松本雄貴のブログ

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61回目「存在の耐えられない軽さ」(ミラン・クンデラ:集英社文庫)

昔、加藤周一という人の論評を読んでとても感動した覚えがある。小説でも映画でもなく、評論を読んで感動したのは、この時が初めてであった。「知の巨人」と呼ばれた人で、世間的には左派系の論客とされているようだが、右とか左とかの分類がいかに無意味であり、人間の知性はそんな分類を越えたところにあるということを、当時の自分は加藤周一の文章を読んで思い知らされたのだ。

中でも、かつてソ連軍がチェコプラハを占領し、プラハの自由を脅かした事件について書かれた論評『言葉と戦車』が白眉であった。

破壊の象徴である「戦車」と自由の象徴である「言葉」を対比し、「圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉」の戦いに決着が付かないと結ぶ。この一文の中に世界の不条理が凝縮されているような美しさを感じたのである。まさに美文だ。

そんな加藤周一の文章に接したのも学生時代。論の内容も殆ど忘れかけていた折りに、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読んだ。加藤周一の『言葉と戦車』は「言葉」と「戦車」の対比で論を紡いでいくが、『存在の耐えられない軽さ』は、言葉ではなく、言葉を発する主体である「人間の身体」の対比で物語を紡いでいるように思った。身体は「人間の生」或いは「人間の性」の最も具体的で万人に与えられた身近な表現ツールである。そして、その身体の対比として描かれるのは、当時のプラハを含むヨーロッパの世相である。

終戦後の世界の混沌、つまり、冷戦のはじまり、社会主義の台頭、遠いアジアの戦争、言論の弾圧、芸術に対する検閲など、不穏で混沌とした世相を描きながら、同時にその大きな時代の流れに翻弄される4人の男女の恋愛を描く。リアルな肉体を持った4人の人間である。

幾人もの女の肉体を貪りながらプラトニックな愛を求め続ける男。幼少期の母親のトラウマから逃れるため一人の男の愛に執着する女。彼らが人生の途中に於いて、自らを律した思想とは相いれない精神的・肉体的困難に直面した時、その困難を乗り越える一つひとつの方法・手段も大変興味深く面白い。彼らの浮気や性愛、インモラルな情事などは全て、混沌の時代に肉体をもって対抗するための彼らなりの手段であり、必然であったと思わせる。それくらいに込み入った関係性(それは登場人物の人間関係だけでなく、世相と人間の関係も含む)を立体的に描いた長編だった。

ただ、少しばかり作者が顔を覗かせすぎている部分があり、そこが蛇足に思えた。読者の解釈に委ねるべき部分にまで作者が地の文で解説してしまうのは、もったいないと思った。

 

これをもし日本で映画化するなら、主人公は石田純一が最も適していると思ったが、年を取り過ぎているので却下だ。

 

60回目「毛皮のヴィーナス」(ロマン・ポランスキー監督)

果たして「SとM」という概念は「陰と陽」「馬鹿と天才」「強者と弱者」などのように明確に区分できる対義語なのだろうか。一般的には、Sは虐げる人、Mは虐げられる人というイメージが広く持たれている。その意味では、確かに両者は対極の概念である。両者の価値を対極として置いた場合、マゾヒズムの成立にはサディズムの存在が必要だと、簡単に言えてしまう。虐げる人がいなければ、虐げられる快感を得ることはできない。 

しかし、もう少し深いところまで両方の意味を掘り下げていくと、「SとM」というのは、そんなに分かりやすく明確に分けられたものではなく、もっと入り組んで複雑で重層的なものではないだろうか。

例えば、女性が犯されているポルノを見て興奮する男性がいたとする。この男性はサディストだろうか。それともマゾヒストだろうか。恐らく、多くの人はこの男性をサディストと見なすだろう。虐げられている女性を見て興奮するのだから、サディストに違いないと評価を下すのは自然である。しかし、この結論付けは見落としているポイントが二つある。

一つ目は、この男性はポルノを見ながら「犯される女性」の方に自己を投影しているかもしれないという点である。ポルノを見ている間、性別を越えて女性の方に感情移入をしている場合だってあり得る。この視点で考えると、男性はマゾヒストということになる。「犯す男」ではなく「犯される女」に自分を置き換えて興奮しているからだ。

