松本雄貴のブログ

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77回目「プレーンソング」(保坂和志:中公文庫)

自分は「やれやれ」と呟く人間が苦手である。「やれやれ」という嘆息には、様々な欺瞞が含まれているように思う。相手を小馬鹿にしている感じが嫌だ。馬鹿な事をした相手、或いは、馬鹿な状況に対して「やれやれ」などと呟く人は、「自分はこんな馬鹿なことをしない」という自己肯定と、「君は僕と違ってこんな馬鹿なことをしたのだよ」という上から目線がある。馬鹿な事をした相手に対して「馬鹿」と直接言わずに、「やれやれ」と持って回った言い方をすると、相手を小馬鹿にして暗に批判しながらも、相手に反撃されるリスクがない。自己保身的である。さらに、「やれやれ」という言葉には、「馬鹿な相手」や「馬鹿な状況」に対しても、熱くならずにクールに対峙している感じを演出できる。一歩引いて全てを俯瞰している感じが、とても鼻に付く。「やれやれ」と一言呟くことによって、相手を受け入れる器の大きさを担保できるとでも思っているのだろうか。なんという小賢しくて嫌味でナルシスティックな言葉だろう。

例えば村上春樹の小説は、こういう「やれやれ」感が満載である。村上春樹さんは、毎年ノーベル文学賞を獲るかもしれないと噂されるくらい凄い人で、日本を代表する作家だと思うが、彼の小説に出てくる、この「やれやれ」と呟く人物がどうにも好きになれないのだ。

で、今回は保坂和志の『プレーンソング』である。自分はこの小説を数年前に読んだ。具体的な内容は、殆ど覚えていないのに、「変な小説だなぁ」という印象はずっと残っていた。「変な小説」は沢山あるが、内容は殆ど忘れているのに、印象だけが残っている小説は『プレーンソング』が初めてだ。そして、今回数年ぶりに再読したのだが、やはりこの『プレーンソング』は相当変な小説であった。

特記すべき内容はない。30代の会社員の男が主人公である。彼と彼の周りの人物達の日常をスケッチしただけの小説で、初めて読んだ時に、内容を殆ど忘却していたのは、そもそも特記すべき内容がなかったからなのだ。しかし、そのスケッチの仕方が兎に角変わっており、故に数年経っても「変な小説」という印象だけが残っていたのだ。このスケッチの仕方はかなり斬新である。悪く言えば、ありきたりな日常をダラダラと書いているだけだともいえる。主人公は、いかにも自分が苦手な「やれやれ」を口にしそうな人物であり、主人公以外の人物も年齢に比してどうにも幼稚で甘ったれており、若干の嫌悪を感じた。「失恋した」と書けばよい所を「女の子にふられた」なんて表現をする。猫に「ミィ」と「ミャア」という名前を付ける。こういう部分が読んでいて、こそばゆくなった。しかし、全体を読み終わった後に不快感はなく、寧ろ爽快な気分になった。繰り返すが、ありきたりな日常のスケッチの仕方が、斬新かつ巧みなのだ。とても回りくどい文章で、ワンセンテンスを読み終えるまでは、一々その回りくどさに辟易するのだが、ワンセンテンスを読み終わると、その文章の中に、回りくどさとは対極のスタイリッシュさがある事に気付く。或いは、この回りくどさが、「やれやれ」と呟く人間に通じる登場人物の欺瞞性を中和する役割を担っており、すこぶるバランスの良い文章に仕上げているのかもしれない。この小説の世界観で、スタイリッシュなだけの文体なら、恐らく嫌悪感しか残らない。主人公が友人達と会話するシーンが多いのだが、その会話中に、相手のリアクションについて、なぜ相手がそんなリアクションを取ったのか、主人公が内省する。その内省はとても回りくどいのだが、同時に自己批判的であり、「やれやれ」と口にする人間特有の自己愛がない。そして回りくどい文章には、それ故の説得力があり、宙ぶらりんで甘ったれた人間を描きながらも、彼らの考え方には中心にきちんと太い軸があるのだと思い知らされる。しかも、それを主張し過ぎずにスタイリッシュに纏める文章を書く技量は並大抵のものではない。打って変わって、終盤の海のシーンでの主人公たちの会話は、回りくどさは皆無で、ただ短く簡明で澄んだ言葉の応酬になっており、これはこれで圧巻だった。