松本雄貴のブログ

本。映画。演劇。旅。

103回目「浮雲」(林芙美子:角川文庫)

言ってしまえば、「不倫の果て」のような小説である。芸能人の不倫がゴシップになる度、「他人の事などどうでもいい」とか「興味がない」とか嘯いているが、そのくせ、つい関連するネット記事などを漁ってしまうのは、やはり、不倫に興味があるからだ。不倫そのものの興味というよりは、当事者たちが不幸になっていく様子に興味があるのだ。不倫という倫理に反した人間を、まず許せないと思い、次いで羨ましいと思い、そしてそれが世間に批判され落ちぶれていく様子を見て、「ざまあみろ」と思い、さらに、不倫できない自分を「真面目な一市民」という正しい位置に置いて優越感に浸る。この一連の流れを体感したいが為に、何の関係もない他人のゴシップを漁るのである。単純に言えば「他人の不幸を見て楽しむ」のと同じ心理である。そして、この一連の流れを体感した後は、些か冷静になり、「自分はなんて嫌な性格なのだろう」と、自己嫌悪に陥るのである。

そんな自分なので、林芙美子の『浮雲』も当初は、芸能人の不倫ゴシップを楽しむのと同じ卑しい根性で読んでいたのであるが、読み進めていくうちにゴシップ的な興味ではなく、純粋に作品として熱中してしまった。巷に溢れている軽薄な不倫ではなく、男女ともに生死を賭けた情念のようなものを感じて、「不倫」というイメージにどうしても付きまとう「通俗性」から解放されたのである。

男も女も、不倫関係が続くにつれて、様々な人間を不幸にし、自分たちも堕落していく。その都度、お互いを見限り幻滅し真っ当に生きようと決意するが、また、元どおり惰性のような関係に戻ってしまう。それは惰性の関係、或いは、単に肉欲だけの関係ではあるが、ある瞬間には、どんなカップルよりもプラトニックで真実の愛のような感じがする。客観的に見れば、芸能人のゴシップと変わらない話であるが、そのように感じさせない熱を感じた。ただ、この熱狂の正体は時代設定に依るところも大きいのでは、と感じる。戦争と敗戦後の混乱という設定が、平常時の男女の不倫にはない緊迫感を生んでいるという面も否定はできない、と思う。

ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』のように。

 

102回目「ノスタルジア」(アンドレイ・タルコフスキー監督)

タルコフスキーの『ノスタルジア』を頑張って観た。「頑張って」というのは「途中で眠らずに」という意味である。タルコフスキーの映画は、他に何本か観ている。どれも途中で力尽きた。最短は『惑星ソラリス』で、恐らく、開始15分くらいで寝たと思う。

途中で寝てしまったからといって、「退屈な映画」というわけではない。タルコフスキーの映画は、「面白い」とか「面白くない」とかの規格では測れない。何かを感じ取れるかどうかだろう。事実、途中で何度も睡魔に襲われながらも、自分は『ノスタルジア』から「何か」を感じ取った…気がする。「何か」とは何か。それは分からない。映像美、と言ってしまえば簡単だが、そんな陳腐な言葉で片づけたくない。恐らく、自分はタルコフスキーの映画の良さを1割も理解していないと思う。「理解などしなくてよい。ただ感じればよい」と開き直れる数少ない映画の典型がタルコフスキーのように思う。

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101回目「岩松了戯曲集」(little more)