二つ目は、この男性は実は、ポルノを見ながら精神的に強い嫌悪感・不快感を覚えているかもしれないという点である。この場合、男性の視点は「犯す男」でも「犯される女」でもない。どちらかに自己を投影するわけではなく、ただフラットな状態でポルノを見る。そして「男が女を犯している」というおぞましい光景に、彼が持っている通常の倫理観から強い不快を感じるのだが、同時に「不快を感じている自己の状態」に快感を覚えているのだ。かなり込み入った性癖だが、この場合も男性はサディストではなくマゾヒストと言えるだろう。マゾヒストは虐げられることに快感を覚えるのであるから、不快なポルノを見ることによって、自分自身を虐げているのである。

このような例からも分かるように、SMというものは一筋縄ではいかない。ある人を例に挙げて「彼はSだろうか、Mだろうか」という議論も不毛だ。

ロマン・ポランスキーの『毛皮のヴィーナス』は、この一筋縄ではいかないSMの不可解さを、舞台の演出家とオーディションに来た女優という二人の男女を使って上手く表現している。最初から最後まで、二人の男女のSとMの変遷を描いている。ここでのSMは、単に性癖としてのSMではなく、両者のパワーバランス、イニシアティブという意味合いもある。冒頭は当然、演出家である男の方にパワーが傾倒しているが、それも束の間、女の言葉や態度が男を翻弄し気付いたら男は女の術中にはまっている。オーディションに来た女は、演出家の男に自分の演技を見てもらうため、ステージの上で台本を読むが、一人ではできないため男に相手役の台詞を読むように頼む。本来は、オーディションの段取りも指示も全て演出家である男に決定権があるのに、女優の方にイニシアティブを握られてしまう。ここから目まぐるしくSとMの攻防が続くのだが、台本の読み合わせという設定が、さらに虚実の境目を曖昧にし、二人が話している言葉は、オーディションの台本の台詞なのか、『毛皮のヴィーナス』という映画の台詞なのか、軽く混乱する。その混乱はSMが内包している複雑性に通じるものがある。分かりにくいが故に面白かった。

ロマン・ポランスキーは、『おとなのけんか』という映画を撮った。この映画は、子供同士の喧嘩における加害者の両親と被害者の両親の話で、登場人物はそれぞれの両親の四人だ。場所も被害者の親の居間である。ほぼ、登場人物の会話だけで成り立っている。この『おとなのけんか』を見た時、「面白いけど映画にする意味はあまりない」とも思った。シーンの転換がないので、舞台向きの話だと思ったのだ。『毛皮のヴィーナス』も最初観た時、同様の感想を抱いた。『おとなのけんか』と同じく、場所は固定されているし、二人の人間の会話劇で成立すると思ったのだが、やはり『毛皮のヴィーナス』は舞台ではなく映画の方が良いと思い直した。

『毛皮のヴィーナス』を舞台にしてしまうと、二人の台詞の読み合わせのシーンや、マゾッホの小説のダブル・ミーニングなどから、容易に「劇中劇」とか「メタ演劇」なんて言葉で批評されてしまう。そんな容易さを拒んだ所、つまり複雑で批評しにくい部分にこそ、この映画の価値があり、その価値はSMの不可解さと結びついているのではないだろうか。

 

ちょっと余談だが、この映画を観ている時、ちょっといいビジネスを思いついた。「放置プレイバー」というのはどうだろうか。放置されたい人をターゲットにしたバーで、従業員のホストorホステスは客にまず注文を聞く。聞いたらそのままずっと放置する。客と対面するのが嫌なら、客が帰るまで厨房裏の事務所に待機してもよい。事務所の中には、雑誌やテレビ、ゲームもあるので、思う存分、客の存在を忘れられる。しびれを切らした客が「帰る」と言い出したら、ドリンク代と放置代を貰って帰ってもらう。放置代は30分で1万円。閉店時間まで放置できる。オーダーされたドリンクも出す必要はない。出した時点で放置ではなくなるから、出してはいけない。ただ、ドリンク代として代金はきちんと頂く。客は放置されたいマゾヒストしか来ないので、クレームになることもない。むしろ、どれだけ酷い接客をするかが重要であり、ここで働くホストorホステスは、普通の職場なら怒られるだろうサボる技術、アンチ・ホスピタリティーの技術が要求されるのである。

