松本雄貴のブログ

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6回目「リチャード・ジュエル」(クリント・イーストウッド監督)

自分が今までに見たイーストウッド監督の映画は「運び屋」「15時17分、パリ行き」「ハドソン川のきせき」「アメリカン・スナイパー」「グラントリノ」「ミスティックリバー」「チェンジリング」「硫黄島からの手紙」「ミリオンダラーベイビー」の9本だ。比較的、新しいものばかりで「許されざる者」「マディソン郡の橋」など、少し昔の映画は未見だ。
イーストウッドの映画は、それぞれを比較すれば勿論、優劣の差はある。しかし、どの作品も一定以上の水準は超えており、観終わった後に後悔するような作品はない(あくまで、俺個人の感覚だが)。特に好きなのは「運び屋」と「ハドソン川の軌跡」。
だから、今回の「リチャード・ジュエル」も当然、観る前から期待していた。ハードルがかなり上がった状態で挑んだわけだが、結論から言えば、自分の中でのランキングは10本中10位。つまり、観たことがあるイーストウッド監督映画のなかでは最下位だった。
いや、面白いところも沢山あったのだけど、どうも映画の世界に入りきれなかった。ドラマが盛り上がりそうな予感がしたところで、結局盛り上がらずに、最後までいってしまったという感じだ。
イベント広場に仕掛けられた爆弾を最初に発見した主人公が、皆の命を救った英雄から一転して、爆弾を仕掛けた容疑者にされてしまう、というお話。無実の罪を着せられた善良な男が、自分を犯人に仕立て上げたマスコミとFBIを相手にどう戦い、自分の無実を証明するのか、というのがおおまかなプロットなのだが、観客は、最初から彼が犯人ではないと分かっているため、観ている間中、常にストレスを感じてしまう。「リチャード・ジュエル」に限らず、冤罪を扱った映画は、この種のストレスを多かれ少なかれ、観客に与える。冤罪を扱っている以上、致し方ない事ではある。それは、冤罪に巻き込まれる側が善良で不器用な人間であればあるほど、あるいは、相手側(「リチャード・ジュエル」ではマスコミとFBI)が老獪で醜悪な人間であればあるほど、観ている側のストレスは助長される。「リチャード・ジュエル」もそのセオリーに則っている。観客がそのストレスを我慢して映画を観続ける理由は、最後には、主人公の無実が証明され、彼の平穏な生活を滅茶苦茶にした奴らが、相応の報いを受けるであろうと期待するからだ。ある意味、予定調和ではあるが、それが冤罪を扱う映画の王道ともいえる。定石に従ってきちんと撮れば、佳作になり得る。また、或いはそんな予定調和を覆す裏切りがあっても、それはそれで面白い。観客は、気持ちよく騙してくれれば満足するのだ。
その点で考えても「リチャード・ジュエル」は中途半端な感がぬぐえない。
例えば「爆弾の第一発見者であり英雄であるリチャードが実は容疑者だ」というネタを枕営業(?) によってFBI捜査官から仕入れる女性記者が出てくる。この女性記者が、映画の前半までは、我々一般の庶民が漠然とイメージしている「ダメなマスコミ」と殆ど変わらないような描き方をされている。とても通俗的ステレオタイプな描き方なのだが、それでも最後までブレずに「嫌な奴」として突き抜けてくれれば逆に痛快だった。しかし後半、リチャードが犯人ではないと分かると、急に悪人から善人ぽい奴になる。リチャードの母の演説を聞いて、感動して涙まで流しやがる。そのくせ、リチャードには謝罪すらしない。主体性とか責任感といったものが著しく欠如している。他のイーストウッドの映画だと、例えば敵側である彼女のような人間でも、何らかの事情を抱えた奥行きのある人物として造形していたはずなのに、「リチャード・ジュエル」にはそれがない。
また、リチャードの味方であり、リチャードの弁護を引き受けるワトソンという男の描き方も不十分だ。冒頭でリチャードとワトソンが仲良くなり、二人の間に絆が生まれるのだが、そのきっかけが、単にリチャードがワトソンの好きなお菓子を覚えていたり、仕事の合間にシューティングゲームをしたり、といった理由なのだが、エピソードが薄すぎる気がする。この程度のことで二人の間に信頼関係が生じ、何年も音信不通だったのにリチャードを信じて弁護を引き受けるなど無理があるように思う。しかもワトソンの奥さんは、リチャードとは初対面だ。それなのに、奥さんもリチャードの弁護に全面的に協力する。もう少し、冒頭で二人の間に絆が生まれるきっかけとなるエピソードを膨らませてほしかった。
また、この映画は実話らしいが、それならいくらなんでもFBIの捜査が杜撰すぎやしないか。違う意味でアメリカという国が怖くなったし、FBIのネガティブキャンペーンにならないか、いらぬ心配までした次第だ。
というわけで、好きなイーストウッドの映画と比べると、本作は、少し、うーん、、、な映画でした。
以上。