日々の読書日記

読書の忘備録です

54回目「プールサイド小景・静物」(庄野潤三:新潮文庫)

今年は庄野潤三の生誕百年であり、よく行く書店では特集が組まれていた。書店の片隅に「庄野潤三生誕100年」と書かれたPOPが飾られてあり、そこに庄野潤三の幾つかの本が平積みされていた。別に大層なものではないが、興味を引いた。それで一番目立った置き方をされていたこの文庫を購入してさっそく読んだわけである。

表題作含め、7つの短編が収録されている。以下に個別の感想を記す。

①舞踏

不倫の話。夫の方が不倫する。不倫相手は、自分より一回りも年下の少女。夫の身勝手さが腹立たしい。同時に妻の健気さがやるせない。内容は、昨今の芸能人の不倫スキャンダルと殆ど変わらない。恐ろしく通俗的だ。妻が行きたがっていたコンサートに不倫相手と行くことになり、多少の後ろめたさを感じながらも、自分自身に言い訳しながら納得する様子など、夫の描写が「バカな男」そのものである。とてもベタな描き方だ。「文学は人間を描く事」とすれば、この短編は文学ではない・・・、というわけでも実はない。ここに描かれる人物は夫婦ともに古いタイプの人間で、それは作者自身が古いタイプの人間だから、描く人間が古くなるのだ、と結論付けようとしたが、案外、そんな読み方をする自分が古いのかもしれない。「文学は人間を描く事」という考えがそもそも固定観念であり、頭でっかちなのかもしれない。もっと気楽に読めば、ろくでなしの夫にムカつき、健気な妻に同情し、総じて楽しく賑やかな読書体験ができる。

プールサイド小景

表題作であり、作者はこの短編で芥川賞と獲った。これも『舞踏』と同じく夫婦が描かれる。会社の金を着服しバーに通っていた夫。会社にばれて夫はクビになった。仕事が無くなったため、リフレッシュも兼ねて子供たちが通う学校のプールで泳いでいる。プールサイドからは、夫がかつて通勤していた電車が走る光景が眺められる。タイトルはここから来ている。ラストの描写は哀愁が漂っていて少し寂しい。情けなくだらしない夫と、そんな夫を支える健気な妻は、『舞踏』の夫婦と似ているが『プールサイド小景』は、もう少し夫婦の感情の機微が繊細に描かれている。バーの話を聞こうとする妻に対して、全てをさらけ出し告白するフリをしながら、絶対に話の確信に触れない夫の卑小さと、その卑小さの奥に女の影を察知し戸惑う妻。夫婦両方の心理がとてもキメ細かく書かれており面白かった。

③相客

人物の関係が少しゴチャゴチャしており、若干分かりづらかった。「私」「兄」「長兄」「弟」「父」が出てくる。その中の「兄」にまつわる話なのだが、「兄」と「長兄」が紛らわしかった。これは、自分の読解力の問題だ。冒頭のエピソードは「私」が「弟」から聞いた話であり、本編とは関係ないのだが、その後、その話から「私」が思い出したエピソードが語られ、二つの伝聞が終った後に「兄」の話になる。つまり、分かりにくかった。内容は割愛するが、汽車の中での刑事と客のやりとりで刑事が言った言葉に対して「私」が感じた戦慄が印象に残っている。なんのこっちゃ。

④五人の男

タイトルの通り、5人の男の話である。この5人の男が実在の人物なのかフィクションなのかは分からない。一応、作者が関わり合いを持った男たちという体で書かれている。それぞれの話が独立しており、5人の男がどこかで関連しているという訳でもない。本当に、5人の男のそれぞれの人物紹介で終っている。3人目の男が一番面白かった。お喋り好きの男で、家にやって来ては色々な武勇伝を語るのだが斜視のため周りで男の話を聞いている人は、自分に向けられて話しているのか分からず相槌を打つのが難しい、みたいな部分が少し毒もあり面白かったのだ。