このアイデア、良いなと思った人がいたら無料で差し上げます。

 

 

59回目「野いちご」(イングマール・ベルイマン監督)

1957年公開の映画。本ブログで取り上げた映画の中では恐らく一番古い。有名な映画だが、自分は初めて観た。モノクロの映画なので、眠気に襲われないか心配だったが杞憂だった。巨匠の古典的名作だと思って最初は身構えたが、途中から全く気負わずに観ることができた。総じて楽しい映画であった。

少し偏屈で皮肉屋の老人が主人公。老人は長年医学の研究をしている教授で、これまでの功績を称えられ大学から学位の受賞式に呼ばれる。老人は、ストックホルムから授賞式が行われるルンドという街まで車で移動する。その道中で起こる彼是を中心に描いたロードムービーだ。

老人に同行する人、つまり旅のパートナーになるのは息子の奥さん。つまり義理の娘だ。この設定がなかなか心憎い。義理の親子という関係は、血の繋がりはないが赤の他人でもない、謂わば、微妙な関係だ。濃密でもなく希薄でもない。この関係の微妙さが、時に旅の熱気を抑制し、時に旅の過酷さを緩和する。物語がどちらかの方向に傾くのを中和する役割を担っている。そして、何故この義理の娘が老人の家に居候していたのかが明かされる瞬間が少しほろ苦い。

道中に人と出会う楽しみもロードムービーの醍醐味だ。先に「総じて楽しい映画」と書いたが、自分が『野いちご』に楽しさを感じたのは、主人公たちが途中で出会い、そのまま最後まで同行する3人の若者(男2人に女1人)が大きく関係しているように思う。この3人の若者、とても良い人達なのだ。「良い人達」との形容は抽象的に過ぎるのでもう少し付け加えると、奔放で屈託がない人達だ。この3人の若者は、たまに口論をしたり喧嘩をしたりもするが、嘘がない。底なしに明るくあっけらかんとしている。モノクロの画面の中で、太陽のように映えている。悪意と底意地の悪さに満ちた現代社会に生きる自分は、こういう人と友達になればきっと楽しいだろうな、と思わせられた。義理の娘が、妊娠と夫婦仲に亀裂が入っている事を老人に告白し、映画が少し不穏なトーンに覆われるが、3人の無邪気さが最後まで映画に明るさと楽しさを添えている。だから、安心して観ていられるのだ。

時折、老人の回想シーンと夢のシーンが挿入される。夢のシーンは死を強く暗示しており、暗くて不吉だ。冒頭の夢のシーンは、シュルレアリスム的な不気味さと怖さもある。夢の不吉さは旅の楽しさとは対極的で、コントラストがくっきりと印象付けられる。この夢のシーンが、映画に楽しさだけではないメリハリのようなものを与えており、それは、人生は旅のように楽しいだけではない、終わりは必ず死が待っていると、映画に教えられているような気がした。それは人生の教訓である。

自分がイングマール・ベルイマンの映画を観たのは、『仮面・ペルソナ』に引き続いて2作目である。もっと見たいなと思った。

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58回目「ふらんす物語」(永井荷風:新潮文庫)

自分は結構、海外旅行が好きだ。沢木耕太郎とか金子光晴に憧れてインドを放浪していた時期もあった。といっても訪れたことのある国は全部で11か国とそれほど多くない。ガチでバックパッカーをやってる人には、遠く及ばない。そして、その11か国の中に、フランスは入っていない。

今後もフランスに行く予定はない。もし今、仮に海外に行けるのならヨーロッパよりもアジアかアフリカを選ぶ。アジアかアフリカの方が、混沌としていて面白そうだ。もし今、仮にヨーロッパの国のどこかに行けるのなら、東欧のどこかを選ぶだろう。自分は誠に失礼な話だが、東欧の国々に対して貧しく荒んだイメージを勝手に抱いている。その荒んだイメージが自分に合っている気がする。フランスは文化的に洗練されている印象があり、自分には少し敷居が高いように思う。フランス文学もフランス映画も好きだけど、フランス自体には行きたいと思わない。芸術家としての視点ではフランスはとても魅力のある国だが、旅人としての視点ではあまりそそられるものがない。自分にとって、フランスとはそのような国だ。 

