松本雄貴のブログ

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17回目「機械・春は馬車に乗って」(横光利一 新潮文庫)

コロナの影響で仕事がめっきり暇になり、家にいることが多くなった。せっかくの機会なので普段以上に本を沢山読もうと意気込んでいるのだが、何故かあまり捗らない。平時は休日にカフェで読書をするのだが、今は普段行くカフェが臨時休業している。また、不要不急の外出は憚られるので、そもそも外に出ない。となると、自宅の部屋で読書をすることになるのだが、家には読書以外の誘惑が多く、なかなか読書に没頭できないのだ。
 そんな中でようやく読了できたのが横光利一の「機械・春は馬車に乗って」である。表題の2作含め、全10編の短編が収録されている。
 太宰の小説はどの作品を読んでも大体、「あぁ、どれも太宰の小説だな」と感じる。例えば「二十世紀旗手」「お伽草紙」「斜陽」はそれぞれ、前期・中期・後期に書かれた作品で、内容もテイストも全然違うのだが、文体が太宰であり、同じ作家が書いた事に容易に首肯できる。また、太宰のバックボーンと照らし合わせて読むと、それぞれの作品は「太宰」という一本の線から派生した作品であることも頷けるだろう。「太宰」という母体から産まれた各作品は、それぞれ性別も年齢も性格も違うが同じ血が流れている。その血を手掛かりに、バラバラの作品を関連付けて論じる事が可能だ。
 しかし横光利一の短編集は、そのセオリーが通用しないとまず思った。解説には一応、「横光利一は『機械』以降の作品で心理主義に転じた」などと書かれている。しかし、そのような方法論による作品の分類など意味がないように思う。事実、この短編集には「機械」以前と「機械」以降のどちらの作品も収録されているが、どの作品が心理主義で書かれているのか、などと考えるのはナンセンスであり、それぞれの作品がそれぞれの作品なりに際だっている。太宰の小説のように、横光利一独自の共通項を見つけるのは困難なのだ。太宰の場合はまず、太宰本人の個性が強烈であり、その個性は否が応でも作品内に滲み出てしまう。対して横光は、無個性の作家であり、無個性ゆえにカメレオンのように様々な色合いの作品を産み出せたのだろう。その点に横光の器用さと強かさを感じる。もちろん、太宰と横光、どちらが作家として優れているかという問題ではない。
 一応、数少ない共通項として「厨房日記」「罌粟の中」「微笑」の3作品は梶という同名の男が出てくるが、同一人物なのか、或いは作者本人の投影なのかは定かではない。
 因みに、自分の感想では、この短編集の中で一番面白かったのは、やはり「機械」で、次いで「時間」も面白かった。
 そして、面白い作品ほど読むのに時間が掛る。劇作家・演出家の宮沢章夫さんという人が「時間のかかる読書」という著書でこの「機械」を取り上げており、なんと、「機械」を11年かけて読んだそうだ。さすがに11年は、言い過ぎだと思うが、なるほど、この短編は読むのに時間が掛る。ネームプレートを作る工場で働く、主に4人の男たちのドラマであるのだが、4人のうちの一人が作品の語り部になっており、この語り部の心理が異常に込み入っている。その込み入り具合が面白い。非常にややこしく且つ面倒くさいのだが、ややこしさと面倒くささがクセになり、やがて面白くなる。そんな感じだ。
 仕事が暇で、読書時間が増えたのにも関わらず、あまり量が読めないのは、選んだ本がこれだったから、というのも一つの原因かもしれない。。。
 以上