⑤イタリア風

日本人の夫婦が、アメリカ旅行中に、かつて電車の中で知り合い友達になったイタリア人夫婦に久しぶりに会いに行くという話。日本と外国の家族観や価値観などが語られているが、人と人が久しぶりに邂逅する際のイザコザや誤解、変な気を遣ってしまう感じが共感できる。自分は別に対人恐怖症ではないのだが、外国人・日本人・異性・同性、関係なく「久しぶりに会う」という事に対してとても緊張する。いくら気心の知れた仲の良い人でも、何か緊張してしまうのだ。こんな自分だからか、電話口の相手の口調を過剰に気にしてしまう主人公に共感を覚えたのであった。

⑥蟹

一風変わった漁師町の宿屋。何が変わっているのかというと、部屋に「セザンヌ」とか「ルノワール」といった画家の名前が付いている。そこに泊まる数組の家族の話。歌とかクイズとか生き物を通じて、別々の家族に薄く微かな交流が生まれる。大人たちの交流は常識があり遠慮があり距離がある。でも子供たちの交流は、遠慮も距離もない。とても純粋で無垢な交流だ。とても平和で控え目な短編で、収録作品の中では一番好きだった。

静物

作者と自分は祖父と孫くらいの年齢差がある。でも、この作品で描かれる家族の一コマは、まるで自分の子供時代の断片が書かれているかのように錯覚した。ある家族の、本当に何でもない風景が切り取られて繋がっているだけの短編なのだが、この懐かしさはなんだろう。優しさと懐かしさと寂しさとノスタルジーを同時に味わいながら、後味のさっぱりした読後感があった。

以上

 

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

 

 

53回目「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」(ヨルゴス・ランティモス監督)

この映画はヤバいと聞いていた。「ヤバい」とは色々な意味を含む。単純に面白いという意味もあるし、その逆もある。多くの人のレビューを読んでいると、どうもこの映画は観た人を不快にさせるという意味でヤバイらしい。

ミヒャエル・ハネケとかラース・フォン・トリアーのようなテイストの映画なのかな、という先入観を持って観た。ある意味、ハードルが上がった状態で観たからだろうか。それ程、不快な気分にはならなかったし、それ程「ヤバい」とも思わなかった。丁寧で繊細に作られた佳作といった印象を持った。

外科医の男が主人公。外科医には、妻と二人の子供(長女と長男)がいる。家族4人で郊外の豪邸に住んでいる。外科医には、家族とは別に頻繁に会っている少年がいる。この少年は、外科医が過去に手術を失敗して殺してしまった男の息子。罪悪感からなのか、外科医は少年と食事をしたり、時計をプレゼントしたりする。

ある日、外科医はこの少年を家に招く。少年は外科医の娘・息子とも仲良くなり打ち解ける。しかし、少年が家にやってきた日から、外科医の家族に次々と不可解な現象が起き始める。息子が突然歩けなくなったり、娘が突然歩けなくなったり・・・。少年は外科医に「先生意外の家族は、やがて全員歩けなくなり、目から血を流し、最終的に死ぬ」などと言う。少年に怒りと不気味な何かを感じた外科医は少年を監禁し・・・。簡単に言えば、以上のような粗筋だ。

映画全体が静かで不気味な雰囲気に覆われている。何気ない会話の中にも不気味さが宿っている。とりわけ、少年の不気味さは際立っていた。静かで落ち着いているのだが、無理矢理にでも家族の関係に入り込もうとする図々しさと太々しさは、観る者の神経を逆撫でしてくる。友好的に見えて敵意と悪意を存分に含んだ態度とセリフは、中々に挑発的だ。この辺りは確かに不快だ。不快だが、目が離せない。不快に感じながらも、最初から最後まで緊張感が途切れることなく観られたのは、監督の丁寧な演出に依るものであり、すごい手腕だと思う。

この『聖なる鹿殺し』には二種類の恐怖がある。この二種類の恐怖が、上手く混ざり合っていないのではないかとも思った。

例えば、日本のホラーである『リング』は「呪いのビデオ」を見た人が2週間後に死ぬという話である。「呪い」という霊的・オカルト的な恐怖で映画が成り立っている。「呪い」という科学では説明できないものによって命を奪われる理不尽さが怖い。ビデオを見てしまったが最後という逃れられない恐怖。これが霊的・オカルト的な恐怖である。『シックスセンス』とか『アザーズ』なんて映画も、この手の恐怖を与えてくれる良質なホラー映画だと思う。