永井荷風は明治の作家である。自分とは違い、芸術家としても旅人としてもフランスに惚れ込んでいる。それはこの『ふらんす物語』を読めば分かる。フランスに対する熱が強すぎて、フランスへの一直線な思いが空回りしている部分も多い。フランスがどれだけ作者にとって住み良い美しい国であるかを表現するために、わざわざ他の国を貶めたり、その貶め方も明らかに差別的な表現を用いていたりする。甚だ視野狭窄的ではあるが、我々とは全く別世界に生きた人物が書いた紀行文として割り切ると、差別的な表現も読んでいてそれほど不快には感じない。寧ろ、作者のフランスへの愛が強すぎるが故の表現だと捉えて読むと、一種の愛嬌をも感じる。それくらい荷風のフランスへの思いは屈託がない。明治の文豪なんて所詮、我々とは生きた時代も見た風景も違うので、差別的表現を一々気にしない方がよい。因みにいうと、この『フランス物語』は国籍に対する差別的表現だけでなく、男尊女卑的な表現も多い。収録されている『雲』という短編が特に男尊女卑的だ。『雲』の主人公はとても最低な男で、自分の性欲は正当化し「女を買う」ということに些かの抵抗も感じないが、女にはプラトニックを求める。そして、女との恋愛が面倒になると、これまた都合の良い言い訳で自身を納得させて女を捨てる。要約すれば、そんな男が出てくる話だ。娼婦に対する偏見もひどいものだ。

これはこれで面白い作品ではあるが、現代の観点から考えると、不快に思う人もいるだろうから、オススメはしない。

ところで、よく巻末に「当作品には差別的な表現があるが、作者に差別を助長する意図はなく、作品の文学的価値と作者が故人であることを鑑み、そのままにしています」と書かれた本を見かけるが、その一言を付け加えることによって、全ての差別的表現が許される文学界の風潮は、どうなのだろう。自分はずっと違和感を持っている。単に免罪符として、このようなフレーズを乱用するのは良くないように思う。いっそのこと、「私は差別する気が満々でこの作品を書きました。それが不快なら最初から読まないで下さい」と書いてくれた方が、潔い気がする。

 もう少し『ふらんす物語』の中身に触れる。タイトルの通り、永井荷風のフランス外遊時の体験を元にした、短編と随筆で8割ほど占められているが、時折、アメリカ滞在時の回想が挿入され、アメリカとフランスの違いを比較する。比較の対象は、車窓から眺める景色の印象であったり、良い芸術が産まれるにはどちらが適しているかの考察であったり、女の性格であったりする。いずれも、荷風の中ではアメリカではなくフランスに軍配が上がる。そういったところが、憎めない。

また後半は、フランスから日本に帰国するまでの道中に訪れた国も舞台となる。ポルトガルシンガポールなど、フランス以外の国について書かれる。この辺りから、アジア諸国に対する差別的表現が顕著になってくる。そして、日本の帰国が徐々に近づくにつれ、フランスにホームシックを感じる様子が面白い。その感情は、当時の文士たちが皆、多かれ少なかれ持っていたであろう西洋コンプレックスの裏返しなのだろうかと思うと、とても興味深い。

ともあれ、今はコロナ禍で海外旅行ができない。『ふらんす物語』は、読むと異国情緒を感じられる。スマホもインターネットもない時代の海外生活を疑似体験でき、お得なのではないだろうか。

以上

 

ふらんす物語 (新潮文庫)

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57回目「闇の奥」(ジョゼフ・コンラッド:岩波文庫)

フランシス・フォード・コッポラの映画『地獄の黙示録』の原作。映画は完全版で3時間半くらいあり非常に長い。『地獄の黙示録』を観たのは15年ほど前だろうか。あまり覚えていないが、ジャングルの奥地へ主人公一行が船で進んでいくシーンの臨場感と、泥沼から男が顔を出すシーンの薄気味悪さは覚えている。

