松本雄貴のブログ

本。映画。演劇。旅。

82回目「ダウン・バイ・ロー」(ジム・ジャームシュッ監督)

先日、テレビで「日本人が好きな映画ベスト100」という番組を見た。その名の通り、日本人が好きな映画をランキング形式で順に紹介していく番組で、時折、パネラーが見た事のある映画についてコメントを挟む。番組には特に何の不満もないが、まあ予定調和な内容だった。予定調和というのは、別に悪い意味ではない。ランクインした映画はベタなものから、通好みのする少しマニアックなものまで幅広かった。とてもバランスが良く、色んな方面に気を遣った感じが出ていた。そのバランスの良さが予定調和な内容に繋がったのかもしれない。バランスは良いのだけれど、やはり、バランスの良さの中にも少しばかり偏りがあった気もする。しかし、それを批判するつもりはない。製作者も人間である。偏って当たり前だ。ゴールデンのバラエティー番組だ。見ていて肩のこらない気軽に消費できる番組でいいのだ。そもそも、映画に限らずランキング番組というのは、お手軽さが売りのはずである。それに対して批評するのも野暮なのだ。

それでもやはり、この手のお手軽なランキング番組が濫立するのは、少し危惧した方が良いような気もする。そもそも安易に物事の順位付けをするのは、傲慢であり且つ人間の知性に逆行する行為ではないだろうか。と、批判するつもりは無いと言いながら、批判じみたことを書いてしまった。

ともあれ、ランキングされた100本の映画の中に、ジム・ジャームッシュの映画は1本も入っていなかった。自分的には意外だった。例えば、ジブリ映画がランクインされるのは分かる。まあ、入るだろう。『タイタニック』や『ホームアローン』が入るのも、同じ理由で理解できる。ベタだから入るのである。ランキングでは、こういうベタな映画を押さえておく必要がある。一方、ベタなものばかりだと、先に述べたバランスが悪くなるので、マニアックな映画も入れる必要がある。『時計仕掛けのオレンジ』や『セブン』などが入っていたのは、その点を配慮した結果だと思う。だったら同じ理由でジム・ジャームッシュの映画も1本くらい入れればよかったのに、と思うのである。というのは、自分はジャームッシュの映画は「通好みの映画の中でベタ」な映画の筆頭だと思っているからだ。「好きな映画、何?」と聞かれた時にジャームッシュ映画のどれかを答えておけば、まあ無難である。分かりやすいエンタメ性とお洒落な芸術性を兼ね備えている。「ジャームッシュの映画が好き」と言っておけば、映画通に馬鹿にされる心配もないし、あまり映画を観ない人にも気軽に勧められる。「好きな映画」なんて人それぞれだし、それを答えた時に他人にどのように思われるかを考える事自体が、無意味で卑屈な事には違いないが、ジャームッシュ映画には、そういった性質があることも確かである。

ところで、「日本人が好きな映画ベスト100」の一位を飾ったのは『ショーシャンクの空に』だった。無実の罪で捕まった男が脱獄する話である。内容はジャームッシュの『ダウン・バイ・ロー』と同じである。『ショーシャンクの空に』は確か、中学生の時に観た記憶がある。それなりに感動したのを覚えている。それは、『ショーシャンクの空に』が中学生にも感動できるように撮られた映画だからだと思う。観客が感動するような工夫が脚本にも演出にも取り入れられた結果であろう。その工夫に素直に乗っかり中学生の自分は感動したのである。

ダウン・バイ・ロー』は、つい先日、映画館で観た。こちらも感動した。しかし、『ショーシャンクの空に』を見た時の感動とは、全く性質の異なる感動であった。『ダウン・バイ・ロー』は、そもそも観客を感動させようとして撮られた映画ではない。3人の男たちが脱獄するきっかけや、その方法は見事に省略されている。脱獄映画の醍醐味といってよい部分を大胆にカットしている。ストーリーも淡々と進むし、起伏や伏線があるわけでもない。しかし、交わされる台詞のユーモアと、一つ一つの画にセンスが光っており、「感動する映画」を見せられた時以上の感動を味わえる。強引に観客を感動させようという映画が蔓延っている中、ジャームシュッの映画は清々しくて瑞々しい。とても稀有な映画だった。

 

81回目「あらゆる場所に花束が‥‥‥」(中原昌也:新潮文庫)

