは覚えている。内容自体の重たさに加えて、ベニチオ・デル・トロなどの俳優の演技も重厚であった。脚本も重層的であった。3人の主要登場人物のエピソードを、時間軸をバラバラにして断片的に見せている。それぞれのシーンは意図的に短く撮っており、映画が始まって暫くは前のシーンと関連の無いシーンに次々と変わっていくため、話の全体像を掴むのに多少、困難を要する。それでも映画が始まって20分ほど経つと、朧気ながらそれぞれの登場人物の背景が見えてくる。全体像が分かってからも時系列はバラバラのままだが、不思議とストレスを感じることなく見続けることができた。このような凝った手法は作為性を感じてシラけることが多いが『21グラム』は、作為性を感じる暇もなく映画の重たいトーンに胸を絞めつけられる感じがした。

暗く重たく重層的な映画なのにタイトルが「21グラム」というのも、何かを考えさせられる。これは軽いのか重いのか。見た人の解釈に委ねられる。

交通事故で夫と娘を亡くした未亡人。心臓病を患って余命幾ばくもない男。交通事故の加害者。普通に暮らしていれば出会う事の無かった3人の人生が「臓器移植」を通じて交差する話である。この設定だけで「良い映画」になることが確実なほどプロットが巧みだ。イーストウッドの『ミスティック・リバー』を彷彿させる。こちらは、幼馴染の男3人が、数年後に或る事件の被害者・容疑者・刑事という形で再開する物語だが、運命の悪戯を描いているという点で共通している。

ただ、不満も若干ある。結局、運命に翻弄される人間の悲劇を描いた映画であると解釈している。元々他人であるはずだった人間が、交通事故と臓器移植をきっかけに深刻で濃密な関係になっていく。最愛の家族を突然亡くした悲しみで呆然自失の状態である女の前に、亡き夫の心臓を移植され命が助かった男が目の前に現れる。赤の他人から、まるで家族のような深い関係が萌芽する瞬間である。そうして、男と女の距離が少しずつ縮まっていくが、男が女の亡き夫の心臓を移植され命が助かったことを唐突に告白し、真実を知らされた女が「酷い人」と男を罵り泣き喚き取り乱す。このシーンは必然である。しかし、男の告白によって生じた関係の亀裂はセックスによっていとも簡単に修復されてしまう。この部分が不満である。まるで「濃厚な人間関係」を描く為に安易にセックスを撮ったように思えてしまうのである。肉体関係を描かなくても「濃厚な人間関係」は表現できるはずである。

下世話な自分としては、直前までの深刻でシリアスなシーンでも、彼らの頭の中の数パーセントは性欲に支配されていたのか、などと考えてしまい興ざめたのである。もちろん、セックスシーン自体に滑稽さはなく映画全体の重たいトーンを邪魔しているわけではない。寧ろ、移植手術の生々しい跡が残る裸体を愛撫し「強い心臓だ」と語るシーンは何事も言えない悲しみがある。

だからこそ、別の方法でこの悲しさを表現して欲しかったのである。

 

 

70回目「4」(作・演出:川村毅) 2021年8月29日 京都芸術劇場 春秋座

自分は比較的リベラルな人間だと思っているが、死刑制度に関してはずっと前から賛成の立場だ。死刑制度に賛成する理由をこの場で説明するつもりはない。自分はかなり節操のない人間なので、イデオロギー的なものはコロコロ変わる。ただ不思議と死刑制度に関しては、これまで変わることなく賛成の立場だ。

先日、東京と京都で上演された『4』(作・演出:川村毅)は、死刑をテーマにした舞台である。

登場人物はF、O、U、R、男の計5人。それぞれ順番に裁判員法務大臣、刑務官、死刑囚、死刑囚の遺族という役が与えられている。冒頭、アルファベット1文字の役名を与えられた4人がそれぞれのモノローグを語る。モノローグは各々のキャラクター説明という意味合いもあると思うが、かなりの量である。死刑と関わりを持つ人間たち、いわば「特殊な事情」を抱える人間たちのバックグラウンドが紹介され、重いテーマと相まって観念的なのだが、詩的な情感も含まれており難解さよりも台詞自体の美しさと抒情性を感じた。この冒頭の告白で、まず劇の世界に引き込まれる。

男以外の4人は概ね役が固定されているが、時折、Fが刑務官になったりRが法務大臣になったりと「役の入れ替わり」が起こる。最初の入れ替わりは、4人がそれぞれのモノローグを語り終えた後、自分たちが今しがた演じた役について話し合った後(つまり、この部分はメタ演劇的な構造になっている)に起こる。「交換しましょう」「やり直しましょう」という台詞が合図となり、4人が先ほどとは違う役になってモノローグの続きを語りだす。