劇作家岩松了の初期の戯曲集。

読書の醍醐味の一つに「行間を読む」というのがある。行間とは文章と文章の間にある空白の事である。要するに、何も書かれていない白紙の部分である。それを読むというのは、書かれていないものを勝手に想像して読むという事であり、読者の想像力に委ねられる。小説と戯曲を比べた場合、「行間を読む」ことの比重は圧倒的に戯曲の方が多いのではないだろうか。戯曲は作者による地の文がない。台詞とト書きの連なりによって構成されているため、まさしく行間を読み解くことが重要になる。乱暴に言ってしまえば、戯曲を理解するということは、行間を読み解くことと同義である。そして、これは中々難しい。古今東西の全ての戯曲に於いて難しいのであるが、岩松了の戯曲は、より一層難しい。登場人物が実際に発する台詞と、登場人物の内面が一致しないからだ。「楽しい」と言う人物が、内面では悲しんでいたりする。小説の場合、「○○は楽しそうに笑ったが、内面では悲しんでいた」と書ける。しかし、戯曲はそうはいかない。そんな台詞を書いてしまうと、ただの回りくどい説明台詞になってしまう。岩松了の戯曲は、この手の言行不一致がとても多い。だから、読んでいて難しく、行間を読み解く作業が楽しい。

収録されている作品の中では『お茶と説教』というのが一番面白かった。

不動産屋のロビーを舞台に、色々な人間が下らない会話をダラダラと交わしているだけの戯曲だ。しかし、その「下らなさ」の引き出しが、すこぶる多い。ありとあらゆる手を使って、「下らなさ」を表現してくれる。並外れた人間観察力がないと、こんな戯曲は書けない。

 

100回目「キリング・ミー・ソフトリー」(チェン・カイコー監督)

取り敢えず、ヘザー・グラハム演じるヒロインの行動がアホ過ぎて…。ムカつく。

ムカつきたい時に観るといいかもしれない。

キリングミーソフトリー、タイトルの語呂は良くて、つい口ずさんでみたくなる。

それくらいしか書くことないなぁ。

 

 

 

 

99回目「音楽」(三島由紀夫:新潮文庫)

解説で澁澤龍彦が書いているように、『音楽』は三島由紀夫の作品群の中では主流ではない。マイナーな作品である。しかし、個人的には『仮面の告白』や『金閣寺』のような代表作より、この『音楽』の方が好きなのだ。理由は、他の三島作品を読んだ時に感じるゴリゴリのマッチョな感じが無く、都会的に洗練されていて、文章が抵抗無く入ってくるからだ。近親相姦というショッキングなテーマを扱っているけれど、ドロドロした感じはない。心療内科の分析室という清潔で雑音の少ない場所で、殆どの話が進行するのが理由かもしれない。ブライアン・イーノの音楽でも流れていそうな…。

精神分析医の男性が、不感症の女性を治療する話。自由連想法に始まり、フロイトとか実存主義哲学なども出てくるが、物語自体はオーソドックスな形式を踏まえている。「女の不感症を治す」という最終目的があり、その目的達成の為に、分析という手段を用いるが、女の嘘やトラウマ、医者と患者の心理の駆け引き、第三者の妨害といった目的達成を阻むための「障害」が随所に設置されており、「兄との対峙」というクライマックスというべきシーンの後、エピローグで余韻も残す。万全な構えの物語小説だ。人間の「性」「精神」という複雑に入り組んだ荒野に迷い込み翻弄される精神科医は、冒険譚の主人公のようだった。

 

精神分析にちなんで、個人的な話をもう少しすると、自分は心理テストがどうも苦手である。あるいは、就職試験などで出されるSPIも苦手である。もっといえば、視力検査も苦手なのである。

ああいうのは、「極力考えずに思い浮かんだもの」を直感で選択するように言われる。自分は、それができない。「こっちを選んだら悪い結果が出そうだから、別の方を選ぼう」と、考えてしまうからである。或いは、出題者の意図を勘ぐってしまう。心理テストやSPIが自分のような捻くれた人間が受けることも想定しているとはどうしても思えないし、その信憑性に甚だ疑問があるのだ。

視力検査の場合は、少し事情が違って、自分は右目の方が左目より視力が良い。だから、右目を測った後に左目を測ると、実際は「見えない」のに右目で見た時に答えが分かっているため、「分かりません」と答える事になんとなく罪悪感があり、結果、左目では見えないのに右目で見えていたときの答えを思い出して「上」なんて言ってしまい、毎回、度の合っていないコンタクトレンズを購入してしまう始末なのだが、最近の視力検査は、もう少しハイテクになっており、そんな自分の嘘も通用しないようにできている。

 