冨樫義博の漫画を読んだ時と同じような感想を抱いた。話の展開のさせ方が天才的に巧く、読者の興味を引きたてるけど、結局、最後は投げやり気味で終わる所が何となく似ているのだ。『幽遊白書』の魔界トーナメントの話も、トーナメントに至るまでの過程がとても面白かった。そしてトーナメントが始まり、いよいよ本格的に話が膨らむと期待した瞬間に、あの終わり方である。あまりにも唐突で、明らかに「描くのが面倒臭いから終わらせた」感が満載のラストだった。あの終わり方は、多くの読者の怒りと失望を買ったと思うが、実は自分は、その突き放した感じも結構好きだった。「才能のある人間はこんな暴挙も許されるのだ」とでも言いたげな、ある種の傲慢さに少なからずの好感を抱いたのだった。現在、少年ジャンプで連載中(休載中)の『HUNTER×HUNTER』も、話をあれだけ壮大にし、伏線を張りまくり、大風呂敷を広げた挙句、収拾が付かなくなって作者自身が袋小路に追い詰められてしまった感じがする。しかし、キャラクターの魅力も含め物語を壮大にする才能は確固たるものだ。自分にとって『HUNTER×HUNTER』ほど、続きが気になる漫画はない。未だにいつ連載が再開されるのか分からない。再開しても、すぐにまた休載するから本当に作品が完結するのかハラハラする。漫画の内容もスリリングだから、二重にハラハラさせられる。ある意味、お得なのかもしれない…。

で、中原昌也の『あらゆる場所に花束が』である。何気ないシーンのどこを切り取っても、血と暴力の匂いが漂うところが富樫義博の漫画に似ているなと思ったのだけど、やはり、物語の伏線の貼り方と、張り巡らされた伏線が結局最後まで回収されずに唐突に終わるところが富樫漫画を彷彿させる。

小説の作り方が未熟だから話を纏められなかったのか、意図的にそのようしているのかは不明だ。不明なのだけど、断片的に書かれた一つ一つのシーンは本当に面白い。面白いから、投げ出された各々のシーンが、最後に繋がり一つに集約されるのだろうと読者は期待する。しかし、小説の8割ほどを読み進めた時点で少し不安になる。もう数ページしか残ってないのに、また新しい登場人物が出てくる。ラスト1ページになっても焦点が定まらない。最後の最後になって、ようやく確信する。この『あらゆる場所に花束が』という作品は、物語を綺麗に纏めるといった、ありきたりな作法を放棄した小説なのだと確信するのである。

この読後感は、ミステリー小説を読んだ時の「騙された」とか「裏切られた」という感じではない。適切な言葉が見つからない。よく分からないうちに、中原昌也という作家にたぶらかされた、或いは、いいように弄ばれたという感じが近いかもしれない。だけど、決して読んだ時間がもったいないとは思わない。自分の中に残るものは確かにあった。それが何かは分からない。こんな読後感も、『幽遊白書』が唐突に終わった時の感触に似ている。要するに、面白いのだけど、この作者の素性を全く知らない者が読んだら戸惑う事は必須だとも思う。

 

80回目「ソードフィッシュ」(ドミニク・セナ監督)

映画を観ながら、映画の本筋とは殆ど関係の無いことを三つ考えてしまった。何を考えたかを、下らない順に紹介する。

一つ目は、ジョン・トラボルタという俳優についてある。

ジョン・トラボルタ・・・。不思議な俳優だと思う。自分はジョン・トラボルタの顔を見ると何故か笑いそうになるのである。シリアスなシーンでも、ジョン・トラボルタの顔が画面に映ると笑いそうになる。別に、取り立てて変な顔ってわけでもないのに、なぜこうも笑ってしまうのか。あの髪型のせいだろうか。彼の顔がクローズアップされると、とたんに画面が漫画的になるような気がする。昔、ジー・オーグループという会社を経営していた胡散臭いおっさんに、ジョン・トラボルタはなんとなく似ていて、そこら辺も妙に笑ってしまいそうになる一因なのかもしれない。

二つ目は、エロスとタナトスについて考えたのである。

エロスというのは「生」に対する欲望。タナトスとは「死」に対する欲望である。この二つは表裏一体で、エロスの方は「生」よりも「性」といった方がしっくりくるかもしれないが、どちらも相反する欲望ながら人間の中に存在するのである。『新宿スワン』という漫画があって、スカウトマンの話なのだけど、後半は殆ど暴力団の抗争の話になる。暴力団の一人に灰沢という男が出てくる。この灰沢の台詞に「森永が生きてれば俺の負け。死んでれば俺の勝ち。・・・まさに命の極(きわ)!射精(イっち)まいそうだぜ」というのがある。(正確ではありません)要するに、賭けに勝ったら生き残るけど負けたら殺されるという極限の状態にエクスタシーを感じている場面で、こういうのがエロスとタナトスの表現として面白いと思ったのだが、『ソードフィッシュ』にも同じようなシーンがある。ヒュー・ジャックマン扮する主人公が、「政府のデータベースを1分以内にハッキングしろ」とジョン・トラボルタに脅されるシーン。頭にはピストルを向けられている。下半身は美女が口で自分のナニをナニしている。この状態で冷酷にもカウントダウンが始まる。このシーンを観た時に、ヒュー・ジャックマンの顔に灰沢の先の台詞が自分の中にアテレコされたのである。エロスとタナトスである。

