松本雄貴のブログ

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12回目「塩狩峠」(三浦綾子:新潮文庫)

敬虔なクリスチャンの父母の元に産まれた青年が、様々な人との出会いと別れの中で成長し、自らも敬虔なクリスチャンになり、最後は列車の事故から自らの身を犠牲にして乗客の命を守り死ぬ、という物語。
要するに、一人の人間の幼少期から死ぬまでの一生を描いた作品で、かなり読み応えがあった。人間の一生を描いているので当然、長い小説なのだが、途中で中だるみすることもなく、最後まで読めた。言葉に物語を牽引する力があるのだろう。
ただ「キリスト教」及び「キリスト教信者」を美化しすぎているのでは、との感想も当然抱いた。もちろん、キリスト教意外の他の宗教を直接的に批判しているような箇所はない。むしろ、他宗教の批判と取られぬように気を遣いながら書かれている部分もかなりある。宗教を信じていない人間が宗教というものに持つ違和感(例えば、クリスチャンになる前の主人公が、母、父、妹の3人が食事前に「アーメン」と言って神に祈るのを黙って見ながら、居心地の悪さを感じる場面など)も、主人公の心の葛藤と共にきちんと書かれている。特に熱心なキリスト教徒である母・菊の人物造形に、それを感じる。キリスト教を信じていない人から見れば、当然抱くであろう疑問や懐疑、或いは無宗教者が宗教全般に対して嫌悪感やある種の胡散臭さを感じてしまう事を否定するわけではなく、「無宗教の人がそのように思うのも当然」と一定の理解を示したうえで、それでも自分たちの信仰を遂行するキリスト教信者、という描かれ方をされているからだ。先に、無宗教者・他宗教者・反キリスト教者の立場を理解した上で、「自分たちはこういう信仰です。信じるか信じないかは、あなたに任せますが、信じて頂けると母はとても嬉しい」と言われると、それ以上はなにも言えまい。このように無宗教者・他宗教者・反キリスト教者に対しても配慮が行き届いており、単なるキリスト教プロパガンダ小説とは一線を画しているにも関わらず、やはり、先に書いたように、少なからずの「キリスト教を美化しすぎているのでは」との感想を抱いてしまったのは何故だろうか。
 第一は、やはり作者の三浦綾子氏自身がクリスチャンであったことが大きいだろう。三浦綾子氏に限らず、全ての人は完全に公平な視点で物事を考えるのは不可能だ。「自分は俯瞰している」「自分は客観視している」と「自分」で思ってしまう生き物である。それが主観的であることに気が付かないのだ。プロの作家とて例外ではあるまい。作家が育ってきた環境、積み上げてきた経験などは、意図しなくとも作品に影響されてしまう。自身が敬虔なクリスチャンであったという事実が、作家の意図していない無意識の部分で、キリスト教を持ち上げてしまっている気がしなくもない。
 第二は、読者である自分自身の問題だ。自分も少年時代の主人公・信夫と同じように、宗教というものにかなりの疑問を感じていた時期があった。個人的な話で申し訳ないが、自分の家も母親がかなり熱心な仏教徒で(S学会ではない、念のため)朝も夜も仏壇に向かって題目を唱えており、自分も仏教を信じるように母親から口うるさく言われてきた。元来、猜疑心の強い自分は、科学的な根拠のない宗教に依拠している母親にも宗教そのものにも、反発心を抱いていた。一方、物心がつく前から仏教が日常生活の中に根付いていたのも事実であり、完全に否定しきれない愛着のようなものは今でも残っている。例えば、神社で賽銭箱に賽銭を入れたり、おみくじを引いたり、クリスマスを祝ったり、といった一般の人が深く考えずに行うようなことでも、母親が属している宗教では禁止されているため、自分が行うことには抵抗がある。宗教的とされる行為に対して、一般の人よりもかなり敏感なのだ。そして今現在は、母親の属している宗教に対して、完全には否定しきれない部分と、完全には受け入れられない部分、相反する二つの考え方が混在しており、その時の気分によって微妙に揺れ動いている。
以上のような事情があるので、少年時代の信夫に感情移入するのは容易だった。両親や妹といった身近な人間が熱心なキリスト教徒であるにも関わらず、自信はその信仰に素直に飛び込めない信夫の葛藤が、よく分かるのだ。しかし、信夫の場合、案外早くにキリスト教を受け入れ、さらには、教会で説法(?) する立場にまでなり、他の信者たちから絶大の信頼を得るような人物になる。街中でキリスト教の演説をしている伊木という男に出会い感銘を受ける事が、信夫の心がキリスト教に傾くきっかけであるが、そこから、本当に信者になるまでが、やや性急過ぎる。自分の場合、30歳を超えてもまだ母親の属する仏教に踏ん切りが付かず、信仰心と懐疑心の間を行ったり来たりいている状態であるのに、信夫はすんなりとキリスト教信者になってしまう。しかも慈悲心に溢れた非常な人格者にまで成長する。読者である自分と、主人公である信夫を、このように対比させた時、やはりキリスト教の方が仏教よりも求心力があると小説の中で言われているような気がしてしまった。要するに、キリスト教には信夫を改宗させる力があるが、仏教には自分を取り込む力がない、と感じたのだ。これが、第二の「キリスト教を美化し過ぎているのではないか」と感じた理由だ。要するに、自分自身の問題だ。
 また、この小説はキリスト教を他の宗教に置き換えても成立するのではないか。かなり大胆なアレンジになるが、例えば、主人公が聖書ではなく、法華経の教えやコーランを読んで感銘を受け、他人に優しく自分を厳しく律する人間に成長し、最後は自己犠牲の精神で乗客を助ける、というような話にしてもこの小説で作者が描きたかった事は、描けるのではないだろうか。つまり、キリスト教である必要はなく、さらには宗教である必要もなく、単に倫理・道徳を重んじる人間を描けば、それはそれで一つの物語として成功するのではないか、とも思った。
 色々難癖をつけたが、やはりこの小説は今の若い人たちに読んでもらいたいと思う。現代は、昔に比べてかなり「ヤバい」時代であることは、皆がどことなく感じているだろう。インターネット上では他人を罵詈雑言する言葉が氾濫している。老若男女問わず、全ての人間が精神的に未熟になっているようにも思う。自己中心的で視野狭窄的で排他的で差別的で傲慢で卑屈で卑怯になっている。確かに「塩狩峠」の小説の中でも、卑屈な人間や差別的な人間は登場する。キリスト教じたいが「ヤソ」と呼ばれて差別されている描写は「塩狩峠」の中でもたくさん出てくる。しかし、やはり現代および現代人が抱える問題と「塩狩峠」の時代のそれとは、本質的な違いがある。こんな時代だからこそ、良い小説を読めば、少しは良くなるのではないか。「塩狩峠」は良い小説なのだから。
 結論が抽象的すぎるが、これくらいにしておく。