一方、人間の心の闇に焦点を充てた恐怖もある。サイコサスペンス的な恐怖である。ミヒャエル・ハネケの『ファニー・ゲーム』という胸糞映画があるが、この映画のキャッチコピーは「人間が一番怖い」である。ゲーム感覚で人を殺す映画で、なぜそんな残酷なことをするのかという動機はない。敢えて言えば「楽しいから」だ。そして、殺人の当事者たちは「心の闇」なんて言葉すら、せせら笑って小馬鹿にするような、そんな不快な怖さがあった。

『聖なる鹿殺し』は、手術の失敗で父親を殺された少年が、恨みと悪意によって外科医の家族を追い詰め、外科医に自分の子供を殺すように仕向けていく話で、少年の薄気味悪さや、「家族の絆」などという言葉の幻想なども含めて、後者の恐怖(サイコサスペンス的な恐怖)に彩られている。しかし、その手段は唐突に歩けなくなる、最後は血の涙を流して死ぬ、といった原因不明の霊的・オカルト的な怖さである。

この緊張感を維持しつつ、どちらか一種類の恐怖のみで描いて欲しかったのが、不満だった。

監督のヨルゴス・ランティモスギリシャの鬼才と言われているらしい。最近では『女王陛下のお気に入り』を撮った人だ。それ以外では『ロブスター』と『籠の中の乙女』を撮っている。今回の『聖なる鹿殺し』も含めどの映画も少し変な映画だった。不可解な世界観が好きな人はランティモスの映画にはまるだろう。

不快という意味では個人的に『籠の中の乙女』が一番不快で、嫌な映画だった。あまりオススメはできない。オススメできないが、『籠の中の乙女』という映画の後半、二人の娘がダンスをするシーンがあり、そのシーンは少しお笑い寄りで、ガキの使いのハイテンションショーを見ているような感じになった。あそこだけ、少し笑ってしまった。要するに、変な映画なのであった。

 

 

52回目「ダブリナーズ」(ジェイムズ・ジョイス 柳瀬尚紀訳:新潮文庫)

先日、祖母が亡くなった。通夜の前日、自分は祖母と一緒の部屋で寝た。葬儀会館に祖母を一人で残せないため、自分が祖母と一緒に留守番をしたのだ。祖母が眠っている横に布団を敷き、一夜を明かした。文字通り、死者に寄り添ったのだ。

祖母との思い出に浸り、懐かしんだ。同時に、自分のすぐ横に死者がいることに対して少し恐怖も感じた。自分は普段寝付きの悪い方だが、その晩は意外に安眠できた。祖母とは全然関係ない夢を見た。どんな夢だったか、断片しか覚えていないが、その夢の中に祖母は出てこなかった。朝、葬儀会社の人がやってきて「よく眠れましたか?」と聞いた。「はい」と答えたあと、少し変な気分になった。

ジョイスの『ダブリナーズ』の一編に、自分も迷い込んだ気がしたのだ。

書評でも何でもないが、書いておきたくなったので。

 

ダブリナーズ (新潮文庫)

ダブリナーズ (新潮文庫)

 

 

51回目「アメリ」(ジャン=ピエール・ジュネ監督)

アメリ』は、当たり前だが「アメリ」という名前の女性が主役の映画だ。

アメリ』は公開当時、一大ブームになったらしい。詳しくは知らないのだが、アメリのファッションを真似したり、生活スタイルを真似したり、劇中でアメリが食べるクレームブリュレが流行ったり、いわゆる「アメリ現象」なるものが日本でも20代から30代の女性を中心に巻き起こったらしい。

公開当時、自分は高校生だった。この「アメリ現象」が、自分の周りでも起こっていたのかは、覚えていない。リアルタイムでも観たが、「お洒落な映画だな」と高校生ながら思っただけで、内容は殆ど忘却していた。今回、約20年ぶりに再見したわけだが、この映画が当時ブームになったというのは何となく分かる気がした。それも、老若男女問わず広く浅く流行るのではなく、ある一定の層に深く支持される類の映画だろうと思った。その一定の層に受けるポイントを上手く押さえている映画だと思ったのだ。最初から戦略的にその層に受けるように撮ったのか、偶然受けたのかは不明だが、結果的にブームになったのだから強かですごい映画なのだと思う。