三つ目は、テロリズムと自己犠牲、という主題を考えたのだが、長くなりそうだし面倒くさいから、今日はこの辺で。

気が向いたら、追記します。

 

79回目「苦役列車」(西村賢太:新潮文庫)

様々な場所で「文学の必要性」についての議論を見かける。自分自身、文学作品を読むのは好きだし、好きだからこそ、こんなブログも書いているわけだが、改めて「文学の必要性」を問われると答えに窮してしまう。「文学は人間性を豊かにするから読むべきだ」などと定型句のような理由を語られても、イマイチしっくりこない。

逆に「文学には実用性がないから読む必要はない」という意見も乱暴に感じる。確かに、沢山の文学作品を読んだからといって金を稼げるわけではないが、実用性とか合理性の見地からでのみ文学を否定するのも躊躇われるし、寂しい思いがある。だから、「文学の必要性」を問われた時は、「読みたい人は読めば良いんじゃないの」という、どっちつかずの意見でお茶を濁すのが常である。

そんな自分だが、西村賢太の『苦役列車』を読んで「文学の必要性」を改めて感じてしまった。しかしそれは読者・消費者からの必要性ではない。「人間性を豊かにする云々」や「文学には実用性がない云々」は、全て読者の立場から論じられる必要性の是非である。そうではなくて、この『苦役列車』には、文学を産み出す作者・書き手からの切実なまでの「必要性」を感じたのである。

苦役列車』は人生に何の希望も楽しみも持たず、冷凍倉庫で日雇いのバイトをしている19歳の少年が主人公である。友人も恋人もいない。それを求める気持ちはあるが、プライドと劣等感が邪魔をして、いつまでも孤独なままである。いわゆる「リア充」とは真逆の悲惨な青春を送る少年である。客観的に見ると、人に対する接し方や、自身の人生に対する根本的な考え方を少し変えてやれば、19歳の若さなのでいくらでも軌道修正できるだろうし、やり直しもできるのである。しかし、それに気付かず常に間違った選択をしてしまう主人公がとてもやるせない。少年の言動が常にマイナスの方向に作用してしまうのは、元来の卑屈な性格と劣等感によるものである。しかし、そんな少年にも唯一の楽しみがあり、それが「文学」であった。

併録されている『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』は、『苦役列車』の少年が大人になり、実際に小説家になった話である。強烈な劣等感を裡に抱え、まともな人生が送れない社会歩適合者のような男にも、唯一、「文学」は残されており、文学を書くことで社会と繋がりを保てるのである。

文学を書くという行為は、何も健康的で日の当たる人生を歩んできた人たちだけの特権ではない。確かに健康的な文学は読んでいて楽しい。多くの読者の共感も得られるだろう。しかし、そうではない人にも文学の門戸は開かれている。心の中に複雑なコンプレックスを抱えている人。人生に何の楽しみも見いだせない人。そんな人たちが、「世の中の生きづらさ」を詳らかに書けば、それはそれで文学になるはずである。そのように書かれた文学は、得てして暗く、普通の人の好みからは程遠い作品になるだろうが、同じ悩みを持った百人に一人だか千人に一人だかの読者に強く深く刺さるはずである。それは素晴らしいことではないだろうか。

そんなような事を西村賢太さんの『苦役列車』を読んで思ったが、『苦役列車』はフィクションなので作中の主人公イコール西村賢太さんではないので、念のため。

苦役列車

苦役列車

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78回目「ダージリン急行」(ウェス・アンダーソン監督)

ウェス・アンダーソン監督の映画を最初から最後までちゃんと観たのは、この『ダージリン急行』が初めてだ。過去に『グランド・ブダペスト・ホテル』と『ムーンライズ・キングダム』を途中まで観てやめてしまった。なんとなく映画のテンションについていけなかったのだ。独得で個性的な世界観を持った監督だと思ったが、自分には合わなかった。『ダージリン急行』も、やはり自分には合わなかった。最後まで観るのが苦痛だった。90分程の映画だが、時間以上に長く感じた。特に後半の3兄弟の列車を降りてからの展開が異様に長く感じた。

