松本雄貴のブログ

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79回目「苦役列車」(西村賢太:新潮文庫)

様々な場所で「文学の必要性」についての議論を見かける。自分自身、文学作品を読むのは好きだし、好きだからこそ、こんなブログも書いているわけだが、改めて「文学の必要性」を問われると答えに窮してしまう。「文学は人間性を豊かにするから読むべきだ」などと定型句のような理由を語られても、イマイチしっくりこない。

逆に「文学には実用性がないから読む必要はない」という意見も乱暴に感じる。確かに、沢山の文学作品を読んだからといって金を稼げるわけではないが、実用性とか合理性の見地からでのみ文学を否定するのも躊躇われるし、寂しい思いがある。だから、「文学の必要性」を問われた時は、「読みたい人は読めば良いんじゃないの」という、どっちつかずの意見でお茶を濁すのが常である。

そんな自分だが、西村賢太の『苦役列車』を読んで「文学の必要性」を改めて感じてしまった。しかしそれは読者・消費者からの必要性ではない。「人間性を豊かにする云々」や「文学には実用性がない云々」は、全て読者の立場から論じられる必要性の是非である。そうではなくて、この『苦役列車』には、文学を産み出す作者・書き手からの切実なまでの「必要性」を感じたのである。

苦役列車』は人生に何の希望も楽しみも持たず、冷凍倉庫で日雇いのバイトをしている19歳の少年が主人公である。友人も恋人もいない。それを求める気持ちはあるが、プライドと劣等感が邪魔をして、いつまでも孤独なままである。いわゆる「リア充」とは真逆の悲惨な青春を送る少年である。客観的に見ると、人に対する接し方や、自身の人生に対する根本的な考え方を少し変えてやれば、19歳の若さなのでいくらでも軌道修正できるだろうし、やり直しもできるのである。しかし、それに気付かず常に間違った選択をしてしまう主人公がとてもやるせない。少年の言動が常にマイナスの方向に作用してしまうのは、元来の卑屈な性格と劣等感によるものである。しかし、そんな少年にも唯一の楽しみがあり、それが「文学」であった。

併録されている『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』は、『苦役列車』の少年が大人になり、実際に小説家になった話である。強烈な劣等感を裡に抱え、まともな人生が送れない社会歩適合者のような男にも、唯一、「文学」は残されており、文学を書くことで社会と繋がりを保てるのである。

文学を書くという行為は、何も健康的で日の当たる人生を歩んできた人たちだけの特権ではない。確かに健康的な文学は読んでいて楽しい。多くの読者の共感も得られるだろう。しかし、そうではない人にも文学の門戸は開かれている。心の中に複雑なコンプレックスを抱えている人。人生に何の楽しみも見いだせない人。そんな人たちが、「世の中の生きづらさ」を詳らかに書けば、それはそれで文学になるはずである。そのように書かれた文学は、得てして暗く、普通の人の好みからは程遠い作品になるだろうが、同じ悩みを持った百人に一人だか千人に一人だかの読者に強く深く刺さるはずである。それは素晴らしいことではないだろうか。

そんなような事を西村賢太さんの『苦役列車』を読んで思ったが、『苦役列車』はフィクションなので作中の主人公イコール西村賢太さんではないので、念のため。

苦役列車

苦役列車

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