松本雄貴のブログ

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40回目「叫び声」(大江健三郎:講談社文芸文庫)

ブログの更新が少し滞ってしまった。最近、精神的に疲弊しており、良い作品に触れてもブログを書く気力が起こらなかったのだ。自分は基本的に怠け者なので、ブログを書くことに向いていないのかもしれない。だから、テーマの硬軟にかかわらず、ほぼ毎日のようにブログを更新している人は、単純に尊敬する。

そもそも、自分は文章を書くのが苦手なのだ。ある作品を読んで「面白い」と思った。或いは、「面白くない」と思った。それ以上、何を掘り下げることがあるのだろう。作品に対する批評なんて、意味があるのだろうか。そんな虚無的な考えが根底にあるため、書評や映画評を書くときは、自分自身に感じる白々しさと格闘しながら書いている。「批評には意味があるのだ」という情熱と、「批評になど意味はない」という虚無感が自身の中で拮抗している時は、必然的に筆が遅くなる。いうなれば、今がそんな状態なのだ。

大江健三郎の『叫び声』は、作者が20代の頃に書いた長編だ。若々しい熱量に溢れた小説で、こんな小説に触れると、冒頭に書いた自分の批評に対する考えがいかに甘いかを確認させられる。作者が若かりし頃に感じていた、世の中への異議申し立てが、体裁など気にせず書かれている。地下の奥深くで堆積したマグマが沸点を超えて爆発したような印象を文体から受けた。ただ、書かれている内容はかなり陰湿で暗い。負の方向に、文体のエネルギーが向かっている。熱のある文体なのだが、カラッと乾いた暑さではなく、ジトッとした蒸し暑さを感じた。(どうも例えが上手くなくてすみません)

4人の男(うち一人はアメリカ人)の青春、あるいは友情が描かれているのだが、青春というワードから受ける明るい印象は皆無だ。「癲癇」「梅毒」「強姦」といったおぞましい言葉、或いは、今日では差別的とされる言葉が、単なるフレーズとして使われているのではなく、小説を構成する重要なファクターになっている。そして、この4人の男がそれぞれ曲者でろくでもない奴らなのだ(特に呉鷹男という人物)。その点が、明るく健康的な他の青春小説と『叫び声』の大きな違いである。

4人の男の友情は、猥雑さという点では、開高健の『日本三文オペラ』やヤン・ソギルの『夜を賭けて』の登場人物たちと似ている。『日本三文オペラ』も『夜を賭けて』もアパッチ族をテーマにした小説で、作中の人物たちは、皆とても粗雑で暴力的だが、どこか愛嬌があり同時に大変な時代を生き抜こうとする逞しさがあったように記憶している。一方、『叫び声』の登場人物たちには、愛嬌や逞しさはない。(虎という人物は多少、可愛げのようなものは感じたが)。ネガティブで退廃的な妄想にとり付かれている。矛盾しているように思うが、そのネガティブで退廃的な妄想が、この小説の一番の美点のようにも思う。こんな小説を書いた若い頃の大江健三郎は、どこか危ういところがあり、その危うさを、小説を書くことによって昇華させていたのかもしれない。一歩踏み外せば、作者自身が小説中に描かれる危ない行為に手を染めてしまうような、ギリギリのラインに立っていたのかもしれない。と、いうのは勿論考え過ぎで、危険な人物を描く作家がイコール危険な人物、というのはありえない。ありえないのだが、一瞬、読者である自分に錯覚させる魔力があった。

5章からなる小説なのだが、4章の『怪物』は、正直物足りない。妄想から殺人に至るまでの、意識の変化がとても幼稚で、通俗的に過ぎる。「自分は怪物だ」と錯覚して、後先のことを考えずに犯罪に走る人間の思考回路は、概ね小説で描かれているような稚拙で短絡的なものだと思うし、リアリティがあるのかもしれないが、『叫び声』という小説では、「犯罪者の心理」などといった陳腐な言葉に要約されるような、ありきたりな事は描いて欲しくなかった。もっとこちらの想像力を超えるような狂った世界を描いて欲しかった。というのが、ひとつ不満である。

以上

 

叫び声 (講談社文芸文庫)

叫び声 (講談社文芸文庫)

 

 

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