日々の読書日記

読書の忘備録です

26回目「4ヶ月、3週と2日」(クリスティアン・ムンジウ監督)

意味深なタイトルに引かれてDVDで観た。数年前にパルムドールを受賞したルーマニアの映画という情報以外は、なんの予備知識もなかった。タイトルから、4か月後に地球が滅亡するのに立ち向かう人類の話かな、などと馬鹿な連想をしたのだが、全然違う映画だった。

 「チャウシェスク大統領による独裁政権ルーマニアを舞台に、妊娠をしたルームメイトの違法中絶を手助けするヒロインの一日を描いた作品」

 

 ウィキペディアには、上記のような粗筋が紹介されている。確かに、そういう映画である。しかし、どんな名作と呼ばれている映画でも、粗筋を一言で説明すると味気なくなる。ストーリーだけで映画を語るなんて野暮ではないだろうか。『4ヶ月、3週と2日』は、ストーリーだけ知りたければウィキペディアの説明だけで足りるシンプルな映画だ。決して、難解な映画ではない。しかし、シンプルなストーリーの裏に、一筋縄ではいかない凄みを感じさせる映画だ。

 学校の寮と思われる一室で二人の女性が会話している場面から始まる。予備知識の全くない状態で観ていた為、会話の内容がなかなか掴み取れない。この場面で交わされた他愛のない会話が、今後の展開でどのように関連してくるのか、観ている段階では分からない。分からないのだが、なにか不穏なものを感じる。やがて、二人の女性のうちの一人、オティリアと名乗る女性が、寮を出発し彼氏がいる学校に行く。そこで交わされるオティリアと彼氏の会話も、彼氏の母親の誕生パーティーに来るかどうかという、いわば《普通の会話》なのだが、冒頭の会話と同じく、今後の展開への関連性が不明であり、尚且つ不穏である。

そして、彼氏と別れたオティリアが、次はどういうわけか寂れたホテルに行くのだが、ここでもホテルのフロントスタッフと「予約があるかないか」という《普通の会話》がなされる。同じく関連性は不明であり、内容も不穏なものだ。さらに、「なぜホテルに来たのか」という新たな謎まで加わる。冒頭からここまで、目的が明かされず、事実のみを淡々と提示しているのだ。

やがて、違法中絶を生業とする男(ベベと名乗る)と、オティリアが出会い、さらに冒頭に出てきたもう一人の女性(ガビツァと名乗る)も再度登場し、この三人がホテルの一室に集まった時にはじめて、オティリアがホテルを探していた理由が判明する。この部屋で、妊娠したガビツァの中絶手術をするのが目的だったのだ。

 

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ホテルの一室で3人集まるシーン

しかし、これ以降も肝心なことは殆ど語られないまま、淡々と映画が進む。例えば、何故ガビツァが妊娠したのか、その経緯や相手の男の事などは何も語られない。何故、単にルームメイトに過ぎないオティリアが、リスクや危険を冒してまでガビツァに協力するのかも分からない。映画を観てもらえれば分かるが、オティリアのガビツァに対する献身的な行動は、明らかに友情の域を超えている。「仲の良い友達のため」などという生易しいものではなく、もっと凄まじいものを感じる。しかし、二人の女性の関係を掘り下るようなことはせず、二人が「ルームメイトである」という事実以外は何も語られない。

この徹底した不親切さが、とても良い。不親切なのは、粗筋だけではない。中絶がテーマになっている映画だが、その是非を声高に問いかけるようなことはしない。中絶に限らず、社会的な問題をテーマにした映画は、とかく声高になりがちだが、この映画は、情緒をできる限り省いている。二人の女性をはじめ、登場人物たちは一応、怒ったり悲しんだり笑ったりもするのだが、どこか感情が抑制されている。音楽もエンディング以外では一切流れない。そんな分かりやすい観客へのサービスは、はなから放棄しているようにすら感じる。大仰な演技や派手な演出に依ることなく、「中絶」というものに関わることになった人達の感情を、ぎりぎりまで抑制しながらも、とても繊細に表現している。

また、映像も全体的にくすんでいる。オティリアたちが滞在するホテルは、常に電球が切れかけているし、フロントのスタッフも、ものすごく不愛想だ。彼氏の母親の誕生パーティーの場面も、一見、ガヤガヤと盛り上がって楽しんでいるように見えるが、内容も含めどこか空虚さを感じる。ハリウッド映画のパーティーのシーンみたいな華やかさは、全くない。控え目というよりは、どこか荒んだ印象がある。

