松本雄貴のブログ

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92回目「うつくしい人」(西加奈子:幻冬舎文庫)

自分は飲食店で注文するのが苦手である。ラーメン屋に行くと、皆口々に「麺固め」「ネギ多め」「背油少なめ」「ニンニク抜き」なんて注文をする。自分はあれができないのである。店員に「トッピングはどうしましょう?」と聞かれても毎回「全部、普通で」と小声で言ってしまう。本当は、メンマとかキムチとか色々付け足したいのだが、なんだか言えないのである。

散髪も苦手である。「どんな髪型にしましょう?」と聞かれるのが辛い。「こういう髪型にして欲しい」と具体的に言うのが恥ずかしい。写真を見せて髪型を指定するのもできない。「お前には似合わない」と美容師に馬鹿にされたらどうしよう、なんて考えてしまう。

披露宴などで行われるビンゴ大会も嫌いだ。ビンゴになっても知らない人が多数いる中で「ビンゴ!」と叫ぶことができない。恥ずかしい。リーチになった瞬間に「どうかビンゴにならないでくれ」と心の中で祈っている始末である。そのため、何度か景品も貰い損ねている。

これらは全て、自意識からくる羞恥心に起因している。自分がどんなラーメンを食べようが、どんな髪型をしようが、「ビンゴ!」と叫ぼうが、誰も気にしないのは承知している。しかし、できないのである。

そんな自分であるから、西加奈子さんの「うつくしい人」の主人公には、ものすごく共感できる。

周りの目を過剰に気にする女性が、四国に一人旅をする小説である。前半は、主人公・百合の自意識過剰からくる失敗談や妄想などが哀しくもユーモラスに描かれ、笑える。飛行機内で騒ぐデリカシーの無いおばちゃん軍団の図太さに対して、批判的な気持ちと同時に羨ましさも感じてしまう場面など、主人公の内面描写には共感しかない。また中盤に登場するうだつの上がらないバーテンダー坂崎の人物造形が面白い。究極の自然体のような男であり、繊細な自意識を護るために過剰に防御する主人公との対比が興味深い。掴みどころのないドイツ人の青年を含めた3人の会話が、微妙な調和を保っており、滑稽さとユーモアが全編に漂っている。主人公の凝り固まった自意識が、2人の男によって解きほぐされていく様子が優しく描かれており、読んでいるこちらの心までも、何かから解放させてくれる。そんな読後感があった。

主人公の性格を形作るきっかけとなった姉の存在が、辛い。姉の過去の話は、全体的に哀しいけれど優しいユーモアが漂う小説の雰囲気とは違い、重たい。姉が虐められるまでの経緯を冷静に見つめ分析し、さらにはそこから処世術を得る妹。ものすごく冷静に淡々と語られるのだが、冷静を装った文体から滲み出る「熱」のようなものが、読み手にはプレッシャーに感じた。全然違う小説だが、大岡昇平の『俘虜記』の冒頭のような…。

その圧は、作者が強調したい部分やフレーズを「」で表現するのに起因しているように思う。

「いい子」「素直な世界」「美しい人形」「社会」「渦中の人」「成功」「もうひとつの眼」

というように、姉の事情を描く箇所は鍵括弧で強調するところが異様に多いのだ。これが、一つの効果にはなっているとは思うが、自分には少し暑苦しく感じた。

 

87回目「深い河」(遠藤周作:講談社文庫)

自分は遠藤周作という作家が好きだ。遠藤周作を含め、自分には好きな作家が何人かいる。自分の趣味嗜好を分析してみると、その好きな作家に共通する作風が見えてくる。ここで注釈を入れると、「作家」は好きだが、彼らの書く「作品」が全て好きという訳ではない。好きな作家が書く作品にも、ピンからキリまであり、自分とは合わないものも当然ある。個別の作品ではなく、作家自身の境遇、思想、バックボーンなどに魅力を感じる。或いは、共感や親近感を覚えたりする。そんな作家が書いた作品は、クオリティー的にイマイチでも、或いは、世間一般の評価が低くても、なんとなく許せる。「許せる」というのも烏滸がましい話だが、「この人が書いたのだから仕方がない」と妙に納得してしまうのである。例えば、中島らもの『バンド・オブ・ザ・ナイト』は、自分の中では、そんな作品だった。『バンド・オブ・ザ・ナイト』は、正直、面白くなかった。しかし自分は中島らもという作家が好きだから、納得してしまうのである。大袈裟な表現だが、駄作の中にさえ、その作家の「匂い」を感じて陶酔するのである。まぁ、これは蛇足である。

