松本雄貴のブログ

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16回目「メタモルフォシス」(羽田圭介:新潮文庫)

表題作の「メタモルフォシス」と「トーキョーの調教」の2作品が収録されている。
  どちらも、マゾヒズムという特殊な性癖を有した男が主人公で、そっち方面の描写がかなりエグい。墓地での露出プレイなどは序の口で、おっさんに肛門を掘られたり、ウ●コを食べたり、アブノーマルなシーンのオンパレードだ。その説明だけを聞くと、ギャスパー・ノエなどの映画に見られるような、単に性的に過激なだけの悪趣味で低俗な小説と思われるかもしれない。しかし、この2つの小説は、性的に過激な部分だけに目をやってしまうと気付かない、「言葉」というものに対する、作家の鋭く深い批評性がある。作品を過激にするためだけに、ひたすら性や暴力を描く、なんの工夫もない多くの作品とは、明らかに一線を画している。前者が、衝撃的な作品を描きたいが為に性と暴力を安易に用いているだけなのに対し、「メタモルフォシス」「トーキョーの調教」の2作は、実は、小説を成り立たせるための一つのツールとして、たまたまSMとか変態性癖を用いているだけであり、小説の主題は、もっと別のところにある。そして、その主題は極めて文学的であり、深い。
  ただ、SMシーンの描写が文章的に巧く、デティールが非常に詳らかに書かれているため、その主題に気付きにくい事が、難点でもあり、同時に美点でもある。小説としての技巧が優れているため、その先にある主題がカモフラージュされ過ぎている感が否めない。
  どういった部分が技巧として優れているのか。
第一に文章が上手い。「文章が上手い」とは言わずもがなのことのように思えるが、重要な事だ。とりわけ、SとMがお互いをけん制し合う心理的攻防、駆け引きといった内面描写が巧く、えげつない内容にも関わらず、インテリジェンスすら感じる。ともすれば滑稽なギャグに傾いてしまいがちなSMというプレイが、実はとても奥深い、哲学的ですらあるという事を、技巧を凝らした心理描写によって不覚にも気付かされた。大した手腕だと思う。
  第二に設定が効果的だ。二つの小説の主人公は、それぞれ証券会社の営業と男性アナウンサーという職業に就いている。「昼間の真面目な勤め人」と「夜の淫らな変態」という二つの顔を対比させ、性の不可解さ・不気味さを描くのはよくあるパターンだが、多くの作品が「夜の顔」を描くことに重きを置いており、「昼の顔」を描くことは、おざなりになりがちだ。キューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」も性をテーマにした映画だが、主演のトム・クルーズの職業は精神科医という設定だった。別に精神科医である必要は皆無であった。性→夢→フロイト精神科医、みたいな連想ゲームで安易に決めただけのような気がした。その点、「メタモルフォシス」の証券会社営業と「トーキョーの調教」の男性アナウンサーという職業は、その職業でないといけない理由がきちんとある。必然性があるのだ。
また、この二つの職業も、じっさいに作者が体験したことがあるのではないかというくらい、内情が詳しく描かれている。全くの創作では、こうも上手に書けない。作者の羽田さんは、島田雅彦さんの解説によると、作家になる前に就職していたらしいから、証券会社か或いは、それに類する金融系の仕事をしていたのかもしれない。(作家の経歴をウィキペディアで調べたわけではないので確証はない。)また、たまにテレビで見ることがあるので、テレビ収録の際のスタッフの言動や人間関係、テレビ業界の空気のようなモノを冷静に観察していたのかもしれない。いずれにせよ、嗅覚と観察力の鋭い作家だと思う。
  ただ、ここにも技巧が優れているために生ずる、難点がある。
「メタモルフォシス」では、詐欺的金融商品を、言葉を繕って売りつけるという拝金主義に対する批判、「トーキョーの調教」では、陰惨な事件を伝える時でも、聞き心地が良いだけの空虚な言葉を使って、視聴者の目を逸らさせようとするマスコミに対する批判が、薄くではあるが展開されている。確かに、二つの批判は共に重要で、情報が病的に氾濫している現代に身を置く一市民としては、ハッとさせられるが、手垢の付いた社会批判の域を出ていない気がする。それ故、やや説教臭かった。
そうはいっても、主人公が昼間の仕事で感じている、そういった類の社会批判が、夜のプレイの中で必然として昇華されているため、やはり、巧いと思った。
 それにしてもSMプレイとはつくづく矛盾に満ちた行為だと思う。究極のサディズムは相手を殺す事であり、究極のマゾヒズムは相手に殺される事だ。ゆえに性の究極を求める者同士が出会うと、殺人が起こる。セックスの本来の目的は生命の誕生であるにも関わらず、SMは生命の消滅が究極の目標になるわけだ。
 普段、考えもしないことを考えさえせられる小説だった。
以上