松本雄貴のブログ

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101回目「岩松了戯曲集」(little more)

劇作家岩松了の初期の戯曲集。

読書の醍醐味の一つに「行間を読む」というのがある。行間とは文章と文章の間にある空白の事である。要するに、何も書かれていない白紙の部分である。それを読むというのは、書かれていないものを勝手に想像して読むという事であり、読者の想像力に委ねられる。小説と戯曲を比べた場合、「行間を読む」ことの比重は圧倒的に戯曲の方が多いのではないだろうか。戯曲は作者による地の文がない。台詞とト書きの連なりによって構成されているため、まさしく行間を読み解くことが重要になる。乱暴に言ってしまえば、戯曲を理解するということは、行間を読み解くことと同義である。そして、これは中々難しい。古今東西の全ての戯曲に於いて難しいのであるが、岩松了の戯曲は、より一層難しい。登場人物が実際に発する台詞と、登場人物の内面が一致しないからだ。「楽しい」と言う人物が、内面では悲しんでいたりする。小説の場合、「○○は楽しそうに笑ったが、内面では悲しんでいた」と書ける。しかし、戯曲はそうはいかない。そんな台詞を書いてしまうと、ただの回りくどい説明台詞になってしまう。岩松了の戯曲は、この手の言行不一致がとても多い。だから、読んでいて難しく、行間を読み解く作業が楽しい。

収録されている作品の中では『お茶と説教』というのが一番面白かった。

不動産屋のロビーを舞台に、色々な人間が下らない会話をダラダラと交わしているだけの戯曲だ。しかし、その「下らなさ」の引き出しが、すこぶる多い。ありとあらゆる手を使って、「下らなさ」を表現してくれる。並外れた人間観察力がないと、こんな戯曲は書けない。