「一定の層」とはどういう層か。「インテリ」とか「ブルジョア」といったものに憧れを抱いている人達、もっと平たく言えば「アート風」とか「映画通」を気取りたい人達だ。『アメリ』はそのような人達に受ける映画だと思う。こういう事を言えば嫌味に聞こえるかもしれないが、別にこのような層に属する人達を否定しているわけではない。自分自身も映画通を気取りたい人間だし、インテリと思われたい人間だし、マニアックな映画の知識を披露して他人に一目置かれたいと考えている、せせこましい人間だ。要するに、自虐と自戒の念を込めて書いている。なので、怒らないで頂きたい。

そんなフォローはさておき。

アメリ』は、まず映像がとてもお洒落だ。センスがある。話のテンポもいい。ポップだ。難解で近寄りがたいフランス映画のイメージを払拭してくれる。といって、分かりやすい平板なストーリーとか、勧善懲悪の話だと映画通にはあまり響かない。そういう分かりやすい映画を無意識に見下しがちなのが、映画通の厄介なところだが、『アメリ』は適度に毒がある。下ネタもあるが、卑猥になり過ぎず、かといってソフトにもなり過ぎず、お洒落な感じに処理している。この塩梅が絶妙で映画通の喜ぶポイントを押さえている。ブラックユーモアのブラック加減も、これくらいがちょうどいい。あまりに重いと敬遠されるし、軽すぎるとやはり神妙な顔で映画を語りたがる映画通には物足りない。ただ、その割には冒頭で母親が即死するシーンや、いじめのシーンなどは悪趣味で、若干、『アメリ』の世界観から逸脱していると思うが、全体的にお洒落に仕上がっていれば、映画通は気にならない。全体の雰囲気が良ければ、小さいことは考えず目をつぶるのが、この映画を支持する層の特徴だからだ。要するに『アメリ』を支持する層は、考えることが苦手なのかもしれない。他人にインテリだと思われたいくせに考えるのは嫌いなのだ。だから、いつまでもインテリ風なだけで本当のインテリにはなれないのだ。自分がそうだから、よく分かる。

ここまで『アメリ』をどうにか褒めようとしたが、途中で批判じみてきた。やはり、自分は『アメリ』のような映画は好きになれない。どうしても「見た目だけ」と思ってしまう。「見た目」が良い事は間違いなく素晴らしい長所ではあるが、『アメリ』には中身がないように思うのだ。中身に惹かれるものが、『アメリ』には殆どなかった。例えば、『アメリ』はナレーションが多すぎる。このナレーションが本当にうざかった。アメリの内面や行動も、殆どナレーションで説明している。本来、演技やセリフで丁寧に見せないといけない部分まで、ナレーションですましている。それも、いかにも気の利いた事を言っている風のナレーションで、鼻に付く。こういったところが、手抜きのようにしか思えなかった。そして「映画通は見た目を多少、お洒落にしておけば細かいところは気にならないだろう」と侮られているようで、居心地が悪かったのである。

映画を観る時の自分自身の姿勢について考えさせられた映画であった、という点では見て良かったと思う。

蛇足だが、同じ監督が撮った『デリカテッセン』という映画は結構好きです。

以上。

 

アメリ(字幕版)

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  • 発売日: 2018/12/14
  • メディア: Prime Video
 

 

50回目「カンガルー・ノート」(安部公房:新潮文庫)

『カンガルー・ノート』を最初に読んだのは中学生の頃だ。途中から意味が分からなくなり、読了するのが苦痛だった記憶がある。その後、安部公房の小説は『砂の女』『他人の顔』『飢餓同盟』『箱男』『燃えつきた地図』などを読んだ。これらは、『カンガルー・ノート』と違い、途中で意味を見失う事はなかった。中でも『砂の女』は、とてもスリリングな小説で、これまでに数回、繰り返して読んだ。『飢餓同盟』『他人の顔』は、一度しか読んでおらず、もう殆ど覚えていないが、『砂の女』同様、とても興奮し一気に読んだことを覚えている。『箱男』『燃えつきた地図』も難解ではあったが、楽しめた。