また、冒頭に流れるドアーズの『The End』と「カタツムリが剃刀の上を這う」イメージが、他の戦争映画にはあまり感じない不穏さを強く印象付けられた。この不穏さは戦争ではなく人間一般が持つ不穏さだと、若い頃の自分は結論付けたのである。しかし、若い頃の感覚ほど当てにならないものはない。この感覚が正しいのかどうかを再度検証するため、今回、『闇の奥』を読み終えてからもう一度『地獄の黙示録』も観ようと思ったのだが、なかなか時間がなく、まだ観ていない。だったら最初から書くなという話だ。ただ、早くブログを更新したかったので、映画は再見していないが、続けて書くことにする。

地獄の黙示録』はベトナム戦争の映画で、舞台もベトナム(orカンボジア?)だが『闇の奥』はアフリカの奥地である。取りあえず、『闇の奥』を映画化しようと思い立った時に、設定をベトナム戦争にアレンジしようとする発想はまず自分には思いつかない。

『闇の奥』では主人公マーロウが、アフリカの奥地にいるクルツいう名の腕きき象牙採取人に会いに行くという話。『地獄の黙示録』では、主人公ウィラード大尉がカンボジアの奥地で独立王国を築いているカーツ大佐を暗殺しに行くという話。

マーロウがウィラード大尉に、クルツがカーツ大佐にそれぞれ置き換えられている。得たいが知れないが、ある種のカリスマ性を持った人物に会いに行くことが映画と小説の共通部分であり、話の根幹である。この部分を変えてしまえば換骨奪胎したことにはならない。映画はかなり大胆で飛躍したアレンジだが、小説の主題・モチーフを変えているわけではなく、ちゃんと残している。さらに戦争映画が持つスケールと狂気を獲得している。当時の自分は『地獄の黙示録』を語れるほどには理解しておらず、長くて難解な映画だと正直思ったが、コッポラ監督の原作に対する敬意は、『闇の奥』を読み終えた今は感じられる。

ここからは『闇の奥』を読んだ純粋な感想を書く。

まず、マーロウは実際にクルツに会うのだが、自分はクルツが登場しない方がよいのではないかと思った。カフカの『城』が、目の前にあるはずの城に永遠に辿り着けない様子を描くことにより、実体があるのかないのか分からない城に翻弄される不条理、ひいては存在の不安というものの表現に成功しているのと同様に、『闇の奥』も最後までクルツが現れない方が、クルツという存在の不気味さと不可解さをより強く表現できたのではないかと思った。事実、ラスト近くでマーロウがクルツに会う場面、そして二人が会話をする場面は、クルツの登場に些か興覚めした。「すごい奴」「得体の知れない男」というネタフリにずっと付き合わされていたが、実際に現われると、どうってことのない少し精神がおかしいだけの普通の男という印象がぬぐえなかった。クルツはもっと悪魔的で怪物的な人間だろうというこちらの予想が悪い意味で裏切られた感じがした。カフカの『城』もベケットの『ゴドーを待ちながら』も「現れないこと」「辿り着けないこと」に価値がある。『闇の奥』も、こっちの系統であってほしかった。あと、『闇の奥』は三人称の小説だが、ストーリーの9割はマーロウが同僚の船員たちの前で喋るという形で書かれている。つまり、一人語りが恐ろしく長い。それならば、マーロウの独白とかマーロウの手記という形で、最初から最後まで一人称の小説として書いた方がよかったのではないだろうか。話の継ぎ目で、たまに現実の船の上に戻るのが、効果的とも思えなかった。 

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

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56回目「ガンモ」(ハーモニー・コリン監督)

正直、全然面白くなかった。「面白くなさ過ぎて逆に面白い」という訳でもなく、純粋に面白くなかった。最後まで観るのが苦痛だった。こんな映画も珍しいと思う。全体的に変な映画だなぁという印象は持ったが、変であることが映画の長所になっているわけでもない。

どのシーンも微妙に不快で微妙に悪趣味だった。ものすごく不快でものすごく悪趣味なら、それはそれで評価できるが、そこまでも行ききっていない。

オハイオ州の小さな町を舞台に、そこで生活する人間(多くはティーンエイジャー)のどこか荒んだ日常を、断片的につなぎ合わせた映画とでもいえばよいだろうか。一貫したストーリーがあるわけではない。町全体の荒廃した感じは、とても上手く表現されていたが、評価できるのはそこだけという印象だ。