自分の好きな作家に共通する作風とは、何であるか。考えを突き詰めていくと、「自己批判的である」という結論に達する。反対に、自己肯定的な作風は苦手だ。世の中に対する異議申し立てや自身の政治信条を声高に叫ぶ作品には、「自分の意見は絶対に正しい」という傲慢さが垣間見える。そういう作品に接した時、自分は何とも言えない薄ら寒さを感じてしまう。それらの作品は、概して、意見を異にする他者を攻撃しがちだ。SNSでの誹謗中傷合戦と本質は変わらないように思う。作品が自己肯定的になってしまうのは、ある意味仕方のない事だとは思う。自己肯定とは、全ての人間にとって快感であるからだ。例えば、右寄りの思想を持っている人は、右寄りとされる意見が正論になる。逆もまた然りだ。自身の中で正論とされる事柄を書くと、同じ考えを持つ人たちに支持される。賛同を得られる。俗的な言い方をすると、承認欲求が満たされるのである。その手段は、実は安易で、右なら右、左なら左、各々の思想に於いて正論とされる事を書けばいいのである。それが簡単な事だとは思わない。悪い事だとも思わない。手段こそ安易ではあるが、多くの人の賛同を得る為には、やはり相応の技術や才能も必要だからだ。しかし、そうして書かれた作品を読むと、どうしても自己の言葉に酔いしれて気持ち良くなっている作者の姿が脳裏に浮かんでしまう。それが苦手なのだ。

そういう自分であるから、必然的に「自己肯定」とは逆の「自己批判」を感じる作風が好きなのだ。他人を馬鹿にして笑いを取る作品も良いが、自己の惨めな姿を描いて取る笑いの方が好きなのだ。自虐というものを徹底した作品には、笑いの先にある透き通った哀しみや、さらには狂気といったものを感じる。格好悪いことに徹しきれば、一周回って格好良く見える、といった論理である。今回、読了した遠藤周作の『深い河』は、そういった意味での笑いの要素はなく、ごく真面目な文学作品であるが、遠藤文学の多くに共通する自己批判的な視線は、同じく存在する。

遠藤周作は11歳でカトリックの洗礼を受けている。作家の期間より、クリスチャンとしての時間の方が長い。作家である以前に、クリスチャンである。その為、書かれた作品の多くはキリスト教を主題としている。キリスト教を含む宗教の問題は、遠藤周作の作家としてのメイン・テーマだと言ってよいと思う。敬虔なクリスチャンにとって、キリスト教を批判的に描く作品を書くのは、自己批判的といってよい。「批判的」とは言っても、遠藤周作は作品の中で「宗教は間違っている」というような単純な批判はしない。敬虔なクリスチャンでありながらも、宗教が持つ欺瞞性に違和感を覚え、苦悩する神学生などが描かれている。そこには、単純な善悪では割り切れない苦悩がある。幼い頃から宗教が身近にあり、神を信仰するという行為が当たり前であった人間にとって、その神を疑うという苦悩は、他人が想像する以上に辛い事である。神を批判する、しかし神は神を批判する人間をも愛する、そんな神の慈愛を批判する自分自身を批判する、自分自身を批判するのは神という存在があるからだと、また神を批判する、しかし神はそんな自分をも愛する、以下、無限に批判が繰り返される。その批判が帰着する先は、自己の破壊である。このように入り組んだ批判を、宗教に属さない作家ではなく、当事者であるクリスチャンが書いている。作家自身も苦悩していると想像するのである。

遠藤周作にとって『深い河』は、『沈黙』とはまた別の集大成的な小説であるように思う。インドを舞台にした小説であるが、紀行文学ではない。インドの地で繰り広げられる物語も面白いが、各々の登場人物たちが何故インドに行くのか、その動機の方が重点的に書かれている。全13章からなる長編だが、登場人物たちが実際にインドの地に降り立つのは、6章からである。それまでは、各登場人物たちのインドに行かなければならないそれぞれの事情が丹念に描かれる。また、インドの地に降り立ってからも、何故自分がインドに来たのか、動機が見つけられず、彷徨う人物もいる。