時折映る外の景色は、映画全体の暗さ・重さを象徴しているかのように、どんよりと曇っている。この曇天が、途轍もなく鬱々とした雰囲気を出している。それは、映画だけでなく、当時のルーマニアという国全体の閉塞感をも象徴している気がする。当時のルーマニアの人々が抱えていた、どうにもならない貧困と、そこからくる不満、疲労感、徒労感、諦念、そういったものが、「中絶」というテーマにカモフラージュされているが、凝縮されている気がした。

つまり、とても暗くて、重くて、気分が沈み、尚且つ、不親切な映画なのだけど、それだけに見入ってします稀有な映画だった。

以上。

4ヶ月、3週と2日 デラックス版 [DVD]

 

 

25回目「アウターゾーン」「アウターゾーン リ:ビジテッド」(光原伸 集英社コミックス)

自分が小学生の頃の少年ジャンプは黄金期であった。「ドラゴンボール」「幽遊白書」「スラムダンク」の三本柱を筆頭に、多彩な漫画が連載されていた。当時は、大人たちの間でも少年ジャンプが流行っていたらしく、父親は毎週月曜日にジャンプを買って家に帰って来た。父親が読み終わった後に、自分も読んだ。当時の多くの小学生男子と同じく、自分も「ドラゴンボール」が大好きであったし、翌日のクラスの話題は「ドラゴンボール」で持ち切りだったように思う。だから、毎週月曜日は父親が仕事から帰ってくるのが待ち遠しかった。「早く読みたい」とワクワクしていた。
しかし、実は、自分の本当の楽しみは「ドラゴンボール」ではなく「アウターゾーン」であった。いや、正確には、堂々と楽しみにしていたのが「ドラゴンボール」であり、密かな楽しみにしていたのが「アウターゾーン」であった。つまり小学生男子にとって「アウターゾーン」は堂々と楽しみにすることに、少し罪悪感や後ろめたさがある漫画だった。友達に「アウターゾーンが好き」と公言するのは、少し憚られたのだ。
自分と同じような感覚を持っていた人が多数いたのかは定かではないが、「アウターゾーン」は実際の人気に比べて、かなり過小評価されていたように感じる。毎週、最後のページに掲載されていた。
アウターゾーン」は殆どが一話完結のオムニバス形式で、内容はホラー系の話が中心だが、SFやサスペンスなどもあり、多岐にわたる。少年誌には似つかわしくないダークな話、グロテスクな描写もある(そこも魅力の一つなのだが)。派手なバトルや壮大なアドベンチャーが主流であった少年ジャンプの中では、確かに地味で異色な漫画だった。
この度、なんとなくネットサーフィンをしていると、なんと「アウターゾーン」が復活していることを知った。といっても、復活版も数年前に終わったのだが、自分にとっては嬉しい発見であった。早速、LINEマンガというアプリで当時の「アウターゾーン」と復活版の「アウターゾーン リ:ビジテッド」を購入して読んだ。
改めて、面白いと思った。
というか、これだけクオリティの高い話を、毎週考えて書いていたことに感服する。そして、やはり「アウターゾーン」及び「アウターゾーン リ:ビジテッド」の最大の魅力はミザリィというキャラだろう。ミザリィというのは、冒頭にストーリーテラーとして登場する妖艶でミステリアスな女性だ。「古畑任三郎」に於ける田村正和の冒頭の挨拶や「世にも奇妙な物語」のタモリと立ち位置は一緒だ。そしてミザリィは冒頭だけではなく、ラストの締めくくりにも出てくるし、物語の中で怪しげな商品を販売するアンティークショップの店員としても登場するし、アンティークショップ以外にもガソリンスタンド、ナース、メイド、占い師、人工知能など様々な職業・立場になって登場する。ミザリィ自体が物語の根幹に大きく絡む話もある。さらに「リ;ビジテッド」では、中学生になったミザリィやロリータになったミザリィなども出てくる。まさに変幻自在で神出鬼没のキャラだ。そして、ミザリィは「アウターゾーン」の中では《神》のような存在だ。誰もミザリィには逆らえない。どんな怪力を持った暴漢でも、ミザリィには負ける。過去にも行けるし、未来にも行ける。瞬間移動もできる。時間も空間も超越した存在だ。普通、この手のキャラクターを多用すると「ご都合主義だ」という批判が出そうだが、「アウターゾーン」の場合は、逆にこの強引さとご都合主義が大きな魅力になっているので不思議だ。ミザリィだからこそ漫画の中で何をやっても許される。ミザリィには、読者にそう思わせる力がある。それは、そんなキャラクターを創った作者の力だ。
また、ホラーが主なので凄惨なシーンや残酷なシーンも沢山あるのだが、根底にはヒューマニズム流れているので、下品にも露悪的にもなりすぎず、好感が持てる。悪い人間は相応の報いを受け、良い人間は救われる。それも全てミザリィの手によるものだ。ミザリィ及び作者に良識があるが故だ。
以上、とても好きな漫画のレビューでした。

