日々の読書日記

読書の忘備録です

119回目「知と愛」(ヘルマン・ヘッセ:新潮文庫)

中学生の頃に『車輪の下』『デミアン』を呼んで以来のヘルマン・ヘッセである。

『知と愛』である。「ナルチスとゴルトムント」という副題が付いている。ナルチスもゴルトムントも人物名だ。「知」を重んじるナルチスと「愛」を重んじるゴルトムント。時に哲学的な議論を交えながら、それぞれの対比を描く。といっても、小説の約7割は「愛」つまりゴルトムントの物語が占めている。

ヘッセという作家は道徳とか人類愛のようなものを説く、いわば真面目な文学を書く人だと思っていた。(なにぶん『車輪の下』のイメージが強いもので…)タイトルからして、『知と愛』だし、なんだか小難しい教養小説なのかなぁと。

しかし、裏切られた。この小説は全然真面目でもなんでもない。とんでもない小説だった。簡単にいえばヤリチンの屑男のお話である。

「愛」担当のゴルトムントだが、こいつが兎に角やりまくる話である。『知と愛』ではなく『知と性』にした方がいいんじゃないの?

こういうプレイボーイが主人公の話は嫌いではないし、描写に説得力とリアリティがあれば、読んでいて楽しい。素直に女にモテまくる主人公が羨ましいと思うし、感情移入もできる。或いはヒモとかスケコマシのようなダメ人間の場合でも、純粋にダメさ加減を楽しめる。

だが、この『知と愛』のプレイボーイ、ゴルトムントにはあまり、というか全然共感できなかった。

男がここまでモテる理由が、いまいち良くわからないのだ。

以下、半分愚痴のような感想を記す。

とにかく、ゴルトムントが不自然なほどにモテまくり、ゴルトムント自身も旺盛な性欲を持っているため、必ず女との性交が成功する。目が合っただけで、女がその気になるとか、かなり都合が良い。とりわけ、居候先の年端もいかない姉妹と致すシーンは、さすがに引いた。本人は「これも芸術のために必要な愛なのだ」という妄言じみた自己弁護を真面目に説くけれども、やってる事はロリコン、3P、姉妹丼だし、フィクションだから何してくれてもいいのだけれど、ちょっと調子に乗りすぎじゃないっすかね、と思ったのだ。で、その姉妹との情事が主である父親にばれて追い出されるとこなんて、馬鹿じゃないの? で、これで懲りたかと思いきや、ペスト禍でロック・ダウンしている町で、これまた女を連れだしてやりまくる。それまで一緒に行動を共にしていた男は、お預け喰らってたまったもんじゃない。ここは、男も混ぜて男2女1で3Pでもしてくれれば、まだ株は上がったのに、女の体は自分だけ独り占めかい。・・・なんて下世話な事を考えてしまう。で、この町で出会った女がペストに罹患して死んでしまうと、あながち悲しんだりもせず、ものすごくドライである。さらに、こんどは王様の奥さんに手を出し(奥さんも奥さんだ。貞操観念のかけらもない)、何度か夜這いに成功したことに味を占めた挙句、バチが当たって王様にバレて処刑されそうになるところを、間一髪ナルチスに助けてもらう。十数年ぶりにナルチスと再会し、古巣の修道院に戻り、命を助けてもらったナルチスに感謝したのだから、これで心を入れ替えて真面目になるのかと思いきや、どうも煮え切らず、良い芸術を作る為という尤もらしい言い訳をぬかして、また、何日か放浪しながらセックス三昧。飽きたら、帰ってきて、テキトーに彫刻削っての繰り返し。これを許すナルチスもナルチスである。さらにムカつくのは、女なら誰でも良い、というわけではなく、意外と女の容姿にうるさいのである。愛の欠片もないではないか。

要するに、全ての行動が自分本位で周りの迷惑を考えないのだ。

しかも「愛」と「芸術」をセックス依存症のエクスキューズにしてるところがまた。。。

後半、「知」を重んずるナルチスと「愛」に生きるゴルトムントの哲学的対話がなされるが、文学的にもって回った文章で書かれているのに薄っぺらさが拭えないのは、ゴルトムントというキャラクターの魅力の無さに起因しているのではないだろうか。

同じようにヤリチンが出てくる作品にミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』がある。こちらの主人公の方が大分重厚で魅力的で、自分の好みである。