98回目「ロフト」(エリク・ヴァン・ローイ監督)

ググってみたら、日韓合作の同名の映画があった。シンプルな題名なので被る事もあるだろう。今回は日韓の方ではなく、ベルギー映画である。思えば、ベルギーの映画を観るのは初めてかもしれない。

ロフトとは日本語で「中二階」という意味である(厳密には違うらしいが、一般的に中二階のある物件を「ロフト付き」と言いませんかね?)。内容的には「中二階」というより「事故物件」の方がしっくりくる。そんなことはさておき。

男友達5人(全員、いい年齢のおっさん&既婚者。内一人は初老)が高層マンションの一室を共用で借りており、その部屋で浮気相手、愛人、娼婦などと密会している。要は「ヤリ部屋」として利用している。ある日、5人の中の1人が部屋を訪れると、ベッドに手錠で繋がれた血まみれの女の死体が横たわっていた。女を殺害した犯人は5人の内の誰なのか。5人の男は互いに疑心暗鬼になり…。という内容。

スタイリッシュな映像が格好良く、話の展開もスピーディーでテンポが良いけど、何か物足りなさを感じた。こういう映画には、どうしても「どんでん返しのどんでん返しのさらにどんでん返し」を期待してしまう。『ロフト』は一回目の「どんでん返し」で終ってしまった印象。まぁ、勝手にハードル上げて勝手に物足りなさを感じるのは、全て自分の責任である。

この映画の5人の男は皆、最低な奴等である。そんな最低な奴等だが、一か所に集まれば最低な奴等の中でも、その「最低度合い」にグラデーションが発生するのが面白い。クズの中でも幾分プラトニックで紳士的な奴もいれば、ドラッグ使って強姦するような正真正銘の鬼畜もいる。しかし、こいつらは皆、妻子がいるのにも関わらず「ヤリ部屋」を共有しているという共通項があるのである。だから、比較的穏健で理知的に見える奴がマトモな事を言っても、どこか滑稽で「いやいや、お前変態やん」と突っ込みたくなる。逆に、粗野で暴力的な奴でも「妹に対する愛情は本物」という一面も持ち合わせており、「クズだけど、そういう部分もあるんだ」と思わせられる。因みに彼ら5人が集まった時にする会話は殆どが悪趣味な猥談。まあ、それが悪いとは思わないが、いい大人なのだから、もう少し別の話題もあるだろうとも思う。自分の勝手な偏見だが、この映画に出てくるような男性(40代くらいの、そこそこ地位のある小金持ちの男)が集まってする会話は、下ネタ・猥談・女関係の類は意外と少なく2割くらい、ゴルフと車の話が5割、残りの3割が仕事と投資の話というイメージがある。なんの根拠もない偏見ですが。そういう訳で、5人の男の人物像には、あまりリアリティを感じなかった。

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97回目「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ:ハヤカワepi文庫)

ちびまる子ちゃん』のクラスに藤木という男子がいる。藤木は他のクラスメート達から卑怯者のレッテルを貼られている。なぜ藤木は卑怯者になったのか。詳細は覚えていないが、最初の方のエピソードで藤木が卑怯者になるきっかけがあったように思う。それ以降、まる子のクラスで何か事件があれば最初に藤木が疑われる。全くの冤罪で疑われる場合も多々あり、その度に弁明するのであるが、弁明すること自体が自己保身的と見なされ、「やっぱり藤木は卑怯者」と言われる始末である。気の毒な奴ではあるが、彼はクラスの中での自分の立場をよく弁えている。彼の言動は常に「自分は卑怯者」という原理に則っている。「卑怯者」というキャラに自ら進んで寄せている節もある。或いは、「卑怯者」というキャラ設定によって、クラス内における自分の地位を確立しているともいえる。だから他の者は安心して藤木に「卑怯者」と言えるのである。藤木の友達で、藤木と同じく陰気な性格の永沢という奴もいるが、彼はクラスの中で「卑怯者」とは見なされていない。一つ一つのエピソードをつぶさに見ていくと、藤木より永沢の方が卑怯ではないか?と思う事もしばしばあるが、そこは誰も全然突っ込まない。永沢に対して「卑怯者」と言うと、おかしな空気になるからだ。だから、永沢の悪事は「卑怯者」とは別の言葉で非難される。永沢と藤木が同じような悪事を働いても一方は「卑怯者」になり、もう一方はそうはならない。「卑怯者」と言ってよい人間と言ってはいけない人間の区分が、クラス全体に共有されているのだ。それは明言化されている訳ではなく、あくまで「暗黙の了解」である。暗黙の了解を破ることは、まる子のクラスではタブーなのである。とかく、子供の社会は、大人の社会以上に人間関係が難しい。「んな、大袈裟な」と言われそうだが、『ちびまる子ちゃん』は、子供の人間関係の難しさを巧く描いた秀逸な漫画だと思っている。

