松本雄貴のブログ

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53回目「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」(ヨルゴス・ランティモス監督)

この映画はヤバいと聞いていた。「ヤバい」とは色々な意味を含む。単純に面白いという意味もあるし、その逆もある。多くの人のレビューを読んでいると、どうもこの映画は観た人を不快にさせるという意味でヤバイらしい。

ミヒャエル・ハネケとかラース・フォン・トリアーのようなテイストの映画なのかな、という先入観を持って観た。ある意味、ハードルが上がった状態で観たからだろうか。それ程、不快な気分にはならなかったし、それ程「ヤバい」とも思わなかった。丁寧で繊細に作られた佳作といった印象を持った。

外科医の男が主人公。外科医には、妻と二人の子供(長女と長男)がいる。家族4人で郊外の豪邸に住んでいる。外科医には、家族とは別に頻繁に会っている少年がいる。この少年は、外科医が過去に手術を失敗して殺してしまった男の息子。罪悪感からなのか、外科医は少年と食事をしたり、時計をプレゼントしたりする。

ある日、外科医はこの少年を家に招く。少年は外科医の娘・息子とも仲良くなり打ち解ける。しかし、少年が家にやってきた日から、外科医の家族に次々と不可解な現象が起き始める。息子が突然歩けなくなったり、娘が突然歩けなくなったり・・・。少年は外科医に「先生意外の家族は、やがて全員歩けなくなり、目から血を流し、最終的に死ぬ」などと言う。少年に怒りと不気味な何かを感じた外科医は少年を監禁し・・・。簡単に言えば、以上のような粗筋だ。

映画全体が静かで不気味な雰囲気に覆われている。何気ない会話の中にも不気味さが宿っている。とりわけ、少年の不気味さは際立っていた。静かで落ち着いているのだが、無理矢理にでも家族の関係に入り込もうとする図々しさと太々しさは、観る者の神経を逆撫でしてくる。友好的に見えて敵意と悪意を存分に含んだ態度とセリフは、中々に挑発的だ。この辺りは確かに不快だ。不快だが、目が離せない。不快に感じながらも、最初から最後まで緊張感が途切れることなく観られたのは、監督の丁寧な演出に依るものであり、すごい手腕だと思う。

この『聖なる鹿殺し』には二種類の恐怖がある。この二種類の恐怖が、上手く混ざり合っていないのではないかとも思った。

例えば、日本のホラーである『リング』は「呪いのビデオ」を見た人が2週間後に死ぬという話である。「呪い」という霊的・オカルト的な恐怖で映画が成り立っている。「呪い」という科学では説明できないものによって命を奪われる理不尽さが怖い。ビデオを見てしまったが最後という逃れられない恐怖。これが霊的・オカルト的な恐怖である。『シックスセンス』とか『アザーズ』なんて映画も、この手の恐怖を与えてくれる良質なホラー映画だと思う。

一方、人間の心の闇に焦点を充てた恐怖もある。サイコサスペンス的な恐怖である。ミヒャエル・ハネケの『ファニー・ゲーム』という胸糞映画があるが、この映画のキャッチコピーは「人間が一番怖い」である。ゲーム感覚で人を殺す映画で、なぜそんな残酷なことをするのかという動機はない。敢えて言えば「楽しいから」だ。そして、殺人の当事者たちは「心の闇」なんて言葉すら、せせら笑って小馬鹿にするような、そんな不快な怖さがあった。

『聖なる鹿殺し』は、手術の失敗で父親を殺された少年が、恨みと悪意によって外科医の家族を追い詰め、外科医に自分の子供を殺すように仕向けていく話で、少年の薄気味悪さや、「家族の絆」などという言葉の幻想なども含めて、後者の恐怖(サイコサスペンス的な恐怖)に彩られている。しかし、その手段は唐突に歩けなくなる、最後は血の涙を流して死ぬ、といった原因不明の霊的・オカルト的な怖さである。

この緊張感を維持しつつ、どちらか一種類の恐怖のみで描いて欲しかったのが、不満だった。

監督のヨルゴス・ランティモスギリシャの鬼才と言われているらしい。最近では『女王陛下のお気に入り』を撮った人だ。それ以外では『ロブスター』と『籠の中の乙女』を撮っている。今回の『聖なる鹿殺し』も含めどの映画も少し変な映画だった。不可解な世界観が好きな人はランティモスの映画にはまるだろう。

不快という意味では個人的に『籠の中の乙女』が一番不快で、嫌な映画だった。あまりオススメはできない。オススメできないが、『籠の中の乙女』という映画の後半、二人の娘がダンスをするシーンがあり、そのシーンは少しお笑い寄りで、ガキの使いのハイテンションショーを見ているような感じになった。あそこだけ、少し笑ってしまった。要するに、変な映画なのであった。