主要登場人物は5人いる。その5人には、それぞれインドを訪れる動機がある。最初に登場するのは、磯辺という初老の男。妻をガンで亡くした彼は、妻の生まれ変わりを探すべくインドを訪れる。これが磯辺のインドを訪れる動機である。ここだけ切り取ると、愛する妻の転生を探し求める夫、という背中が痒くなりそうなロマンティシズムを感じるが、当の磯辺はこれまで輪廻転生など信じた事のない無神論的な人間であり、インドに着いてからも自分の行動に疑問と戸惑いを感じている。そして最終的には転生した妻に出会えるわけではなく、磯辺の行動は、徒労に終わる。読者は、そこに深い虚無を感じる。クリスチャンが書いた小説なのに、「死んだ妻との再会」という奇跡は起こらないのである。輪廻転生はキリスト教ではなく仏教の思想なので、些かこじつけの感はあるが、宗教に属している遠藤周作が、奇跡を書かずに虚無を書いた事に自己批判的なものを感じるのである。

また、敬虔なクリスチャンが書くキリスト教批判は、2人目の登場人物である美津子という人物に顕著である。彼女と生真面目な神学生、大津の関係は、自分が常日頃感じていた宗教というものの矛盾が、余すことなく描かれる。その批判も、作者の地の文による批判ではなく、二人の男女の会話、関係性からあぶり出された自然で押しつけがましさのない批判であり、すんなりと、だけれどでも重くずっしりと読者の胸に響く。

最後に、この小説でもっとも自己批判的であると自分が感じた部分を引用する。

「復讐や憎しみは政治の世界だけでなく、宗教の世界でさえ同じだった。この世は集団ができると、対立が生じ、争いが作られ、相手を貶める為の謀略が生まれる。(中略)それぞれの底にはそれぞれのエゴイズムがあり、そのエゴイズムを糊塗するために、善意だの正しい方向だのと主張していることを実生活を通して承知していた」

こういった文章が、クリスチャンの作家から書かれた事に、敬意を表する。

 

 

84回目「枯木灘」(中上健次:河出文庫)

自分の場合、小説を読んで感動するのは主に「物語」と「文体」に依ってである。どちらか一方でも、自分の琴線に触れれば、素直に感動する。単純な人間なのだ。まあ別に「感動」といっても、泣いたり心が震えたり人生観が変わったり、というような大袈裟な意味ではなく、もう少しざっくりと、「感心」といった方がいいかもしれない。

「物語」で感動するというのは、つまるところ、ストーリーがよくできていて面白いという意味で、ミステリー小説を読んで、驚愕の真犯人が判明した瞬間などに感じる。多分、最もオーソドックスな感動の仕方ではないだろうか。この種の感動との最初の出会いは、恐らく、小学生の頃によんだ野口英雄の伝記だったと思う。野口英雄の、貧しく病弱であった幼少期から、黄熱病の研究でアフリカに行きガーナの地で生涯を終えるまでの物語で、もう殆ど覚えていないけど、小学生の自分を感動させ、「自分も野口英雄みたいに勉強を頑張って立派な人になろう」と思わせるくらいの力が、その物語にあったように記憶している。実際に勉強を頑張ったのは、最初の三日間だけだったことも覚えている。

一方、「文体」で感動するというのは、つまるところ、「語り口」が面白いという意味で、何でもない話でも、作家独自の表現方法で面白おかしく読ませてくれれば、感動するのである。「物語」による感動の仕方よりは、若干高度な感動で、ある程度の読書経験がなければ、「文体」だけで感動するのは難しいだろう。「文体」による感動は、作家との相性も大きく関係してくる。「文体」は、小説を構成する一つの要素に過ぎないが、実は、雑多な装飾を取り払った作家の奥底にある最もピュアな部分であり、「文体」に感動したという事は、イコール、作家の本音の部分に共鳴できたということだ。ただし、基本的に作家は天邪鬼な人が多い。虚構を書く職業なので当然といえば当然だ。意図的に文体を崩し、注意深く本音がカムフラージュされた作品から、作家の本音を読み解くのは至難の業である。しかし、一見、煌びやかに装飾された文体や、無味乾燥して荒んだ文体から僅かに滲み出る作家の本音を探り当て、作家と共鳴できた時の感動は、「物語」によってもたらされた感動よりも、より味わい深いものではないだろうか。