つまり、『カンガルー・ノート』は、自分が読んだ安部公房の小説で唯一、肌が合わないと感じた作品だった。ゆえに、中学生の頃に読んで以来、再読することはなかった。

そんな『カンガルー・ノート』を、この度、再度読み返したのは、特に理由があってのことではない。なんとなく読んでみようと思ったに過ぎない。約20年ぶりに読んだわけだが、相変わらず「意味が分からない」と思った。しかし、中学生の頃と違い苦痛は感じなかった。恐らく、中学生の頃は「意味が分からない」ものを許容するだけの度量が、自分の中に無かったのだ。それは、経験と語彙力に基づくものだろう。意味を問い、意味を考えることも重要であるが、意味を考えることを放棄してこそ楽しめる作品も数多ある。概ね、シュルレアリスムとは、言葉から意味を削ぎ落した先にある原風景を表現する芸術だと、薄学ながら考えている。意味を削ぎ落した結果、限りなく純粋で虚無的な世界が産まれる。経験も語彙も乏しい中学生に、この虚無の面白味を理解することは、そもそも無理な注文なのだ。

ただし、一般的に安部公房の小説はシュルレアリスム的とされるが、虚無的な感じはない。『カンガルー・ノート』は作品全体に情緒・情感が漂う。もっといえば、主人公の男の悲哀をも感じ取れる。寧ろ、中学生の自分が『カンガルー・ノート』の意味を理解できなかったのは、作品の奥にあるこの悲哀を嗅ぎ取ることができなかったからではないだろうか。

『カンガルー・ノート』は、夢の話だ。それも一人の男が死ぬ直前、刹那のうちに見た夢だと自分は解釈している。さらに自分の解釈を述べると、男は神経症を患っているように思えた。それが故に社会から孤立してしまった男。強迫観念に苛まれた挙句に、自殺してしまった男。その自殺の直前に見た夢の話。目の無い死んだ母親、知恵遅れの少女、採血をする看護婦などが出てくるが、それらはいずれも男の性的願望、性的コンプレックスの投影のように思う。後ろめたい願望を、夢という形で死ぬ直前に成就した男の記録を描いた小説なのだと、自分は結論付けた。だから、後味の決して良い小説では無いし、一見バッド・エンドのように見えるが、実は、最後に自身の願望を成就できたと思うと、あながちハッピー・エンドなのかもしれない。

真偽のほどは知る由も無いが、人は死ぬ直前、これまでの人生が走馬灯のように脳裏に浮かぶらしい。夢の話は、とりとめがない。夢なのだから、現実では起こり得ない荒唐無稽なことも起こる。だから、意味が分からなくて当然と言えば、当然なのだ。しかし『カンガルー・ノート』は、ただ単に荒唐無稽なイメージを羅列しているわけではない。話が空中分解せず、読者をぎりぎり小説の世界に留まれるように工夫されている。この工夫に舌を巻く。例えば、「カイワレ大根」がそうである。『カンガルー・ノート』には、カイワレ大根が出てくる。脛にカイワレ大根が生えてしまった男が病院に行く、というのが話の発端である。その病院のベッドで横になった辺りから夢の中に移行するのだが、その後も話の要所要所でカイワレ大根が出てくる。「脛にカイワレ大根が生える」という設定など無くても『カンガルー・ノート』という小説は成立するし、寧ろ、必要のない設定なのではとも思うが、さにあらず。このカイワレ大根が出てくるタイミングが絶妙なのだ。一歩間違えれば滅茶苦茶になって雲散霧消しかねない夢の話を、カイワレ大根の描写を要所に挟むことによって読者を繋ぎとめている。いわば接着剤としての役割を担っている。

