松本雄貴のブログ

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71回目「21グラム」(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督)

見終わってから2週間ほど経っているので、だいぶ記憶が薄らいでいる。重たい映画であったことは覚えている。内容自体の重たさに加えて、ベニチオ・デル・トロなどの俳優の演技も重厚であった。脚本も重層的であった。3人の主要登場人物のエピソードを、時間軸をバラバラにして断片的に見せている。それぞれのシーンは意図的に短く撮っており、映画が始まって暫くは前のシーンと関連の無いシーンに次々と変わっていくため、話の全体像を掴むのに多少、困難を要する。それでも映画が始まって20分ほど経つと、朧気ながらそれぞれの登場人物の背景が見えてくる。全体像が分かってからも時系列はバラバラのままだが、不思議とストレスを感じることなく見続けることができた。このような凝った手法は作為性を感じてシラけることが多いが『21グラム』は、作為性を感じる暇もなく映画の重たいトーンに胸を絞めつけられる感じがした。

暗く重たく重層的な映画なのにタイトルが「21グラム」というのも、何かを考えさせられる。これは軽いのか重いのか。見た人の解釈に委ねられる。

交通事故で夫と娘を亡くした未亡人。心臓病を患って余命幾ばくもない男。交通事故の加害者。普通に暮らしていれば出会う事の無かった3人の人生が「臓器移植」を通じて交差する話である。この設定だけで「良い映画」になることが確実なほどプロットが巧みだ。イーストウッドの『ミスティック・リバー』を彷彿させる。こちらは、幼馴染の男3人が、数年後に或る事件の被害者・容疑者・刑事という形で再開する物語だが、運命の悪戯を描いているという点で共通している。

ただ、不満も若干ある。結局、運命に翻弄される人間の悲劇を描いた映画であると解釈している。元々他人であるはずだった人間が、交通事故と臓器移植をきっかけに深刻で濃密な関係になっていく。最愛の家族を突然亡くした悲しみで呆然自失の状態である女の前に、亡き夫の心臓を移植され命が助かった男が目の前に現れる。赤の他人から、まるで家族のような深い関係が萌芽する瞬間である。そうして、男と女の距離が少しずつ縮まっていくが、男が女の亡き夫の心臓を移植され命が助かったことを唐突に告白し、真実を知らされた女が「酷い人」と男を罵り泣き喚き取り乱す。このシーンは必然である。しかし、男の告白によって生じた関係の亀裂はセックスによっていとも簡単に修復されてしまう。この部分が不満である。まるで「濃厚な人間関係」を描く為に安易にセックスを撮ったように思えてしまうのである。肉体関係を描かなくても「濃厚な人間関係」は表現できるはずである。

下世話な自分としては、直前までの深刻でシリアスなシーンでも、彼らの頭の中の数パーセントは性欲に支配されていたのか、などと考えてしまい興ざめたのである。もちろん、セックスシーン自体に滑稽さはなく映画全体の重たいトーンを邪魔しているわけではない。寧ろ、移植手術の生々しい跡が残る裸体を愛撫し「強い心臓だ」と語るシーンは何事も言えない悲しみがある。

だからこそ、別の方法でこの悲しさを表現して欲しかったのである。