 

 

24回目「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」(ウディ・アレン監督)

アーティスト名と曲名は伏せるが、最近よく耳にする歌がある。恋愛ソングで、甘いというより幼い声が特徴の男性ボーカルの歌だ。至る所で流れている。知人に確認したら、実際に今、すごく売れているらしい。特に、若い人たちの間で大人気らしい。

・・・全く理解できない。歌詞が猛烈に嫌だ。内容も陳腐だし、表現方法もダラダラと文章を垂れ流しているだけで、詞とは言い難い。一体、あの歌詞のどこにダンディズムがあるというのだ。ファンの方には申し訳ないが、このテの歌には不快感しかない。至る所で流れているので、嫌でも耳にしてしまう。そして、その度に「なんじゃ、この曲は!」とムカついているのだ。最近では、わざわざムカつきたいが為に敢えて聴く時もあるくらいだ。

ウディ・アレンの「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」も最初の30分程、このテの恋愛ソングを聞いた時の感触と同じものを感じた。雨のニューヨークを舞台にした、大学生カップルの恋愛映画だ。彼女は大学で新聞記者のようなことをしている。ひょんなことから、ある巨匠の映画監督のインタビューをすることになり、彼氏と一緒にニューヨークに行くことになる。彼氏は、好きな彼女とニューヨークを旅行できるとウハウハだけど、件の監督のインタビューが長引いてしまい、結局はニューヨークで離ればなれになってしまう。そうして離ればなれになった先で、彼氏には彼氏の、彼女には彼女の、それぞれの物語が進行していく、というお話。この設定だけで、30歳を超えたおっさんが観るにはなかなか辛いものがある。元カノの妹がどうしたとか、キスが何点だとか、そんな事を言われても、背中がむず痒い。そんな訳で、最初の30分ほどはずっと苦痛な時間を過ごしたのだが、後半のあるシーンで映画のテイストが180度変わるのだ。このシーンが無ければ、上記のようなJ-POPの歌詞に似た恥ずかしさだけが残る映画にしかならなかった。このシーンと、そこで交わされる母親のセリフを聞くだけでも映画を観る価値はあるのではないだろうか。それくらい、狂気を帯びたセリフだと個人的には思った。
そして、最後に取って付けたような感想で申し訳ないが、ラストの主人公の男の子の表情がとても良かった。雨が、いい味を出していた。
以上。

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レイニーデイ・イン・ニューヨーク

23回目「ペイン・アンド・グローリー」(ペドロ・アルモドバル監督)