『カンガルー・ノート』は7章からなる。章ごとに場面が変わる。これら一つひとつの章が、まったく脈絡なく続いているのかといえば、そういうわけではない。場面転換が唐突で、病院のベッドから夢に移行した瞬間も、その境目が分かりずらいし、レールに乗って移動するベッドに始まり、烏賊爆弾など、作中に出てくる小道具は突拍子もないし、ここら辺が夢の話であることから生じる「分かりにくさ」なのだが、注意深く読むと、物語としての体裁はきちんと整っている。「意味が分からない」と書いたが、案外、意味は分かるのだ。

もう少し感じた事を書くと、ピンク・フロイドの『エコーズ』や『鬱』が出てくるのだが、この小説の世界観は、キング・クリムゾンの『21世紀の精神異常者』と『ムーン・チャイルド』の方が合っているのでは、と思った次第だ。

以上

 

カンガルー・ノート (新潮文庫)

カンガルー・ノート (新潮文庫)

 

 

49回目「ラストエンペラー」(ベルナルド・ベルトルッチ監督)

半藤一利の追悼という訳でもないが、『昭和史 1926-1945』(平凡社ライブラリー)を読んでいる。その最中に観たのが、ベルナルド・ベルトルッチの『ラストエンペラー』だ。映画の主役である愛新覚羅溥儀は、『昭和史』の最初の方に紹介される。『昭和史』は、あくまで日本の昭和がメインであるため、溥儀が満州のファースト・エンペラーになった経緯がさらっと説明されているが、映画の方は、幼少期に清国のエンペラーに即位した後、少年時代の紫禁城での生活、結婚、日本との接触満州国のエンペラー即位、終戦、捕虜、収容所、恩赦、自由、最後はかつての紫禁城跡に訪れノスタルジーに耽る、という一生を、回想を挟みながら順序立てて描いている。史実との相違が多少あるらしいが、自分は特に気にならなかった。

歴史が好きな人は、『昭和史』と『ラストエンペラー』を比べてその差異をあげつらうのも一興かもしれない。歴史を扱う映画には、必ず「史実と違う」という批評が付きまとう。もしくは「歴史認識が監督の主観だ」という類の批判もある。映画でも小説でも音楽でも、作品を産み出すという行為は、たとえそれが興行収入を第一に目論んだものであっても、或は、大衆迎合主義的なものであっても、もっぱら作者の主観による作業なので、「監督の主観だ」という批判は、的を射ていないようにも思う。技術が明らかに伴っていない作品は論外としても、差し出された主観に、上手く乗れれば面白いだろうし、乗れなければ、自分とは合わなかっただけだ。それでいいと思う。

一映画好きに過ぎない自分は、完成品として出された物語が面白ければ満足である。

ラストエンペラー』に話を戻すと、紫禁城のセットは、確かに目を見張るものがある。荘厳で重厚な雰囲気を、映像と音楽で壮大に再現している。また、溥儀という人物は大変興味深い。物心が付いた時から、一歩たりとも紫禁城の外に出ることを許されなかった。そんな不自由で閉ざされた世界の中でも、彼はエンペラーとして物質的には何不自由のない生活が保障されている。それは実体のない権威によるものである。5歳に満たない子供には、当然、実務能力も政治手腕もない。生物学的には、我々と同じホモ・サピエンスだ。凡人より突出したカリスマ的能力ではなく、根拠のない権威だけを最初から賦与されているのだ。そして、その根拠のない権威を盲目的に信じている、周りの取り巻きたちの滑稽さ。映画の前半は、そんな特異に過ぎる環境の中で育つ溥儀を描く。非常に興味深い子供時代で、こちらの好奇心を刺激してくれる。さらには、数年後、彼は満州で最初で最後の皇帝になる。日本の都合だけで作られた満州という国で、またもや実態のない権威のみを与えられるのだ。満州は傀儡国家と言われるが、溥儀の半生そのものが、自覚の無いまま時代に翻弄される操り人形的で興味深い。

史実との相違や、歴史の主観という瑕疵があっても、以上のような観客を引き付ける要素があるため、『ラストエンペラー』は観て損のない映画に思えた。

というように自分は、基本的には何をどのように描いても、結果的に面白ければよいと思っている。「面白ければ」というのは、別にストーリーだけに限らない。映像の美しさでも、俳優の演技でも、音楽のカッコよさでも、何かこちらを引き付けるものがあれば、映画を観て良かったと思える単純な人間である。昨年からNHKで放映されていた『麒麟がくる』でも、架空の人物が執拗に出ていて大河ドラマの世界に浸れないという意見が多かったらしいが、自分的には、本木雅弘斎藤道三染谷将太織田信長が見れただけで大満足であった。

