松本雄貴のブログ

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20回目「仮面の告白」(三島由紀夫:新潮文庫)

三島由紀夫の「仮面の告白」は、高校生の頃に始めて読んだ。それ以降は読んでいないので、恐らく約20年ぶりの再読だ。内容は殆ど覚えていなかったが、「糞尿汲取人」という単語だけは鮮明に覚えていた。薄学な高校生にとって、三島由紀夫は難解であり読了することが苦痛であった。じつは「仮面の告白」以前に「盗賊」や「獣の戯れ」を読んでおり、こちらも殆ど覚えていないが難解であった。「金閣寺」は確か「仮面の告白」の次に読んだように思う。「金閣寺」を読む時間と労力があれば、太宰の「人間失格」で充分じゃないか、言わんとしている事は同じじゃないか、と、よく分かっているような、或いは、何も分かっていないような感想を抱いた。いずれにせよ、三島=難解という方程式が長らく自分の中で定着していた。だから、高校生で三島の小説に出会ってから20代の後半までは、全く三島文学には手を付けなかった。20代の後半、再び「潮騒」「音楽」「午後の曳行」「禁色」そして大長編の「豊饒の海」を頑張って読んだ。さすがに高校生の時よりも語彙が増えたのか、難解さはそれほど感じなかった。(「豊饒の海」の3巻目は、流石に難しかったが、内容は理解できた。一応…)
 どうも自分は三島由紀夫の文体が苦手だ。三島由紀夫の文体は、とても男性的で、文章の行間から多量の男性ホルモンが分泌している感じがする。脂ぎってギトギトしている。そう感じるのは別に「仮面の告白」の主人公が同性愛者だからではない。だから「同性愛」というテーマに関係なく、もっと根源的な部分で、三島の文体は男性的な感じがするのだ。そして、その男性的な感じが苦手なのだ。分かってもらえるだろうか?
例えば、異性間でも同性間でも性愛はもっと奥ゆかしく控え目に表現してほしいのだが、三島はかなり露骨だ。その露骨さが苦手なのだ。村上春樹の小説も露骨だが、三島の露骨さとは少し違う。村上春樹の場合は、表面的に露骨なだけで、じっさいは美男美女の綺麗なセックスしか描いていない。ナルシスティックな世界に全て収斂される。性愛における汚さも格好悪さもない。滑稽さから滲み出る人間の悲哀や苦悩が感じられない。だから、いくら「生の喪失感」みたいなことを気取りながら言われても「あっそう」としか思えない。つまり村上春樹の描写はリアリティのないファンタジーなのだ。その点、三島の露骨さにはリアリティがある。そのリアリティが転じて自分に男性的と感じさせるのかもしれない。露骨だから男性的というのも短絡的ではあるが。
「射精」や「勃起」をわざわざラテン語で言ったり、オナニーを「悪習」と表現したり、そういった衒学的表現が多い事も三島の文体が男性的に感じてしまう要因だ。衒学的な表現は身構えてしまう。身構えてしまうが、よく考えると内容は小学生レベルの下ネタだ。でも、三島の文体だと小学生が好むようなレベルの下ネタでも妙に生々しく、気持ち悪くなる。漫☆画太郎の漫画みたいに馬鹿々々し過ぎる方向に突き抜けてくれていれば笑えるのに、三島はいたって真面目だから、苦手だ。
 三島由紀夫の文体が、男性的で苦手だと自分が感じるのは、繰り返すが「仮面の告白」の主人公及び三島由紀夫自身が同性愛者だからという理由では断じてない。デヴィッド・ボウイも同性愛者だったらしいが(バイ・セクシャルだったかな?)彼の音楽には、自分は三島の文体のような男性性は感じない。どちらかといえば中性的な妖艶さ、セクシーさを感じる。要は、作り手の実際の性別と、その作品から感じとれる男性性・中性性・女性性は関係ないという事だ。ここまで書いて、ふと思い出した。個人的な印象でしかないが、三島の文体は、ペドロ・アルモドバルの映画に似ているように感じる。共感してくれる人、いるだろうか? アルモドバルの映画も、面白いのだけど、自分はちょっと苦手なのだ。「バッド・エデュケーション」とか見てもらえれば分かってくれると思う。
 長々と、自分は三島の文体が苦手だと書いてきたが、文体だけが小説を評価する指標ではない。「仮面の告白」は小説として面白い。「仮面の告白」の主人公がどこまで三島自身を投影しており、どこまでがフィクションなのかは分からないが、そんな事はどうでもいい。《自己告白の文学》としては一級品かもしれないが、どこまで本当の事を告白しているかは、作者の三島のみが知るところである。だから敢えて「仮面の告白」は三島の全くの創作であると仮定しながら読めば、余計な先入観が入って来ずにすむ。男でありながら女を愛せない主人公の心の葛藤、自分を偽ったり、偽ったことを正当化したり、戦争という大いなる破壊に憧憬したり、といった心理の機微が丹念に描かれていて、面白いのだ。以上。