さて、前置きが長くなったが、中上健次の『枯木灘』である。自分は、『枯木灘』を読んで感動した。しかし、自分が『枯木灘』に感動したのは、「物語」でも「文体」でもなかった。

枯木灘』は「物語」と「文体」の両方とも優れた稀有な小説であることは間違いない。「物語」は、秋幸という青年を中心にした、非常に複雑な人間関係が描かれる。まず、秋幸には種違いの兄弟が4人いる。そして腹違いの兄弟も4人いる。その腹違いの兄弟の内、1人は実父の愛人が産んだ子であり、3人は実父の二番目の妻が産んだ子である。さらに、実母の再婚相手に連れ子がいるため、義理の兄弟が存在する。秋幸の周辺だけで、かくも複雑な関係があり、最初は登場人物たちの背景を掴むのに苦労するが、物語がいたずらに錯綜したり混乱したりすることはなく、小説内で発生する大きな事件は、クライマックスである異母弟の殺害の他に、幾つかのセンセーショナルがあるくらいで、分量に比して少なく簡潔だ。つまり、「物語」はシンプルで面白かった。

「文体」には、独得の回りくどさと粘っこさがある。舞台が和歌山県紀州のため、登場人物が話す言葉は大阪弁をより土着的で土俗的にした、きついけどどこか愛嬌のある方言であり、作品の狂気的な雰囲気と妙に調和しており、面白かった。

しかし、『枯木灘』を読んで得た感動は、「物語」と「文体」によるものではない。じゃあ、何によるのかという話だが、それが自分でもよく分からない。小説に一貫して通底する中上健次の魂のようなものかもしれない。という抽象的な結論でお茶を濁そうと思う。

 

81回目「あらゆる場所に花束が‥‥‥」(中原昌也:新潮文庫)

冨樫義博の漫画を読んだ時と同じような感想を抱いた。話の展開のさせ方が天才的に巧く、読者の興味を引きたてるけど、結局、最後は投げやり気味で終わる所が何となく似ているのだ。『幽遊白書』の魔界トーナメントの話も、トーナメントに至るまでの過程がとても面白かった。そしてトーナメントが始まり、いよいよ本格的に話が膨らむと期待した瞬間に、あの終わり方である。あまりにも唐突で、明らかに「描くのが面倒臭いから終わらせた」感が満載のラストだった。あの終わり方は、多くの読者の怒りと失望を買ったと思うが、実は自分は、その突き放した感じも結構好きだった。「才能のある人間はこんな暴挙も許されるのだ」とでも言いたげな、ある種の傲慢さに少なからずの好感を抱いたのだった。現在、少年ジャンプで連載中(休載中)の『HUNTER×HUNTER』も、話をあれだけ壮大にし、伏線を張りまくり、大風呂敷を広げた挙句、収拾が付かなくなって作者自身が袋小路に追い詰められてしまった感じがする。しかし、キャラクターの魅力も含め物語を壮大にする才能は確固たるものだ。自分にとって『HUNTER×HUNTER』ほど、続きが気になる漫画はない。未だにいつ連載が再開されるのか分からない。再開しても、すぐにまた休載するから本当に作品が完結するのかハラハラする。漫画の内容もスリリングだから、二重にハラハラさせられる。ある意味、お得なのかもしれない…。

で、中原昌也の『あらゆる場所に花束が』である。何気ないシーンのどこを切り取っても、血と暴力の匂いが漂うところが富樫義博の漫画に似ているなと思ったのだけど、やはり、物語の伏線の貼り方と、張り巡らされた伏線が結局最後まで回収されずに唐突に終わるところが富樫漫画を彷彿させる。

小説の作り方が未熟だから話を纏められなかったのか、意図的にそのようしているのかは不明だ。不明なのだけど、断片的に書かれた一つ一つのシーンは本当に面白い。面白いから、投げ出された各々のシーンが、最後に繋がり一つに集約されるのだろうと読者は期待する。しかし、小説の8割ほどを読み進めた時点で少し不安になる。もう数ページしか残ってないのに、また新しい登場人物が出てくる。ラスト1ページになっても焦点が定まらない。最後の最後になって、ようやく確信する。この『あらゆる場所に花束が』という作品は、物語を綺麗に纏めるといった、ありきたりな作法を放棄した小説なのだと確信するのである。