 ペドロ・アルモドバルの映画は脚本がとても込み入っている。だから、集中して観ないと話が分からなくなり、置いてきぼりを喰らってしまう。しかし、過去にアルモドバルの映画を観て集中力が切れた事はない。スペイン人特有の情熱を反映しているのか、映像がとてもポップで鮮やかだ。極彩色の映像に、アルモドバルお得意の変態チックなテーマが合わさって観客の脳を刺激するので、嫌でも見入ってしまう。
そして、最後まで観た後に作り込まれた脚本に唸らされる。『ジュリエッタ』『ボルベール《帰郷》』『私が、生きる肌』の3作が好きだ。『トーク・トゥ・ハー』も、脚本がとてもよくできていて感心するが、あまり好きではない。『バッド・エデュケーション』も同じくあまり好きではない。『オール・アバウト・マイ・マザー』は、恐らくアルモドバル映画の中では一番多くの人に評価されている映画だと思うが、自分はよく分からなかった。よく分からないというのは、『オール・アバウト・マイ・マザー』のみ、途中で集中力が切れて、冒頭に書いたように置いてきぼりを喰らってしまったのだ。ちょうど、体調不良と睡眠不足が重なった時期だったので、仕方がない。そんなわけで『オール・アバウト・マイ・マザー』は正当に評価できない。映画評論家のおすぎさんも絶賛しているので、機会があれば再見しよう。
トーク・トゥ・ハー』と『バッド・エデュケーション』が何故あまり好きではないのかというと、生理的に気持ちが悪いからだ。アルモドバルの映画は、殆ど生理的に気持ち悪いのだけど、この二つは特に気持ちが悪かった。他は、生理的な気持ち悪さが逆に世界観にマッチしていて面白かった。
 あと、『抱擁のかけら』もあまり好きではない。これは生理的な気持ち悪さはないが、主人公の言動に共感できなかった。自分勝手すぎるだろうと思ったのだ。不倫の映画で、不倫される映画プロデューサーが悪いおっさんのように描かれているけど「彼はむしろ被害者だろう」と、ずっと思っていたのだった。ただ、『抱擁のかけら』も相変わらず脚本がよくできていた。
 以上がアルモドバル映画に対する自分の個人的な感想である。で、けっこう期待した状態で新作の『ペイン・アンド・グローリー』を観た。初老の映画監督が過去を回想する。現代の話と過去の子供時代の回想を行ったり来たりする映画だ。集中が切れると途端に分からなくなってしまうような脚本と、毒々しいさ・下品さ・鮮やかさが渾然一体となった映像がアルモドバル映画の持ち味であり、自分がアルモドバル映画を生理的な好悪を超えて観たいと思う一番の理由だ。そういう観点から言えば『ペイン・アンド・グローリー』は少し裏切られた。現代の幾つかのエピソードと子供時代の幾つかのエピソードが、単体で投げだされるだけで、一つ一つのエピソードには関連性がなかった。他のアルモドバル映画では、関係ないと思っていたエピソードが実はどこかで繋がっていたりして舌を巻いたのだが『ペイン・アンド・グローリー』にはそれがなかった。いや、あったのかもしれないが希薄だった。スマホを介してアフタートークのインタビューに応えるシーンだけは面白かった。
 あと、印象に残ったシーンがある。少し前のこのブログで、三島由紀夫『仮面の告白』を取り上げたのだが、その中で「三島とアルモドバルは似ている」といったような事を書いた。『ペイン・アンド・グローリー』では、まさに「これは仮面の告白ではないか!」と思えるシーンがあったのだ。分かってくれる人、いるかな?
以上

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ペイン・アンド・グローリー

22回目「高瀬舟」(森鴎外:集英社文庫)