そんな自分だから、『ラストエンペラー』も楽しめたのだが、一つだけ納得できない部分があった。

それは、言葉の問題である。『ラストエンペラー』では、登場人物がほぼ全員、中国語ではなく英語を喋る。溥儀は幼少の頃から英語をネイティブのように喋っているし、その他、紫禁城に従事している役人や乳母まで、全て中国語は一切話さず、英語オンリーなのだ。

映画はフィクションの為、史実の相違などは気にならないが、言葉をまるまる変えてしまうのは、何かに対する冒涜のように思えたのだ。その「何か」が何なのかは、説明すると長くなるので割愛する。

 

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48回目「ムカデ人間」トム・シックス監督

観る前は「どうせクソみたいな映画だろうなぁ」と高を括っていたが、見終わった後、「意外と面白かった」と思ってしまった。ただ、この手の映画の場合「意外と面白かった」というのは褒め言葉にはならない気がする。或いは、一番言って欲しくない言葉なのではないかとも思う。映画の作り手側からすれば、当初の予定通り、「糞映画だ!見なきゃよかった!」と言われる方が、名誉なことなのではないだろうか。

「おぞましいさ」「気持ち悪さ」「変態さ」或いは、「馬鹿馬鹿しさ」を徹底的に追及し、突き抜けた先にある狂気を感じる映画は、他にも沢山ある。そのような映画は、監督の狂気に素直にひれ伏すと同時に、人には決して勧めない。鑑賞した事実を他人に大っぴらに言うことが憚られる。「こんな映画が好き」と言うと、人格を疑われそうな気がするので、こっそりと一人で観るのが常である。一例を挙げると、パゾリーニの『ソドムの市』なんかが、それにあたる。このブログで言った時点で、元も子もないが、自分は別に『ソドムの市』が好きな訳ではない。ただ、狂気という尺度で比べると『ムカデ人間』は『ソドムの市』に遠く及ばない。

事実、『ムカデ人間』の場合、職場の同僚の女性が「彼氏と一緒に見たけど、めっちゃ気持ち悪かった」と言っていた。職場で話題に上るという事は、その程度の気持ち悪さであるという証明に他ならない。お茶の間とか、職場の休憩室とか、ランチの時間とかに、『ソドムの市』が話題になることはまずないだろう。あるとすれば、そこは、カルト映画について議論するような特殊な空間である。

故に、『ムカデ人間』は表面上は確かに気持ち悪いが、娯楽映画として友達と一緒に見ても充分に楽しめる映画、或いは、「怖いもの見たさ」という人間の欲求を、良い具合に満たしてくれるB級映画ではないだろうか。要するに、安全な映画なのだ。

「3人の人間の口と肛門を繋げてムカデ人間を作る」という内容は、確かに気持ち悪い。しかし、その発想じたいは、かなり凡庸なものに思う。「気持ち悪い映画を撮りたい」と思った時に、わりと早い段階で思い付くようなアイデアだ。狂っているように見えて健全な発想である。

そんなことよりも、シナリオが意外にしっかりとしており、そこを評価したい。起承転結がはっきりしており、スピード感がある。また、この映画に出演した役者にも敬意を表したい。特に、ムカデ人間の真ん中とお尻を演じた二人の女優。普通は、こんなの絶対にやりたがらない役だが、きちんと演じている。日本人の俳優も出ており、こちらはムカデ人間の頭になるのだが、演技は少々、大根に思えた。

後、この映画にはパート2とパート3がある。パート2は、映画『ムカデ人間』を観た男が「自分もムカデ人間のような事をやってみたい」と考えるところから始まるらしい。いっちょ前にシリーズを跨いだメタ要素を取り込んでいるのである。シナリオの手が込んでいるのである。そういうのも含めて、意外と面白かった。

以上。

 

ムカデ人間 (字幕版)

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  • 発売日: 2013/11/26
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