この読後感は、ミステリー小説を読んだ時の「騙された」とか「裏切られた」という感じではない。適切な言葉が見つからない。よく分からないうちに、中原昌也という作家にたぶらかされた、或いは、いいように弄ばれたという感じが近いかもしれない。だけど、決して読んだ時間がもったいないとは思わない。自分の中に残るものは確かにあった。それが何かは分からない。こんな読後感も、『幽遊白書』が唐突に終わった時の感触に似ている。要するに、面白いのだけど、この作者の素性を全く知らない者が読んだら戸惑う事は必須だとも思う。

 

79回目「苦役列車」(西村賢太:新潮文庫)

様々な場所で「文学の必要性」についての議論を見かける。自分自身、文学作品を読むのは好きだし、好きだからこそ、こんなブログも書いているわけだが、改めて「文学の必要性」を問われると答えに窮してしまう。「文学は人間性を豊かにするから読むべきだ」などと定型句のような理由を語られても、イマイチしっくりこない。

逆に「文学には実用性がないから読む必要はない」という意見も乱暴に感じる。確かに、沢山の文学作品を読んだからといって金を稼げるわけではないが、実用性とか合理性の見地からでのみ文学を否定するのも躊躇われるし、寂しい思いがある。だから、「文学の必要性」を問われた時は、「読みたい人は読めば良いんじゃないの」という、どっちつかずの意見でお茶を濁すのが常である。

そんな自分だが、西村賢太の『苦役列車』を読んで「文学の必要性」を改めて感じてしまった。しかしそれは読者・消費者からの必要性ではない。「人間性を豊かにする云々」や「文学には実用性がない云々」は、全て読者の立場から論じられる必要性の是非である。そうではなくて、この『苦役列車』には、文学を産み出す作者・書き手からの切実なまでの「必要性」を感じたのである。

苦役列車』は人生に何の希望も楽しみも持たず、冷凍倉庫で日雇いのバイトをしている19歳の少年が主人公である。友人も恋人もいない。それを求める気持ちはあるが、プライドと劣等感が邪魔をして、いつまでも孤独なままである。いわゆる「リア充」とは真逆の悲惨な青春を送る少年である。客観的に見ると、人に対する接し方や、自身の人生に対する根本的な考え方を少し変えてやれば、19歳の若さなのでいくらでも軌道修正できるだろうし、やり直しもできるのである。しかし、それに気付かず常に間違った選択をしてしまう主人公がとてもやるせない。少年の言動が常にマイナスの方向に作用してしまうのは、元来の卑屈な性格と劣等感によるものである。しかし、そんな少年にも唯一の楽しみがあり、それが「文学」であった。

併録されている『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』は、『苦役列車』の少年が大人になり、実際に小説家になった話である。強烈な劣等感を裡に抱え、まともな人生が送れない社会歩適合者のような男にも、唯一、「文学」は残されており、文学を書くことで社会と繋がりを保てるのである。

文学を書くという行為は、何も健康的で日の当たる人生を歩んできた人たちだけの特権ではない。確かに健康的な文学は読んでいて楽しい。多くの読者の共感も得られるだろう。しかし、そうではない人にも文学の門戸は開かれている。心の中に複雑なコンプレックスを抱えている人。人生に何の楽しみも見いだせない人。そんな人たちが、「世の中の生きづらさ」を詳らかに書けば、それはそれで文学になるはずである。そのように書かれた文学は、得てして暗く、普通の人の好みからは程遠い作品になるだろうが、同じ悩みを持った百人に一人だか千人に一人だかの読者に強く深く刺さるはずである。それは素晴らしいことではないだろうか。

そんなような事を西村賢太さんの『苦役列車』を読んで思ったが、『苦役列車』はフィクションなので作中の主人公イコール西村賢太さんではないので、念のため。

苦役列車

苦役列車

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77回目「プレーンソング」(保坂和志:中公文庫)