『じいさんばあさん』『高瀬舟』『山椒大夫』『寒山拾得』『最後の一句』『堺事件』『阿部一族』の7つの短編が収録されている。そして『高瀬舟』と『寒山拾得』には森鴎外自身による解説が付いている。さらに巻末の解説(川村湊林望)も読み応えがあり、鴎外の年譜まで収録されている。これで340円(税別)はかなりお得だ。
 収録されている7作の中では、『寒山拾得』だけが他の作品とは少し毛色が違う。まず『寒山拾得』だけが死ぬ人がいない。他の6作品は沢山の死が存在する。『寒山拾得』だけが極めて平和なお話だ。下らない話だった。下らない話というのは、面白い。昔の中国の官僚のおっさんが、高名らしい僧侶に会いに行くだけの話なのだが、この官僚のおっさんの通俗的な性格が面白かったのだ。大正5年に書かれた小説なので、多少の文章の読みにくさはあるが、慣れればどうってことない。下らない小説なので読み終わった後、特に何も残らないのだが、それが逆に清々しかった。とは言っても、人間には「道」に対する態度が三種あるというくだりは、少し残っている。下らないトーンで書かれているので油断していると、急に人生の真理が説かれて襟を正される。『寒山拾得』はそん小説だった。
『じいさんばあさん』もどうってことない話なのだが、編集が上手い。無駄がない。短編小説のお手本のような小説だ。現在の情景の後に過去の出来事を書いて最後に現在に戻る。映像的でスピード感のある小説だった。とても巧いのだが、全体の中では印象が薄い作品だ。「巧いなぁ」という感想以外には特になにもない。
高瀬舟』は小学校だか中学校だかの国語の教科書に載っていた。当時の小学生だか中学生だかの自分は、『高瀬舟』の主題を理解していたのだろうか。いわゆる安楽死の是非をテーマにした小説だが、テーマの重さと情景の静けさが重なってシンミリとした気分になった。夜の高瀬川を下る高瀬舟の情景描写の上手さに舌を巻く。中盤に庄兵衛が人間の煩悩について考える場面に、鴎外の人間とか人生に対する諦念のようなものが滲み出ているように思え、感慨深かった。
山椒大夫』はいわゆる人身売買の話である。昔は、こういう事が頻繁に起こっていたのだろうか。人身売買というと、なんだか凄惨なイメージを持ってしまうが、『山椒大夫』に於いては昔話的にデフォルメされているので、人身売買という語感からイメージするような生々しい感じはない。母親と二人の姉弟と老女中の4人が、父親に逢うために旅をしていたところへ、人さらいに誘拐され、二人の姉弟は母親と離れ離れになってしまう。『山椒大夫』とは、姉弟を買った人物の名前だ。二人は山椒大夫の家で奉公させられる。やがて弟が山椒大夫の屋敷から脱走し、姉は自害する。可哀想な話ではあるが、それよりも二人の子供の気丈さが素晴らしい。アホみたいな感想で申し訳ないが、読んでいる間中、ずっと二人の姉弟を応援していた。
最後の一句』は、この中で一番好きな作品かもしれない。『山椒大夫』と同様、とても気丈な子供たちが出てくる。一番好きな作品だが、子供たちが持っている「死」の概念が、現代と比べてものすごくかけ離れている。この時代では、この子供たちのような考えがわりと普通なのかは不明だが、度が過ぎる親孝行に狂気を感じたのだ。
『堺事件』『阿部一族』も忠義の為に自分の命を顧みない、正に武士道を生きる人たちが沢山出てくる。どこか精神的に軟弱で未熟になっている現代人が読むと、単純に尊敬する。どちらも面白いのだが、命を捧げるのは殆どが成人した男だ。だから『堺事件』『阿部一族』よりも、『最後の一句』の方が、年端もいかない女の子が、親の為に死のうとする分、狂気の熱量を感じるのだ。
 あと『阿部一族』は、『阿部一族』が登場するまでが長い。前半部分も面白いのだが蛇足だ。前半は前半で別の小説にしてくれた方がよかった。森鴎外にそんな注文をしても仕方がないが。
以上。

21回目「デッド・ドント・ダイ」(ジム・ジャームッシュ監督)

