あらすじ
1861年の農奴解放令によっていっさいの旧価値が崩壊し、動揺と混乱を深める過渡期ロシア。青年たちは、無政府主義や無神論に走り秘密結社を組織してロシア社会の転覆を企てる。――聖書に、悪霊に憑かれた豚の群れが湖に飛び込んで溺死するという記述があるが、本書は、無神論的革命思想を悪霊に見たて、それに憑かれた人々とその破滅を、実在の事件をもとに描いた歴史的大長編である。
感想
率直な感想は、面白かった&難しかった。ただ、当初期待していた面白さ&難しさではなく、なんとも言えない面白さ&難しさだった。
高校3年生の時、数学の授業で「行列」なるものを教わった時の記憶が蘇った。
行列。計算方法は分かるけど、「なんのためにこんな計算をするのか?」その理由が分からなかった。それとよく似た感じである。
自分が『悪霊』に当初期待していた面白さは「難しさ」に起因するもので、あらすじに紹介されている「無政府主義」とか「無神論的ニヒリズム」といった思想・哲学について深く考えさせられる面白さであった。どういうメカニズムで無政府主義なるものが誕生し、人々が洗脳され、国が荒廃していくのか、その経緯が詳らかに語られる、謂わば、「重たいけど、それ故に読み込んでしまう」面白さがあると思っていたのだが、実際の『悪霊』は意外と重くなかった。なんだろう。登場人物の行動がとても漫画的で、ゆえに漫画を読んでいるような面白さだったのである。スタヴローギンが市長の鼻を掴んで引きずった、なんてことがさも深刻に語られるが、読みようによってはギャグともとれるし、とても漫画的だ。自分はこのシーン、「マイク・タイソンやんけ」と突っ込んでしまった。
それとか、ステパン氏という人物の、一つ一つの言動が妙に腹が立つ。「お前、いくつやねん」と、思わず言いたくなるような言動をチョコマカとかまして来やがる。
「私」なる物語の語り部たる人物も、正直邪魔だった。ドストエフスキー目線の3人称と「私」目線の1人称が混ざり合ってどうにも混乱した。
なんといっても、肝心の主人公スタヴローギンが全く出てこない。「出てこないのに存在感がある」というような『羊たちの沈黙』におけるレクター博士みたいな感じでもなく、純粋に存在感がなかった。だから、スタヴローギンの何がヤバいやつなのか、よく分からない。彼が小説中でした事といえば、最初の方にシャートフと喧嘩したのと、真ん中の方でガガーノフって奴(こいつもかなり唐突に出て来た印象)と決闘したのと、最後の最後に人物紹介風の告白をしたくらいであり、この登場シーンの少なさと物語の中での彼の評価が釣り合っていない気がしてならなかった。
最も、「自らの手を下すことなく、社会に不安をもたらす人間」とでも解釈すれば、腑に落ちる所かもしれないが、他の人物たちのキャラクターが強烈で(これが自分的には面白い所だった)、スタヴローギンという人物を通してドストエフスキーが何を表現したかったのか分からなかったし、その重責は、他の人物、例えば、自殺マニアのキリーロフとか、物語中で一番あれこれ動き回るピョートルとかでも十分担えると思った。
無理矢理、今現代の社会の風潮と結びつけるなら、度々出てくる「檄文」というものが、今は「SNS」とか「犬笛」なんかに置き換えられ、無責任な大衆を煽り、社会を混乱させ不穏にさせるツールになるのではないか、と思った次第だ。そういや、最近、実際に逮捕された人物がいるけれども、さすがに彼とスタヴローギン(あるいはピョートル)を置き換えるのは、あまりにこの人物が軽薄であるし、『悪霊』の人物に失礼な気がする。