自分は「やれやれ」と呟く人間が苦手である。「やれやれ」という嘆息には、様々な欺瞞が含まれているように思う。相手を小馬鹿にしている感じが嫌だ。馬鹿な事をした相手、或いは、馬鹿な状況に対して「やれやれ」などと呟く人は、「自分はこんな馬鹿なことをしない」という自己肯定と、「君は僕と違ってこんな馬鹿なことをしたのだよ」という上から目線がある。馬鹿な事をした相手に対して「馬鹿」と直接言わずに、「やれやれ」と持って回った言い方をすると、相手を小馬鹿にして暗に批判しながらも、相手に反撃されるリスクがない。自己保身的である。さらに、「やれやれ」という言葉には、「馬鹿な相手」や「馬鹿な状況」に対しても、熱くならずにクールに対峙している感じを演出できる。一歩引いて全てを俯瞰している感じが、とても鼻に付く。「やれやれ」と一言呟くことによって、相手を受け入れる器の大きさを担保できるとでも思っているのだろうか。なんという小賢しくて嫌味でナルシスティックな言葉だろう。

例えば村上春樹の小説は、こういう「やれやれ」感が満載である。村上春樹さんは、毎年ノーベル文学賞を獲るかもしれないと噂されるくらい凄い人で、日本を代表する作家だと思うが、彼の小説に出てくる、この「やれやれ」と呟く人物がどうにも好きになれないのだ。

で、今回は保坂和志の『プレーンソング』である。自分はこの小説を数年前に読んだ。具体的な内容は、殆ど覚えていないのに、「変な小説だなぁ」という印象はずっと残っていた。「変な小説」は沢山あるが、内容は殆ど忘れているのに、印象だけが残っている小説は『プレーンソング』が初めてだ。そして、今回数年ぶりに再読したのだが、やはりこの『プレーンソング』は相当変な小説であった。

特記すべき内容はない。30代の会社員の男が主人公である。彼と彼の周りの人物達の日常をスケッチしただけの小説で、初めて読んだ時に、内容を殆ど忘却していたのは、そもそも特記すべき内容がなかったからなのだ。しかし、そのスケッチの仕方が兎に角変わっており、故に数年経っても「変な小説」という印象だけが残っていたのだ。このスケッチの仕方はかなり斬新である。悪く言えば、ありきたりな日常をダラダラと書いているだけだともいえる。主人公は、いかにも自分が苦手な「やれやれ」を口にしそうな人物であり、主人公以外の人物も年齢に比してどうにも幼稚で甘ったれており、若干の嫌悪を感じた。「失恋した」と書けばよい所を「女の子にふられた」なんて表現をする。猫に「ミィ」と「ミャア」という名前を付ける。こういう部分が読んでいて、こそばゆくなった。しかし、全体を読み終わった後に不快感はなく、寧ろ爽快な気分になった。繰り返すが、ありきたりな日常のスケッチの仕方が、斬新かつ巧みなのだ。とても回りくどい文章で、ワンセンテンスを読み終えるまでは、一々その回りくどさに辟易するのだが、ワンセンテンスを読み終わると、その文章の中に、回りくどさとは対極のスタイリッシュさがある事に気付く。或いは、この回りくどさが、「やれやれ」と呟く人間に通じる登場人物の欺瞞性を中和する役割を担っており、すこぶるバランスの良い文章に仕上げているのかもしれない。この小説の世界観で、スタイリッシュなだけの文体なら、恐らく嫌悪感しか残らない。主人公が友人達と会話するシーンが多いのだが、その会話中に、相手のリアクションについて、なぜ相手がそんなリアクションを取ったのか、主人公が内省する。その内省はとても回りくどいのだが、同時に自己批判的であり、「やれやれ」と口にする人間特有の自己愛がない。そして回りくどい文章には、それ故の説得力があり、宙ぶらりんで甘ったれた人間を描きながらも、彼らの考え方には中心にきちんと太い軸があるのだと思い知らされる。しかも、それを主張し過ぎずにスタイリッシュに纏める文章を書く技量は並大抵のものではない。打って変わって、終盤の海のシーンでの主人公たちの会話は、回りくどさは皆無で、ただ短く簡明で澄んだ言葉の応酬になっており、これはこれで圧巻だった。

 

75回目「悪意の手記」(中村文則:新潮文庫)