それでも、なんとか最後まで観た。苦痛を感じたけれど、「面白くない」とは思わなかった。こういう感覚も珍しい。「まぁ面白いんだけどなぁ…」の「…」の後に続く感想が出てこない感じだ。

長らく疎遠だった3兄弟が、関係を修復するために一緒にダージリン急行に乗ってインドを旅する話。3兄弟は皆、それぞれの事情を抱えているのだが、その事情がどうにも薄口で観る者に訴えかけてこない。その事情とは、例えば、出産間近の妻と離婚したがっているとか、別れた恋人を忘れられないとか、交通事故に遭い顔に包帯を巻いているとか、そういう類の事情で、その後の展開に深く関わるわけでもない。会話の中の簡易な台詞一言で説明されて終わるだけである。別に深刻な事情が見たい訳ではないが、もう少し奥行きを持たせた方がよかったのではないか。或いは、深刻さとは無縁の「軽さ」を意図していたのだろうか。だとしたら、もっと「軽さ」を徹底的に追及して欲しいと思った。観た限りでは、さして深刻でもないネタを並べ立てて空回りしている印象しか残らなかった。ヒマラヤで尼僧になった母親というのも、どこまでがギャグなのかよく分からなかった。川で溺れた少年が死に、その家族の葬儀に招待されるという展開もあまり必要性が感じられなかった。全体的にとてもスムーズに話が進むのに爽快感を感じないのは、そもそも挿入される物語が平板に過ぎ、観る必要のないものを観させられている感じがしたからだ。その平板な物語にもう少し監督の拘りがあれば、印象も大きく変わったかもしれない。一つひとつの画面作りはとても上手くセンスがあるのだが、この拘りの無さが勿体ないと思った。例えば降り立った街で靴磨きの少年に靴を片方盗まれるシーンも、インドの露天商の実態を知っていれば、あり得ないシーンである。商売道具を置いたまま片方の靴を盗んで逃げるなんて愚挙をするはずがない。こういう部分にもっと拘りを持って撮って欲しいと思ったのだ。

画面作りが上手くセンスがあると書いた。これは、過去に途中で観るのをやめた『グランド・ブダペスト・ホテル』と『ムーンライズ・キングダム』も同様だ。途中で観るのをやめたが、映像美の印象だけは今でも覚えている。特に、この『ダージリン急行』は、ウェス・アンダーソン独得の色彩にインドの街の猥雑さと混沌さがとてもよく合っている。そういうのもあって、最後まで観れたのだと思う。

 

77回目「プレーンソング」(保坂和志:中公文庫)

自分は「やれやれ」と呟く人間が苦手である。「やれやれ」という嘆息には、様々な欺瞞が含まれているように思う。相手を小馬鹿にしている感じが嫌だ。馬鹿な事をした相手、或いは、馬鹿な状況に対して「やれやれ」などと呟く人は、「自分はこんな馬鹿なことをしない」という自己肯定と、「君は僕と違ってこんな馬鹿なことをしたのだよ」という上から目線がある。馬鹿な事をした相手に対して「馬鹿」と直接言わずに、「やれやれ」と持って回った言い方をすると、相手を小馬鹿にして暗に批判しながらも、相手に反撃されるリスクがない。自己保身的である。さらに、「やれやれ」という言葉には、「馬鹿な相手」や「馬鹿な状況」に対しても、熱くならずにクールに対峙している感じを演出できる。一歩引いて全てを俯瞰している感じが、とても鼻に付く。「やれやれ」と一言呟くことによって、相手を受け入れる器の大きさを担保できるとでも思っているのだろうか。なんという小賢しくて嫌味でナルシスティックな言葉だろう。

例えば村上春樹の小説は、こういう「やれやれ」感が満載である。村上春樹さんは、毎年ノーベル文学賞を獲るかもしれないと噂されるくらい凄い人で、日本を代表する作家だと思うが、彼の小説に出てくる、この「やれやれ」と呟く人物がどうにも好きになれないのだ。

で、今回は保坂和志の『プレーンソング』である。自分はこの小説を数年前に読んだ。具体的な内容は、殆ど覚えていないのに、「変な小説だなぁ」という印象はずっと残っていた。「変な小説」は沢山あるが、内容は殆ど忘れているのに、印象だけが残っている小説は『プレーンソング』が初めてだ。そして、今回数年ぶりに再読したのだが、やはりこの『プレーンソング』は相当変な小説であった。