その荒んだ町の印象は、ドラッグ、暴力、いじめ、性的マイノリティーティーンエイジャーの性、フリークス、児童虐待、動物虐待、といったセンセーショナルなワードに全て依っている気がした。この映画は90年代に撮られた映画なので、当時はこういったセンセーショナルなテーマを映画に取り入れるのが新しかったのかもしれないが、今見ると手垢にまみれた感は否めないし、短絡的に過ぎると思う。

センセーショナルなものをテーマに設定するのは別に良いが、一つか二つに絞るべきだろう。多すぎると表層をなぞっただけの薄口な映画になってしまう。『ガンモ』はその失敗例だ。薄口であるということは、テーマに対する愛が無いということだ。

例えば、バロウズ中島らもの小説はドラッグを扱ったものが多いが、これらの作品からは作者のドラッグというものに対する愛情を感じる。愛情があるから、作品の中でドラッグを否定するにせよ肯定するにせよ、表層をなぞっただけではない深さがある。しかし『ガンモ』のドラッグ描写には愛情がない。「愛情」とは「興味」と置き換えてもよいし、「執着」と置き換えてもよい。創作する上での追い込みが足りない。

ガンモ』にはフリークスも出てくるが、やはり『ガンモ』にはフリークスに対する愛情がない。松尾スズキの『ファンキー』を観た後に『ガンモ』を見ると、やはり『ファンキー』には身障者に対する愛情を感じる。対して『ガンモ』は単に画面作りのためだけに身障者を使っていると感じざるを得ない。安易さだけが残る。愛情を持つことは、実際に映画に出演した身障者に対しての最低限の礼儀であろう。監督はせめてもの罪滅ぼしに、障碍者施設でアルバイトでもボランティアでもすればよいと思う。冗談ではなく、いい経験になるだろう。経験が増すと、作品にも深みがでるだろう。当時のハーモニー・コリンはまだ若かっただろうから、自分が偉そうにアドバイスしておいてやる。

性的マイノリティーについても同様だ。愛情がない。アルモドバルの映画や『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の方が性的マイノリティーに対して愛情がある。『ガンモ』を観るくらいなら、こちらをオススメする。

あと、猫だ。詳細は省くが、この監督は猫に何か恨みでもあるのだろうか。さすがに本物の猫ではなく作り物だと思うが、猫好きの自分はちょっと許せない。映画の中の唯一の良心といってよい、あの猫好きの姉妹が居たたまれない。監督は『きょうの猫村さん』でも読んで動物愛護の精神を養うべきだ。

色々難癖は付けたが、この映画はけっこう色んな人に評価されている。自分は、全くこの映画の良さが分からなかったが、それは自分のセンスにも問題があるかもしれない、と一応のフォローを入れておく。

以上

 

ガンモ [DVD]

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  • 発売日: 2003/11/27
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55回目「世にも奇妙な漫☆画太郎」(漫☆画太郎:集英社コミックス)

ウンコしてケツを拭いたら紙が破れて指にウンコが付いた、なんて経験は誰でも恐らく2,3回はあると思う。キムタクやGACKTにだってあると思う。過去にはなくても未来には充分起こり得るとも思う。しかし、人は普通、そんな失敗談をあまり語らない。なぜ語らないかというと、そんなことを自分からわざわざ言う必要などどこにもないからだ。そして、そんな汚い話は別に誰も聞きたくないからだ。話自体に需要も供給もない。誰も望んでいないのである。

漫☆画太郎の凄さは、このような誰も望んでいないであろう話を徹底して描き、あまりの下品さに最初は眉を顰めていた読者をも強引に笑わせてしまう力業にあると思う。これは並大抵のことではない。実際の内容は、冒頭に自分が紹介した例なんかよりも数段えげつない。ウンコ、おしっこ、おなら、ゲロといった小学校低学年レベルの下ネタに加えて、少年誌に連載していた時よりも読者の年齢層が上がった為か、セックスにまつわるエロネタも時折、投入される。唯一無二の狂ったタッチなので、エロネタも全く性的興奮を呼び起こさないが、逆に安心して大笑いできる。