何故、ノーベル賞作家であるカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』で、『ちびまる子ちゃん』のことをダラダラ書いているかというと、実はこの二作、けっこう似ていると思うからだ。同じ施設(この施設がどういう施設なのかはかなり重要)で生活する3人の男女(キャシー、ルース、トミー)のやりとりは、誠に『ちびまる子ちゃん』的なのであるが、多分、分かってくれる人は少ないだろうなぁ、とは思う。やりとりというよりは、一種の駆け引きに近い。『わたしを離さないで』では、『ちびまる子ちゃん』で描かれる子供社会の人間関係が、より一層踏み込んで書かれている。『ちびまる子ちゃん』では、それぞれの登場人物が与えられた自身の性格を忠実に守り、かつ、誰も他の人物のキャラを逸脱させない、というルールが遵守されている。藤木は卑怯者であり、前田さんは傍若無人であり、たまちゃんは良識であり、山田はアホなのだ。時折、藤木が卑怯者でなくなったり、前田さんが良い奴になったり、たまちゃんが非常識な振る舞いをしたりもするが、それには必ず「話の都合上」というエクスキューズがあり、物語全体に於いて、概ね「お約束」は守られる。

一方、『わたしを離さないで』はもう少し込み入った事情がある。『わたしを離さないで』にも、登場人物の性格というものは存在するし、その性格に則った言動をとるのは『ちびまる子ちゃん』と同様だが、『わたしを離さないで』では、人物が自らに課せられた性格を破ることによって、或いは、他人が故意にその人物に課せられた性格を侵すことによって人間関係が微妙に変化していく様子が丹念に描かれている。段々、何を言っているのか分からなくなってきた。

例えば、手に入れた品物を自慢する人がいる。自慢された人は「ああ、またこいつ自慢話してるよ」と心の中で思うが、実際には口にしない。口にした瞬間に二人の間の何かが終わることを、自慢する者も、自慢される者も熟知しているからだ。「自慢しても、自慢したことを非難されないというお約束が機能しているから自慢する者は安心して自慢できる」という前提の元で自慢をするのだが、『わたしを離さないで』は、この「お約束」が多々、破られる。破られてしまえば、そこで関係は終わってしまうはずなのだが、『わたしを離さないで』は「お約束」が破られてしまった後、さらに「破られたお約束」という状況を利用して関係の修復を計ろうとしたり、「お約束が破られるというお約束」という新たな「お約束」が生まれて、そこからまた、二人の関係が発展したりするのだが、本当に自分で何を言っているのか分からなくなってきた。

こんな事をダラダラ書いても仕方がない。要するに、我々が現実の社会で常々実践している人間関係の駆け引きを、その心理の変遷を微細かつ執拗に描いているのである。要するに、日常を描いた小説なのである。

で、そんな日常を描きながら、小説の設定はとても特異な設定であるところに、悲しさがある。登場人物たちは、臓器を提供するために子供の時から施設で共同生活をしている、というショッキングな事実が、早い段階で明らかになるが、ラストはさらにショッキングな事実が判明する。

因みに、この小説はウィキペディアに紹介されているが、ウィキペディアに掲載されている粗筋は酷い。書いてはいけない部分まで書かれていて、営業妨害だと思う。