松本雄貴のブログ

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14回目「異邦人」(アルベール・カミュ:新潮文庫)

コロナウイルスの影響で「ペスト」が売れているらしい。未知のウイルス《ペスト》に立ち向かう人々の話で、「異邦人」と並ぶカミュの代表作であり不条理文学の金字塔だ。出版不況とか、若者の活字離れとか言われて久しいが、読書の習慣がなかった人でも、割と些細なきっかけで本を手に取るようになるのだろうか。
今は、学校も一斉に休校になったし、人が大勢集まるイベントは自粛させられるし、畢竟、家に引きこもることが多くなる。だったら、この機会に、特に子供たちには本を沢山読んで欲しいと思う。多感な時期に文学に触れることは、少なくとも、スマホのゲームに興じたり、匿名の掲示板で他人の誹謗中傷をしたりするよりかは、有意義な時間を過ごせるだろう。
それはさておき。
今回、自分が読んだのは「ペスト」ではなく「異邦人」だ。「ペスト」も「異邦人」も、大学生の頃に一度、読んだことがある。しかし、内容は殆ど忘れていた。「ペスト」はラストに語り部の正体が明かされる部分だけ、うっすらと覚えている。「異邦人」は、一番有名な場面、すなわち法廷で「太陽のせい」と答えるシーンだけ覚えていた。で、社会人になったいま、再び読み直したわけだ。
小説は前半の第一部と後半の第二部に分かれている。
第一部では、主人公・ムルソーがずっと会っていなかった母親の死を知り、母親が眠っている養老院に行くところから始まり、《色々な事》があった後、アラビア人を射殺する場面で終わる。
第二部は、殺人犯となったムルソーが逮捕され身柄を刑務所(?)に確保されるところから始まり、例の「太陽のせい」と答える場面を間に挟み、最後は面会にきた司祭とムルソーが決別し、処刑の日を待つ場面で終わる。
何故、ムルソーはアラビア人を殺害したのか。
何故、ムルソーは幸福を確信して死刑を受け入れたのか。
この2点について深く考えることが「異邦人」を読み解くカギになると思う。無論、正解はない。
何故、ムルソーはアラビア人を殺害したのか。
ムルソー自身が述べているように単に「太陽のせい」で殺したのだろうか。小説内では、確かに夏の殺人的な暑さと強烈な太陽の眩しさが強調されており、この熱がムルソーを狂わせ、正常な判断ができない状態にさせたのだ、と捻りのない額面通りの解釈もできる。では、本当にムルソーは単に暑さのせいで気が狂っただけだったのだろうか。殺人を犯す直前、そして直後にもムルソーの頭脳は明晰だった。いや、実際はムルソーの行動は狂気じみているのだが、自身が狂気じみていることを冷静に客観視している。狂人は自身が狂人であることを分からないから狂人なのであり、狂人であることを悟っているムルソーは狂人ではないのだ。或いは、狂気の中にあって正気でいられることが、そもそも狂気なのだろうか。だとしたら、やはりムルソーは狂気によって殺害したのだろうか、と疑問が堂々巡りしてしまう。この小説は三人称ではなく一人称で書かれているため、ムルソー自身の心理状態が、ムルソー自身によって解説される。だから、内面描写がこのようにややこしくなる。大岡昇平の「俘虜記」の冒頭と似た感じがある。
少し視点を変えて、ムルソームルソー以外の人間と本質的に違うのだろうかということを考えてみる。普通の人間が持っている感受性をムルソーは著しく欠如している、という設定で描かれているが果たしてムルソーは、他の人間たちとそんなに隔たりがあるのだろうか。
例えば、ムルソーは母親の死をそんなに悲しまない。これは、オカシイ事だろうか。「そんなに」というところがポイントであり、ムルソーは「多少は」母親の死を悲しんでいる。全く悲しまない人間、あるいは、過剰に悲しむ人間の方が、自分の価値観からすればオカシイ人間に思う。
また、母親の葬儀の翌日に女と海水浴に行ったり喜劇映画を観たり、その流れでセックスに耽ることはおかしい事なのだろうか。
これも自分の価値観からすれば、やはりオカシイとは思わない。さすがに喪に服すべき期間に性行為をするのは、自分としては心理的な抵抗があるが、する人だっているだろう。松尾スズキさんという劇作家が、あるテレビのインタビューで応えていたのを見たことがあるのだが、氏曰く「親戚の葬儀のために東京から地方まで新幹線に乗る。その3時間の車中、ずっと悲しいだけでは間が持たない。弁当を食べて旨いと思ったり、週刊誌のグラビアを見てムラムラしたりもする」と何かのインタビューで応えていた。(正確ではなく要約しています)
まさにその通りだと思うし、ムルソーの一連の行動も、この言説に則ると、至極真っ当だろう。
寧ろ後半に登場する、ムルソーを殺人者として糾弾するために「母親が死んだ翌日、喜劇映画を観て笑い転げていた」事をひたすら力説する検事の方が狂気じみているのではないか。観た映画が「喜劇」であることに執拗に拘るのも、狂気を通り越して滑稽に感じる。「悲劇」だったらよいのかと、つっこみたくなる。
このような事情を勘案すると、やはりムルソーは、感情の起伏が人より少し乏しいだけの、ごく普通の青年に思えてくる。もちろん「異邦人」は、些細な要因と偶然の悪戯で誰もが殺人者になりえる、などといった安易な教訓を押し付ける小説ではない。また、悪は殺人者たるムルソーではなく、ムルソーを殺人者にたらしめた社会であり、彼を糾弾する我々も同罪なのだ、などといった凡庸にすぎる思想を強要するものでもない。
では、再度、なぜムルソーは殺人を犯したのだろうか。
考えても考えても分からない。結局のところは、やはり「太陽のせい」に帰結するのである。
第二の問い。何故ムルソーは幸福を確信して死刑を受け入れたのか。
これについたは、後日、気が向いたら書く。
最後に、個人的に分からなかったことがある。

なぜ訳者は「母親」を「ママン」と訳したのか。単に母親ではダメだったのだろうか。
きょう、ママンが死んだ。
きょう、母親が死んだ。
確かに、ママンの方が雰囲気はある。文学的効果を狙っただけなのか、別の意図があったのか。
答えは訳者のみぞ知るである。
以上。