ジム・ジャームッシュの映画は、どれもお洒落だ。セリフにユーモアがある。なにげないカットにもセンスを感じる。「ジム・ジャームッシュの映画が好き」と言うと、なんとなく映画通を気取ることができる。「センスがある人」と思われたいなら、好きな映画を聞かれた時には取りあえず『コーヒー&シガレッツ』くらい言っとけばよいだろう。ただ、どの映画もだいたい退屈だ。『デッドマン』とか『リミッツ・オブ・コントロール』など特に退屈だ。退屈なのだけど、お洒落でセンスがあるので結局最後まで観てしまう。自分のジャームッシュ映画に対する評価は、概ねそんな感じである。そんなに好きではないけれど、ちょっと気になる監督である。
で、今回も新作の『デッド・ドント・ダイ』を映画館で観たのだ。
普段、ジャームッシュの映画に感じる退屈さがこの映画には感じなかった。だいたい、ゾンビがうようよ街中を徘徊するような映画だから、退屈を感じる方が無理なのかもしれない。そして、お洒落な感じも相変わらず健在だった。ゾンビ映画なのでかなりグロテスクなシーンもあったが、グロの中にもクールさがあった。死体から切り取った生首をアダム・ドライバー扮する警察官が片手に持ちながら飄々と話す場面も、グロさや怖さよりもシュールな笑いの方が勝っていた。スプラッター的なグロさが苦手な人でも、意外と平気だろうと思う。
ジャームッシュの映画全般にあった退屈さが無くなり、お洒落感とユーモアはそのままの映画だ。ゾンビが街中を徘徊するという設定の特殊さが、ジャームッシュ持ち前のセンスに溶け合って、今までにないお洒落な感じになっている。映画ファンが嬉しがるような少しマニアックなネタも挿入されている。タランティーノがよくやるようなやつだ。
ここまで書くと、退屈でもなく、そこまでグロくもなく、センスもあり、ユーモアもあり、お洒落でもあり、映画好きのためのちょっとしたファンサービスもあり、ジャームッシュの最高傑作のように思われるかもしれないが、全く逆だ。
自分は全くこの映画を評価できなかった。自分が観たジャームッシュ映画の中ではワーストだ。先に設定が特殊だと書いた。すなわち「多数のゾンビが甦り街中を徘徊する。そのゾンビと警察が対決する」という設定が特殊なのだが、それは別にいい。設定がどれだけ荒唐無稽でも、その設定された世界の中で嘘が無ければ、観客は引き付けられる。言い換えれば、大きな嘘を付く時ほど、細部にはリアリティが必要なのだ。嘘を本当のように見せるために、話の根幹となる設定以外は、徹底的にリアリティを追求しないといけない。そして大嘘は一つだけで充分だ。大きな嘘が2つ以上になると、映画の世界に引き込まれない。『デッド・ドント・ダイ』は、「ゾンビが街中を徘徊する」という一つの大嘘(設定)だけでよかったのに、ラスト近くにUFOまで出してきた。ゾンビだけで満足なのにUFOを出されると、胃もたれがする。しかも、ゾンビとUFOはジャンル的にも全く別物だ。フレンチのフルコースを食べている途中に、急に中華が来たようなものだ。そしてUFOを登場させた理由も、登場人物の一人を無理矢理退場させるために思いつきで出しただけのような気がした。
さらに、ネタバレになるが、登場人物が「これは映画である」と悟っているセリフ、いわゆるメタ台詞まである。メタ台詞は三か所ある。一つ目は冒頭近くで、二人の警官がパトカーを運転中にラジオを付けるとオープニングロールで流れた音楽と同じ音楽が流れる。一人の警官が「なんか聞き覚えがある」と言うともう一人の警官が「テーマ曲だからさ」みたいな事を言う。これが一つ目。
二つ目はラスト近く。同じように一人の警官がパトカーの中でもう一人の警官に「なぜお前は結末を知っているのだ」などと聞き、聞かれたもう一人の方が「台本を読んだからだ」みたいな事を言う。これが二つ目。
もう一つ、アドリブがどうのこうのと言っていたがあまり覚えていない。
これらのメタ台詞を聞いた時に、一気に映画を観る気持ちが冷めてしまった。面白くもないし、正直滑っているように思えたのだ。
要するに映画を成立させる道具はゾンビだけでよかったのに、UFOとメタ台詞を追加したところが、この映画を評価できない大きな理由である。ぶっ飛んだ表現をするには、普通以上に規律を守らないといけない。じゃないと、何でもありになってしまう。「なんでもあり」と「ぶっ飛んだ表現」は似て非なるものだ。セオリーを大きく逸脱していようと、中心には必ず軸が必要なのである。
色々、貶したけれど個人的に好きなシーンもあった。最初にゾンビに殺された二人の人間の死体を、3人の警官が順番に確認しに行くシーン。同じことを別の人間が3回繰り返すのだが、内蔵を食いちぎられた死体が横たわるショッキングな映像に、長閑なカントリー調の音楽が流れている。このシーンがとても良い。とてもシュールだ。そして、きっちり3回繰り返すのが、またとても良い。こういうところが、ジャームッシュのセンスの良さだなぁと改めて思った。
以上

20回目「仮面の告白」(三島由紀夫:新潮文庫)

