松本雄貴のブログ

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87回目「深い河」(遠藤周作:講談社文庫)

自分は遠藤周作という作家が好きだ。遠藤周作を含め、自分には好きな作家が何人かいる。自分の趣味嗜好を分析してみると、その好きな作家に共通する作風が見えてくる。ここで注釈を入れると、「作家」は好きだが、彼らの書く「作品」が全て好きという訳ではない。好きな作家が書く作品にも、ピンからキリまであり、自分とは合わないものも当然ある。個別の作品ではなく、作家自身の境遇、思想、バックボーンなどに魅力を感じる。或いは、共感や親近感を覚えたりする。そんな作家が書いた作品は、クオリティー的にイマイチでも、或いは、世間一般の評価が低くても、なんとなく許せる。「許せる」というのも烏滸がましい話だが、「この人が書いたのだから仕方がない」と妙に納得してしまうのである。例えば、中島らもの『バンド・オブ・ザ・ナイト』は、自分の中では、そんな作品だった。『バンド・オブ・ザ・ナイト』は、正直、面白くなかった。しかし自分は中島らもという作家が好きだから、納得してしまうのである。大袈裟な表現だが、駄作の中にさえ、その作家の「匂い」を感じて陶酔するのである。まぁ、これは蛇足である。

自分の好きな作家に共通する作風とは、何であるか。考えを突き詰めていくと、「自己批判的である」という結論に達する。反対に、自己肯定的な作風は苦手だ。世の中に対する異議申し立てや自身の政治信条を声高に叫ぶ作品には、「自分の意見は絶対に正しい」という傲慢さが垣間見える。そういう作品に接した時、自分は何とも言えない薄ら寒さを感じてしまう。それらの作品は、概して、意見を異にする他者を攻撃しがちだ。SNSでの誹謗中傷合戦と本質は変わらないように思う。作品が自己肯定的になってしまうのは、ある意味仕方のない事だとは思う。自己肯定とは、全ての人間にとって快感であるからだ。例えば、右寄りの思想を持っている人は、右寄りとされる意見が正論になる。逆もまた然りだ。自身の中で正論とされる事柄を書くと、同じ考えを持つ人たちに支持される。賛同を得られる。俗的な言い方をすると、承認欲求が満たされるのである。その手段は、実は安易で、右なら右、左なら左、各々の思想に於いて正論とされる事を書けばいいのである。それが簡単な事だとは思わない。悪い事だとも思わない。手段こそ安易ではあるが、多くの人の賛同を得る為には、やはり相応の技術や才能も必要だからだ。しかし、そうして書かれた作品を読むと、どうしても自己の言葉に酔いしれて気持ち良くなっている作者の姿が脳裏に浮かんでしまう。それが苦手なのだ。

そういう自分であるから、必然的に「自己肯定」とは逆の「自己批判」を感じる作風が好きなのだ。他人を馬鹿にして笑いを取る作品も良いが、自己の惨めな姿を描いて取る笑いの方が好きなのだ。自虐というものを徹底した作品には、笑いの先にある透き通った哀しみや、さらには狂気といったものを感じる。格好悪いことに徹しきれば、一周回って格好良く見える、といった論理である。今回、読了した遠藤周作の『深い河』は、そういった意味での笑いの要素はなく、ごく真面目な文学作品であるが、遠藤文学の多くに共通する自己批判的な視線は、同じく存在する。

遠藤周作は11歳でカトリックの洗礼を受けている。作家の期間より、クリスチャンとしての時間の方が長い。作家である以前に、クリスチャンである。その為、書かれた作品の多くはキリスト教を主題としている。キリスト教を含む宗教の問題は、遠藤周作の作家としてのメイン・テーマだと言ってよいと思う。敬虔なクリスチャンにとって、キリスト教を批判的に描く作品を書くのは、自己批判的といってよい。「批判的」とは言っても、遠藤周作は作品の中で「宗教は間違っている」というような単純な批判はしない。敬虔なクリスチャンでありながらも、宗教が持つ欺瞞性に違和感を覚え、苦悩する神学生などが描かれている。そこには、単純な善悪では割り切れない苦悩がある。幼い頃から宗教が身近にあり、神を信仰するという行為が当たり前であった人間にとって、その神を疑うという苦悩は、他人が想像する以上に辛い事である。神を批判する、しかし神は神を批判する人間をも愛する、そんな神の慈愛を批判する自分自身を批判する、自分自身を批判するのは神という存在があるからだと、また神を批判する、しかし神はそんな自分をも愛する、以下、無限に批判が繰り返される。その批判が帰着する先は、自己の破壊である。このように入り組んだ批判を、宗教に属さない作家ではなく、当事者であるクリスチャンが書いている。作家自身も苦悩していると想像するのである。

遠藤周作にとって『深い河』は、『沈黙』とはまた別の集大成的な小説であるように思う。インドを舞台にした小説であるが、紀行文学ではない。インドの地で繰り広げられる物語も面白いが、各々の登場人物たちが何故インドに行くのか、その動機の方が重点的に書かれている。全13章からなる長編だが、登場人物たちが実際にインドの地に降り立つのは、6章からである。それまでは、各登場人物たちのインドに行かなければならないそれぞれの事情が丹念に描かれる。また、インドの地に降り立ってからも、何故自分がインドに来たのか、動機が見つけられず、彷徨う人物もいる。

主要登場人物は5人いる。その5人には、それぞれインドを訪れる動機がある。最初に登場するのは、磯辺という初老の男。妻をガンで亡くした彼は、妻の生まれ変わりを探すべくインドを訪れる。これが磯辺のインドを訪れる動機である。ここだけ切り取ると、愛する妻の転生を探し求める夫、という背中が痒くなりそうなロマンティシズムを感じるが、当の磯辺はこれまで輪廻転生など信じた事のない無神論的な人間であり、インドに着いてからも自分の行動に疑問と戸惑いを感じている。そして最終的には転生した妻に出会えるわけではなく、磯辺の行動は、徒労に終わる。読者は、そこに深い虚無を感じる。クリスチャンが書いた小説なのに、「死んだ妻との再会」という奇跡は起こらないのである。輪廻転生はキリスト教ではなく仏教の思想なので、些かこじつけの感はあるが、宗教に属している遠藤周作が、奇跡を書かずに虚無を書いた事に自己批判的なものを感じるのである。

また、敬虔なクリスチャンが書くキリスト教批判は、2人目の登場人物である美津子という人物に顕著である。彼女と生真面目な神学生、大津の関係は、自分が常日頃感じていた宗教というものの矛盾が、余すことなく描かれる。その批判も、作者の地の文による批判ではなく、二人の男女の会話、関係性からあぶり出された自然で押しつけがましさのない批判であり、すんなりと、だけれどでも重くずっしりと読者の胸に響く。

最後に、この小説でもっとも自己批判的であると自分が感じた部分を引用する。

「復讐や憎しみは政治の世界だけでなく、宗教の世界でさえ同じだった。この世は集団ができると、対立が生じ、争いが作られ、相手を貶める為の謀略が生まれる。(中略)それぞれの底にはそれぞれのエゴイズムがあり、そのエゴイズムを糊塗するために、善意だの正しい方向だのと主張していることを実生活を通して承知していた」

こういった文章が、クリスチャンの作家から書かれた事に、敬意を表する。