松本雄貴のブログ

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56回目「ガンモ」(ハーモニー・コリン監督)

正直、全然面白くなかった。「面白くなさ過ぎて逆に面白い」という訳でもなく、純粋に面白くなかった。最後まで観るのが苦痛だった。こんな映画も珍しいと思う。全体的に変な映画だなぁという印象は持ったが、変であることが映画の長所になっているわけでもない。

どのシーンも微妙に不快で微妙に悪趣味だった。ものすごく不快でものすごく悪趣味なら、それはそれで評価できるが、そこまでも行ききっていない。

オハイオ州の小さな町を舞台に、そこで生活する人間(多くはティーンエイジャー)のどこか荒んだ日常を、断片的につなぎ合わせた映画とでもいえばよいだろうか。一貫したストーリーがあるわけではない。町全体の荒廃した感じは、とても上手く表現されていたが、評価できるのはそこだけという印象だ。

その荒んだ町の印象は、ドラッグ、暴力、いじめ、性的マイノリティーティーンエイジャーの性、フリークス、児童虐待、動物虐待、といったセンセーショナルなワードに全て依っている気がした。この映画は90年代に撮られた映画なので、当時はこういったセンセーショナルなテーマを映画に取り入れるのが新しかったのかもしれないが、今見ると手垢にまみれた感は否めないし、短絡的に過ぎると思う。

センセーショナルなものをテーマに設定するのは別に良いが、一つか二つに絞るべきだろう。多すぎると表層をなぞっただけの薄口な映画になってしまう。『ガンモ』はその失敗例だ。薄口であるということは、テーマに対する愛が無いということだ。

例えば、バロウズ中島らもの小説はドラッグを扱ったものが多いが、これらの作品からは作者のドラッグというものに対する愛情を感じる。愛情があるから、作品の中でドラッグを否定するにせよ肯定するにせよ、表層をなぞっただけではない深さがある。しかし『ガンモ』のドラッグ描写には愛情がない。「愛情」とは「興味」と置き換えてもよいし、「執着」と置き換えてもよい。創作する上での追い込みが足りない。

ガンモ』にはフリークスも出てくるが、やはり『ガンモ』にはフリークスに対する愛情がない。松尾スズキの『ファンキー』を観た後に『ガンモ』を見ると、やはり『ファンキー』には身障者に対する愛情を感じる。対して『ガンモ』は単に画面作りのためだけに身障者を使っていると感じざるを得ない。安易さだけが残る。愛情を持つことは、実際に映画に出演した身障者に対しての最低限の礼儀であろう。監督はせめてもの罪滅ぼしに、障碍者施設でアルバイトでもボランティアでもすればよいと思う。冗談ではなく、いい経験になるだろう。経験が増すと、作品にも深みがでるだろう。当時のハーモニー・コリンはまだ若かっただろうから、自分が偉そうにアドバイスしておいてやる。

性的マイノリティーについても同様だ。愛情がない。アルモドバルの映画や『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の方が性的マイノリティーに対して愛情がある。『ガンモ』を観るくらいなら、こちらをオススメする。

あと、猫だ。詳細は省くが、この監督は猫に何か恨みでもあるのだろうか。さすがに本物の猫ではなく作り物だと思うが、猫好きの自分はちょっと許せない。映画の中の唯一の良心といってよい、あの猫好きの姉妹が居たたまれない。監督は『きょうの猫村さん』でも読んで動物愛護の精神を養うべきだ。

色々難癖は付けたが、この映画はけっこう色んな人に評価されている。自分は、全くこの映画の良さが分からなかったが、それは自分のセンスにも問題があるかもしれない、と一応のフォローを入れておく。

以上

 

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