三島由紀夫の「仮面の告白」は、高校生の頃に始めて読んだ。それ以降は読んでいないので、恐らく約20年ぶりの再読だ。内容は殆ど覚えていなかったが、「糞尿汲取人」という単語だけは鮮明に覚えていた。薄学な高校生にとって、三島由紀夫は難解であり読了することが苦痛であった。じつは「仮面の告白」以前に「盗賊」や「獣の戯れ」を読んでおり、こちらも殆ど覚えていないが難解であった。「金閣寺」は確か「仮面の告白」の次に読んだように思う。「金閣寺」を読む時間と労力があれば、太宰の「人間失格」で充分じゃないか、言わんとしている事は同じじゃないか、と、よく分かっているような、或いは、何も分かっていないような感想を抱いた。いずれにせよ、三島=難解という方程式が長らく自分の中で定着していた。だから、高校生で三島の小説に出会ってから20代の後半までは、全く三島文学には手を付けなかった。20代の後半、再び「潮騒」「音楽」「午後の曳行」「禁色」そして大長編の「豊饒の海」を頑張って読んだ。さすがに高校生の時よりも語彙が増えたのか、難解さはそれほど感じなかった。(「豊饒の海」の3巻目は、流石に難しかったが、内容は理解できた。一応…)
 どうも自分は三島由紀夫の文体が苦手だ。三島由紀夫の文体は、とても男性的で、文章の行間から多量の男性ホルモンが分泌している感じがする。脂ぎってギトギトしている。そう感じるのは別に「仮面の告白」の主人公が同性愛者だからではない。だから「同性愛」というテーマに関係なく、もっと根源的な部分で、三島の文体は男性的な感じがするのだ。そして、その男性的な感じが苦手なのだ。分かってもらえるだろうか?
例えば、異性間でも同性間でも性愛はもっと奥ゆかしく控え目に表現してほしいのだが、三島はかなり露骨だ。その露骨さが苦手なのだ。村上春樹の小説も露骨だが、三島の露骨さとは少し違う。村上春樹の場合は、表面的に露骨なだけで、じっさいは美男美女の綺麗なセックスしか描いていない。ナルシスティックな世界に全て収斂される。性愛における汚さも格好悪さもない。滑稽さから滲み出る人間の悲哀や苦悩が感じられない。だから、いくら「生の喪失感」みたいなことを気取りながら言われても「あっそう」としか思えない。つまり村上春樹の描写はリアリティのないファンタジーなのだ。その点、三島の露骨さにはリアリティがある。そのリアリティが転じて自分に男性的と感じさせるのかもしれない。露骨だから男性的というのも短絡的ではあるが。
「射精」や「勃起」をわざわざラテン語で言ったり、オナニーを「悪習」と表現したり、そういった衒学的表現が多い事も三島の文体が男性的に感じてしまう要因だ。衒学的な表現は身構えてしまう。身構えてしまうが、よく考えると内容は小学生レベルの下ネタだ。でも、三島の文体だと小学生が好むようなレベルの下ネタでも妙に生々しく、気持ち悪くなる。漫☆画太郎の漫画みたいに馬鹿々々し過ぎる方向に突き抜けてくれていれば笑えるのに、三島はいたって真面目だから、苦手だ。
 三島由紀夫の文体が、男性的で苦手だと自分が感じるのは、繰り返すが「仮面の告白」の主人公及び三島由紀夫自身が同性愛者だからという理由では断じてない。デヴィッド・ボウイも同性愛者だったらしいが(バイ・セクシャルだったかな?)彼の音楽には、自分は三島の文体のような男性性は感じない。どちらかといえば中性的な妖艶さ、セクシーさを感じる。要は、作り手の実際の性別と、その作品から感じとれる男性性・中性性・女性性は関係ないという事だ。ここまで書いて、ふと思い出した。個人的な印象でしかないが、三島の文体は、ペドロ・アルモドバルの映画に似ているように感じる。共感してくれる人、いるだろうか? アルモドバルの映画も、面白いのだけど、自分はちょっと苦手なのだ。「バッド・エデュケーション」とか見てもらえれば分かってくれると思う。
 長々と、自分は三島の文体が苦手だと書いてきたが、文体だけが小説を評価する指標ではない。「仮面の告白」は小説として面白い。「仮面の告白」の主人公がどこまで三島自身を投影しており、どこまでがフィクションなのかは分からないが、そんな事はどうでもいい。《自己告白の文学》としては一級品かもしれないが、どこまで本当の事を告白しているかは、作者の三島のみが知るところである。だから敢えて「仮面の告白」は三島の全くの創作であると仮定しながら読めば、余計な先入観が入って来ずにすむ。男でありながら女を愛せない主人公の心の葛藤、自分を偽ったり、偽ったことを正当化したり、戦争という大いなる破壊に憧憬したり、といった心理の機微が丹念に描かれていて、面白いのだ。以上。