日々の読書日記

読書の忘備録です

70回目「4」(作・演出:川村毅) 2021年8月29日 京都芸術劇場 春秋座

自分は比較的リベラルな人間だと思っているが、死刑制度に関してはずっと前から賛成の立場だ。死刑制度に賛成する理由をこの場で説明するつもりはない。自分はかなり節操のない人間なので、イデオロギー的なものはコロコロ変わる。ただ不思議と死刑制度に関しては、これまで変わることなく賛成の立場だ。

先日、東京と京都で上演された『4』(作・演出:川村毅)は、死刑をテーマにした舞台である。

登場人物はF、O、U、R、男の計5人。それぞれ順番に裁判員法務大臣、刑務官、死刑囚、死刑囚の遺族という役が与えられている。冒頭、アルファベット1文字の役名を与えられた4人がそれぞれのモノローグを語る。モノローグは各々のキャラクター説明という意味合いもあると思うが、かなりの量である。死刑と関わりを持つ人間たち、いわば「特殊な事情」を抱える人間たちのバックグラウンドが紹介され、重いテーマと相まって観念的なのだが、詩的な情感も含まれており難解さよりも台詞自体の美しさと抒情性を感じた。この冒頭の告白で、まず劇の世界に引き込まれる。

男以外の4人は概ね役が固定されているが、時折、Fが刑務官になったりRが法務大臣になったりと「役の入れ替わり」が起こる。最初の入れ替わりは、4人がそれぞれのモノローグを語り終えた後、自分たちが今しがた演じた役について話し合った後(つまり、この部分はメタ演劇的な構造になっている)に起こる。「交換しましょう」「やり直しましょう」という台詞が合図となり、4人が先ほどとは違う役になってモノローグの続きを語りだす。

要するに、最初のモノローグが終わり「交換しましょう」「やり直しましょう」という言葉が発せられる直前まで舞台上の人物たちは、裁判員でも法務大臣でも死刑囚でもない、役を剥奪された素の人間になるのだ。素の人間に「特殊な事情」はない。観客席にいる我々と同じく、本来死刑とは無縁の人間である。しかし、俳優たちが役を剥奪された状態は、長くは続かない。彼らは束の間の試行錯誤の末、また本来の役に戻る。Fは裁判員に、Oは法務大臣に…というように。ここに死刑制度、そして死刑の是非を考えるという行為に対しての痛烈な皮肉があるように感じた。我々は普段、凶悪で残忍な事件をニュース等で知った時、ごく自然に死刑制度について考える。死刑に賛成の者は「極悪人は死をもって償うべき」と言う。死刑に反対の者は「極悪人にも生きる権利がある」と言う。どちらが正しいかという是非はともかく、どちらの理屈も単純明快だ。単純明快な理屈を論拠として、様々な言説が賛成派からも反対派からも飛び出し、議論は発展する。しかし、これらの議論は死刑とは無縁の者たち、永遠に部外者である者たちの理論なのである。だから、その議論の場でどれだけ言葉を弄しても、結果は文字通り、言葉を弄ぶだけで終る。次の日には死刑制度について考えたことすら忘れている。故に、死刑制度の本質に触れる為には、部外者ではなく当事者になるしか方法はない。『4』の4人が、役を剥奪された素の状態から本来の役に戻る様子を見た時、無責任な部外者では死刑制度の本質について論じることは不可能であるという事実を突きつけられたような気がした。故に痛烈な皮肉を感じたのである。

当事者には、部外者にはない苦悩が付きまとう。観客の一人に過ぎない自分は、当事者の苦悩を味わえないジレンマがある。開高健ベトナム戦争の戦地に赴いた時、ベトナム人でもアメリカ人でもない自身は、どちらの苦悩も味わうことができないと自嘲と自虐を込めて『輝ける闇』に書いていたのと同種のジレンマである。

最初に自分は死刑制度に賛成であることを書いた。その考えは『4』を見た後でも変わる事はない。しかし、死刑制度について賛成を表明する時、自分は死刑制度についてどれだけの事を想像し得たであろうか。加害者への憎悪と被害者遺族の心痛、或いは、凶悪犯罪そのものに対する憎悪までは、考えを及ぼすことができる。だが、その先にある、例えば、実際に死刑囚の首に縄を掛ける刑務官や、執行の判を押す法務大臣の存在までは、考えが及ばない。その存在に想像を及ぼす前に、部外者としての平穏な日々を享受して生きている。

それはきっと、あまり良い事ではない。・・・という事を考えさせられた芝居だった。