漫☆画太郎の漫画を読んでいると、自分が信じている価値観を根底から揺るがされる感覚に陥ってしまう。人は誰しも程度の差はあれ「他人に良く思われたい」と考えながら生きている。モテたいと思う。だから格好付ける。背伸びする。勉強したり服装に気を使ったり知識を増やしたり、といった努力をする。ナルシシズムは全て、この「他人に良く思われたい」という原理に依るものだ。とりわけ、作家とかアーティストといった芸術を生業としている人はこの傾向が他の人に比べて強いように思う。それは悪いことではない。そのナルシシズムが原動力になって、結果的に面白い作品・他人に評価される作品を産み出せれば良いからだ。事実、それで成功している作家も沢山いる。ナルシシズムは自己愛と訳されるが、つきつめると他者に対する奉仕になるのではないだろうか。自分は正直嫌いだが、相田みつをとか西野ナントカ氏(名前は忘れた。プペルの人)などは単純なナルシシズムでもって多くのファンを獲得しているのではないだろうか。自分は恥ずかしくてあそこまで露骨にできない。揶揄するつもりは全くない。ある意味役者なのだろうと思う。

太宰治もナルシストだが、相田みつをとか西野ナントカ氏よりも少し捻くれている。太宰は「格好付けることは格好悪いから格好付けてない風を装っている格好付け」だ。同じように捻くれている人が沢山いるから、現代でも太宰は人気なわけだ。捻くれていて面倒くさいが、自分は何故か相田みつをよりも太宰の方に好感が持てる。

そして、漫☆画太郎である。漫☆画太郎の漫画には、ナルシシズムが全く見当たらない。ナルシシズムの欠片もない。「他人に格好良く思われたい」という思いが少しでもあれば、あの世界観は描けないだろう。「他人に格好良く思われたい」というのは作家個人の低俗な思いだ。その思いを全て放棄し、あそこまで低俗な作品を描く。読者の目なんか気にせず、自分の描きたいものを追求し、そして結果的に「漫☆画太郎って格好良いなぁ」と読者に思わしてしまう。とても贅沢な才能だ。

この『世にも奇妙な漫☆画太郎』はオムニバス形式なのだが、内容に殆ど触れていないので、自分の好きな話を一つ紹介する。

1巻に収録されている第5話「ブスジャック」という話が一番面白かった。バスの中で青年が女性を人質に取ってバスジャックをする。人質の女性は恐ろしく不細工だ。青年は女性にナイフを向けている。女性のポケットに入っていた携帯電話が鳴る。青年が出ると女性の彼氏からだった。青年は電話口の彼氏に向って「今からお前の彼女をぶっ殺す」と叫ぶ。すると彼氏は「他に好きな人ができたから、煮るなり焼くなり好きにしろ」と返す。彼氏の言葉を聞いてブチ切れた女性は携帯を床に叩きつけ破壊する。そして、青年のナイフを奪い取り、「失恋したから自殺する」と叫ぶ。まさかの展開に焦った青年は、「早まってはいけない。生きていれば、きっと新しい彼氏もできる」と説得するが、女性は「私みたいなブスに二度と彼氏は出来ない」と泣き叫ぶ。そんな女性に対して、青年は「だったら僕と付き合って」と告白する。青年は「実は僕も今日、彼女にフラれた。それでヤケになってバスジャックをした」と説明する。女性は青年の告白にOKする。カップルが成立する。車内で拍手が起こる。青年はバスの運転手に「ムラムラしてきたから最寄りのラブホテルの前で降ろして」と頼む。運転手は、かつて自分の女房と利用したラブホテルを紹介する。そのホテルで愛し合ったカップルは一生別れないというジンクスがあるらしい。そのおかげで、運転手と女房も30年間別れず連れ添ったらしい。運転手がそのホテルの前までバスを走らせると、ホテルの入り口で運転手の女房が、別の男といちゃついていた。ショックを受けた運転手は、そのまま妻と男をひき殺し、ホテルにバスが衝突し、バスが爆発して乗客も女性も青年も運転手も女房も男も全員死ぬ。と、いうお話。

あらすじを真面目に説明するだけで自己嫌悪になりそうだ。恐ろしいのは、ここに登場する犯人の青年と、運転手、乗客の顔、そしてバスの外観は全て同じ絵の使いまわし。あきらかに読者を舐めているけど、こんな手抜きが許されるのは、漫☆画太郎くらいだ。一方、ブサイクな女性の顔は、めちゃくちゃ描き込んでいるし、ものすごく好き嫌いが分かれるだろうが、この画力も素晴らしい。

以上