松本雄貴のブログ

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60回目「毛皮のヴィーナス」(ロマン・ポランスキー監督)

果たして「SとM」という概念は「陰と陽」「馬鹿と天才」「強者と弱者」などのように明確に区分できる対義語なのだろうか。一般的には、Sは虐げる人、Mは虐げられる人というイメージが広く持たれている。その意味では、確かに両者は対極の概念である。両者の価値を対極として置いた場合、マゾヒズムの成立にはサディズムの存在が必要だと、簡単に言えてしまう。虐げる人がいなければ、虐げられる快感を得ることはできない。 

しかし、もう少し深いところまで両方の意味を掘り下げていくと、「SとM」というのは、そんなに分かりやすく明確に分けられたものではなく、もっと入り組んで複雑で重層的なものではないだろうか。

例えば、女性が犯されているポルノを見て興奮する男性がいたとする。この男性はサディストだろうか。それともマゾヒストだろうか。恐らく、多くの人はこの男性をサディストと見なすだろう。虐げられている女性を見て興奮するのだから、サディストに違いないと評価を下すのは自然である。しかし、この結論付けは見落としているポイントが二つある。

一つ目は、この男性はポルノを見ながら「犯される女性」の方に自己を投影しているかもしれないという点である。ポルノを見ている間、性別を越えて女性の方に感情移入をしている場合だってあり得る。この視点で考えると、男性はマゾヒストということになる。「犯す男」ではなく「犯される女」に自分を置き換えて興奮しているからだ。

二つ目は、この男性は実は、ポルノを見ながら精神的に強い嫌悪感・不快感を覚えているかもしれないという点である。この場合、男性の視点は「犯す男」でも「犯される女」でもない。どちらかに自己を投影するわけではなく、ただフラットな状態でポルノを見る。そして「男が女を犯している」というおぞましい光景に、彼が持っている通常の倫理観から強い不快を感じるのだが、同時に「不快を感じている自己の状態」に快感を覚えているのだ。かなり込み入った性癖だが、この場合も男性はサディストではなくマゾヒストと言えるだろう。マゾヒストは虐げられることに快感を覚えるのであるから、不快なポルノを見ることによって、自分自身を虐げているのである。

このような例からも分かるように、SMというものは一筋縄ではいかない。ある人を例に挙げて「彼はSだろうか、Mだろうか」という議論も不毛だ。

ロマン・ポランスキーの『毛皮のヴィーナス』は、この一筋縄ではいかないSMの不可解さを、舞台の演出家とオーディションに来た女優という二人の男女を使って上手く表現している。最初から最後まで、二人の男女のSとMの変遷を描いている。ここでのSMは、単に性癖としてのSMではなく、両者のパワーバランス、イニシアティブという意味合いもある。冒頭は当然、演出家である男の方にパワーが傾倒しているが、それも束の間、女の言葉や態度が男を翻弄し気付いたら男は女の術中にはまっている。オーディションに来た女は、演出家の男に自分の演技を見てもらうため、ステージの上で台本を読むが、一人ではできないため男に相手役の台詞を読むように頼む。本来は、オーディションの段取りも指示も全て演出家である男に決定権があるのに、女優の方にイニシアティブを握られてしまう。ここから目まぐるしくSとMの攻防が続くのだが、台本の読み合わせという設定が、さらに虚実の境目を曖昧にし、二人が話している言葉は、オーディションの台本の台詞なのか、『毛皮のヴィーナス』という映画の台詞なのか、軽く混乱する。その混乱はSMが内包している複雑性に通じるものがある。分かりにくいが故に面白かった。

ロマン・ポランスキーは、『おとなのけんか』という映画を撮った。この映画は、子供同士の喧嘩における加害者の両親と被害者の両親の話で、登場人物はそれぞれの両親の四人だ。場所も被害者の親の居間である。ほぼ、登場人物の会話だけで成り立っている。この『おとなのけんか』を見た時、「面白いけど映画にする意味はあまりない」とも思った。シーンの転換がないので、舞台向きの話だと思ったのだ。『毛皮のヴィーナス』も最初観た時、同様の感想を抱いた。『おとなのけんか』と同じく、場所は固定されているし、二人の人間の会話劇で成立すると思ったのだが、やはり『毛皮のヴィーナス』は舞台ではなく映画の方が良いと思い直した。

『毛皮のヴィーナス』を舞台にしてしまうと、二人の台詞の読み合わせのシーンや、マゾッホの小説のダブル・ミーニングなどから、容易に「劇中劇」とか「メタ演劇」なんて言葉で批評されてしまう。そんな容易さを拒んだ所、つまり複雑で批評しにくい部分にこそ、この映画の価値があり、その価値はSMの不可解さと結びついているのではないだろうか。

 

ちょっと余談だが、この映画を観ている時、ちょっといいビジネスを思いついた。「放置プレイバー」というのはどうだろうか。放置されたい人をターゲットにしたバーで、従業員のホストorホステスは客にまず注文を聞く。聞いたらそのままずっと放置する。客と対面するのが嫌なら、客が帰るまで厨房裏の事務所に待機してもよい。事務所の中には、雑誌やテレビ、ゲームもあるので、思う存分、客の存在を忘れられる。しびれを切らした客が「帰る」と言い出したら、ドリンク代と放置代を貰って帰ってもらう。放置代は30分で1万円。閉店時間まで放置できる。オーダーされたドリンクも出す必要はない。出した時点で放置ではなくなるから、出してはいけない。ただ、ドリンク代として代金はきちんと頂く。客は放置されたいマゾヒストしか来ないので、クレームになることもない。むしろ、どれだけ酷い接客をするかが重要であり、ここで働くホストorホステスは、普通の職場なら怒られるだろうサボる技術、アンチ・ホスピタリティーの技術が要求されるのである。

このアイデア、良いなと思った人がいたら無料で差し上げます。