不治の病に冒された男が人生に絶望し社会を憎悪する。奇跡的に病気は回復するが、闘病中に心の中で育まれた虚無と悪意は消えず、やがて同級生の親友を殺害する。殺害に至るまでの主人公の心の動きと、その後の数年の人生を、手記形式で描いた小説。なぜ主人公の「私」は親友を殺害したのか。闘病中に感じた虚無の正体は一体何だったのか。果たして「私」は殺人の罪に呵責を感じているのか。或いは感じていないのか。親友を殺害後も事件は発覚せず、一見平凡な生活を送るが、常に「私」の中には「自分は人殺しである」という事実が影法師のように付き纏う。さらに「俺は人殺しだ」と唐突に告白したい衝動に駆られたり、その瞬間に理性が働き告白するのを自制したり、自制したことにより安堵を感じたり、安堵したことに対して自身の卑劣さを感じたり、その時々の「私」の感情の変遷を詳らかに見つめる。罪を背負った人間の自問自答と自己分析によって書かれた手記である。

文体は簡明かつ明晰なのでスラスラと読み進められる。集中して一気に読了できる程の簡明さと勢いのある文体であるが、読み進める度に胸が苦しくなった。それは本書が「殺人」や「少年犯罪」といった重いテーマを扱っているからという理由も勿論あるが、もっと根源的に『悪意の手記』の「私」と読者である自分が似通っていると思ったからだ。決して他人事ではない切実さを本書に対して感じた。それ故の読みづらさと胸の苦しさである。

例えば、白血病を克服しオリンピックに出場したアスリートがいる。或いは、盲目の天才ピアニストがいる。彼や彼女が世間から称賛されるのは当然だと思う。自分も世間と同じく彼や彼女を尊敬している。元々の才能にプラスして、我々の想像を絶するほどの努力をされたのだろう。困難に克服し成功している人たちの物語を見る時、素直に敬服すると同時に、「もし自分が同じような立場だったら、どうだろうか」と考えて虚しい気持ちになる。自分は絶対、アスリートやピアニストのようには振舞えない。恐らくは『悪意の手記』の「私」と同じく世の中を憎み、「なんで俺が?」という思考に落ちていくように思う。幸い自分は、たまたま五体満足に生まれ、これまでも大した病気に罹ったことがないが、自分の性格を冷静に凝視すると、『悪意の手記』の「私」と同じ「悪意の種」を心に抱えているように思うのだ。だから、この小説に妙な親近感を覚えた。

作家が小説を書くとき、作家はどこまで登場人物に自己を投影し肉薄しているのか、という点についても考えさせられた。三人称の小説の場合、作家は登場人物より一段高い所から俯瞰して全体を見る。ある意味、駒のように人物を配置し動かせる。生かすも殺すも自由自在である。三人称小説の登場人物にとって作家は神のような存在だ。しかし、一人称で書かれた小説には、三人称小説のように作家が登場人物に対して持つ優位性はない。小説はあくまで虚構を書く作業なので、一人称だからといって作家がそのまま作中人物になるわけではないが、三人称小説に比べると、作家本人と作中人物の距離は非常に近くなる。作家自身が作中人物に同化する必要が出てくる。『悪意の手記』は一人称で書かれた小説であり、さらに手記という形式を取っている。手記を書く動機は、自分が何者なのか、その存在の根源を見つめ直すためである。普通の一人称小説よりも、より強く密接に人物と同化しなければ、読者に対して説得力を持ちえない。だから、『悪意の手記』のような小説を書くのは精神的にしんどいだろうな、と思った。大きなお世話かもしれないが、中村文則氏の精神状態を少し慮った。何しろ「親友を殺した男」になり切って書かないといけないからだ。

また『悪意の手記』には作家が人物になり切るスタイルをとったが為の綻びも僅かに感じた。一番の綻びは「文章が巧い」ということだ。「文章が巧い」という作家にとっては一番の美点が、『悪意の手記』に於いては唯一の汚点になっている気がした。「巧い文章」に触れた時に、やっぱりこの手記は実際に親友を殺めた少年ではなく、中村文則というプロの作家が書いた創作物なのだな、と些か冷静になってしまったのである。

犯罪者の心理を描写した作品は沢山あるが、作家の想像力だけで書かれたものより、永山則夫のような実行犯が書いたものの方が身に迫るものがあるのは、ある意味致し方ないことだ。だからといって、作家が実際に殺人を犯すわけにはいかない。できるなら、純粋な想像力だけで書かれ、尚且つ永山則夫を凌駕するような作品を読んでみたい。ともあれ、自分の好きな町田康の『告白』とはまた違う手触りで、『悪意の手記』も良い読書体験をさせてくれた小説でした。