要するに、最初のモノローグが終わり「交換しましょう」「やり直しましょう」という言葉が発せられる直前まで舞台上の人物たちは、裁判員でも法務大臣でも死刑囚でもない、役を剥奪された素の人間になるのだ。素の人間に「特殊な事情」はない。観客席にいる我々と同じく、本来死刑とは無縁の人間である。しかし、俳優たちが役を剥奪された状態は、長くは続かない。彼らは束の間の試行錯誤の末、また本来の役に戻る。Fは裁判員に、Oは法務大臣に…というように。ここに死刑制度、そして死刑の是非を考えるという行為に対しての痛烈な皮肉があるように感じた。我々は普段、凶悪で残忍な事件をニュース等で知った時、ごく自然に死刑制度について考える。死刑に賛成の者は「極悪人は死をもって償うべき」と言う。死刑に反対の者は「極悪人にも生きる権利がある」と言う。どちらが正しいかという是非はともかく、どちらの理屈も単純明快だ。単純明快な理屈を論拠として、様々な言説が賛成派からも反対派からも飛び出し、議論は発展する。しかし、これらの議論は死刑とは無縁の者たち、永遠に部外者である者たちの理論なのである。だから、その議論の場でどれだけ言葉を弄しても、結果は文字通り、言葉を弄ぶだけで終る。次の日には死刑制度について考えたことすら忘れている。故に、死刑制度の本質に触れる為には、部外者ではなく当事者になるしか方法はない。『4』の4人が、役を剥奪された素の状態から本来の役に戻る様子を見た時、無責任な部外者では死刑制度の本質について論じることは不可能であるという事実を突きつけられたような気がした。故に痛烈な皮肉を感じたのである。

当事者には、部外者にはない苦悩が付きまとう。観客の一人に過ぎない自分は、当事者の苦悩を味わえないジレンマがある。開高健ベトナム戦争の戦地に赴いた時、ベトナム人でもアメリカ人でもない自身は、どちらの苦悩も味わうことができないと自嘲と自虐を込めて『輝ける闇』に書いていたのと同種のジレンマである。

最初に自分は死刑制度に賛成であることを書いた。その考えは『4』を見た後でも変わる事はない。しかし、死刑制度について賛成を表明する時、自分は死刑制度についてどれだけの事を想像し得たであろうか。加害者への憎悪と被害者遺族の心痛、或いは、凶悪犯罪そのものに対する憎悪までは、考えを及ぼすことができる。だが、その先にある、例えば、実際に死刑囚の首に縄を掛ける刑務官や、執行の判を押す法務大臣の存在までは、考えが及ばない。その存在に想像を及ぼす前に、部外者としての平穏な日々を享受して生きている。

それはきっと、あまり良い事ではない。・・・という事を考えさせられた芝居だった。

 

69回目「月に囚われた男」(ダンカン・ジョーンズ監督)

監督はデヴィッド・ボウイの息子らしい。デヴィッド・ボウイは、自分が最も敬愛するミュージシャンの一人だが、息子の映画監督としての活躍は殆ど知らなかった。

たった一人で3年間、月面で採掘作業をしている男が主人公。話し相手は人工知能のみ。想像すると恐ろしい。自分なら、孤独に耐えられず発狂するかもしれない。そんな過酷な任務も終わりに近づき、あと何日かで地球に帰れる。そんなある日、男は事故を起こして昏睡してしまう。やがて目覚めると、自分とそっくりの男が自分の目の前にいた…。そんなお話。

外界とのコンタクトを遮断された孤独な状況と、クローン人間。ありがちなテーマのSFで、既視感もあるが丁寧に作られていて面白かった。

男と、男のクローンは、同一ではなく別の役者が演じている。自分は外国人の顔を見分けるのが苦手なので、同じ人間が一人二役で演じていると思っていた。似ていると言えば似ているし、別人と言われれば別人のような気もする。それくらい、見分けが付かない。事故の際に付いた顔の傷が、劇中ずっと消えないのは、自分のような見分けの付かない観客への配慮かと思ったが、そういう訳でもなさそうである。

ありきたりな話なのだけど、前述した通り丁寧に作られており、また随所に細かい拘りがあって好きな作品だった。良質な映画で、爆発的なヒットはないけど根強いファンが多くいると思う。インターネットを中心に、すでに様々なメディアで語られているのを、よく目にするので、今さらネタバレしても大丈夫だとは思うが、やはり、大っぴらに詳細を語るのは、なんとなく憚れてしまう。言いたいけど、あまり言いたくない。そんな微妙な感情を抱いてしまう映画だった。あまり言いたくはないのだけれど、男がテレビ電話で成長した自分の娘と話すシーン。そして、その録音をもう一人のクローンが聴くシーンが、細やかな感動を呼び起こす。不覚にも泣きそうになってしまった。

この映画を見た後、デヴィッド・ボウイの『Space Oddity』を聞いて、その日はよく眠れた。

最近、ブログの文章が短い。少し精神的に疲れている。それが理由か分からないが、琴線に触れる映画を見ると泣きそうになってしまう。