特記すべき内容はない。30代の会社員の男が主人公である。彼と彼の周りの人物達の日常をスケッチしただけの小説で、初めて読んだ時に、内容を殆ど忘却していたのは、そもそも特記すべき内容がなかったからなのだ。しかし、そのスケッチの仕方が兎に角変わっており、故に数年経っても「変な小説」という印象だけが残っていたのだ。このスケッチの仕方はかなり斬新である。悪く言えば、ありきたりな日常をダラダラと書いているだけだともいえる。主人公は、いかにも自分が苦手な「やれやれ」を口にしそうな人物であり、主人公以外の人物も年齢に比してどうにも幼稚で甘ったれており、若干の嫌悪を感じた。「失恋した」と書けばよい所を「女の子にふられた」なんて表現をする。猫に「ミィ」と「ミャア」という名前を付ける。こういう部分が読んでいて、こそばゆくなった。しかし、全体を読み終わった後に不快感はなく、寧ろ爽快な気分になった。繰り返すが、ありきたりな日常のスケッチの仕方が、斬新かつ巧みなのだ。とても回りくどい文章で、ワンセンテンスを読み終えるまでは、一々その回りくどさに辟易するのだが、ワンセンテンスを読み終わると、その文章の中に、回りくどさとは対極のスタイリッシュさがある事に気付く。或いは、この回りくどさが、「やれやれ」と呟く人間に通じる登場人物の欺瞞性を中和する役割を担っており、すこぶるバランスの良い文章に仕上げているのかもしれない。この小説の世界観で、スタイリッシュなだけの文体なら、恐らく嫌悪感しか残らない。主人公が友人達と会話するシーンが多いのだが、その会話中に、相手のリアクションについて、なぜ相手がそんなリアクションを取ったのか、主人公が内省する。その内省はとても回りくどいのだが、同時に自己批判的であり、「やれやれ」と口にする人間特有の自己愛がない。そして回りくどい文章には、それ故の説得力があり、宙ぶらりんで甘ったれた人間を描きながらも、彼らの考え方には中心にきちんと太い軸があるのだと思い知らされる。しかも、それを主張し過ぎずにスタイリッシュに纏める文章を書く技量は並大抵のものではない。打って変わって、終盤の海のシーンでの主人公たちの会話は、回りくどさは皆無で、ただ短く簡明で澄んだ言葉の応酬になっており、これはこれで圧巻だった。

 

76回目「パッション」(ブライアン・デ・パルマ監督)

ゴダールメル・ギブソンも同名の映画を撮っている。今回は、ブライアン・デ・パルマの『パッション』である。当たり前だが、他の『パッション』と内容は全然違う。3つの『パッション』の中では、エンターテイメント色が強く、一番見やすいのではないだろうか。

アルモドバルの映画を薄口にした感じの印象を受けた。上司(女)と部下(女)と愛人(男)の三角関係もアルモドバルの映画ほどドロドロとはしていないし、後半のミステリー仕立てもアルモドバルの映画ほど込み入っていない。それ故に、若干の物足りなさはあるが、無駄がなくスピーディーに話が展開するので、最後まで退屈することなく観ていられる。

しかし、この映画に出てくる女性上司は本当に嫌なやつで、先に「若干物足りない」と書いたが、この女性上司の「嫌な奴具合」は、物足りないどころか、かなり突き抜けており、彼女の奸計に嵌った部下の女性は本当に観ていて同情した。つまり「嫌なやつ」の描き方の巧さに舌を巻いたのである。「嫌なやつ」は相手が嫌がる事をするから「嫌なやつ」になる。「嫌なやつ」を描きたければ同時に「相手が嫌がる事」を考えなければいけない。自分のような常人には、せいぜい「陰口を叩く」とか「根も葉もない噂を流す」とか、そのレベルの事しか思いつかない。『パッション』で描かれる「相手が嫌がる事」は、そんなレベルを優に超えており、相手を再起不能の状態にまで叩きのめす。人の尊厳を徹底的に踏みにじる。映画を観ていて不快な気分になると同時に、「よくこんな酷い仕打ちを思いつくなあ」と殆ど感心したのだった。少し前に触れた『悪い種子』という映画の少女が、大人になったら、こんな女になるのだろうなぁ、と思った。

この女性上司の嫌がらせと執念に、まさに映画のタイトルである「情熱」を感じたのだが、復讐する側の女性部下には、その復讐の方法も含めて、女性上司に感じた程の情熱は感じなかった。ラストも、なんとなく消化不良だった。