松本雄貴のブログ

本。映画。演劇。旅。

47回目「死の家の記録」(ドストエフスキー著 工藤精一郎訳:新潮文庫)

囚人の生活とか刑務所内の環境とかは、一般人にはなかなか触れる機会がない。時折、囚人に対する虐待や暴行、さらには、それによる囚人の死亡などのニュースを耳にすることがある。その度に、刑務所という場所に対して負のイメージを持ってしまう。ニュースを聞いた瞬間は、刑務所内では虐め・暴力・虐待などが日常的に行われている劣悪な環境なのだろうなぁ、堅気の人間には耐えられないだろうなぁ、酷い所だなぁと思ってしまう。

しかし、よく考えてみると、刑務所内で囚人に対する非人道的な事件が起こる確率は、ごくごく珍しいことだと分かる。というのは、珍しいからこそ事件としてニュースで扱われるのであり、非人道的行為が自明のものとして日常的に発生しているのであれば、ニュースにはならない。原則ではなく例外だから事件になるわけだ。そして、そのような例外的なものに対して、「ああ、この(一応)民主主義の発達した現代の日本で、このような陰惨な事件が起こったのか・・・痛ましいな」と暗い気持ちになるわけである。

つまり、現代の日本の刑務所における囚人の生活というのは、例外的に虐待などの悲劇的な事件が起こる可能性はあるが、最低限の人権は保障されており、我々のような外野が「非人道的だ!」と憤るほど悲惨な場所ではないと想像できる。もちろん、罪を償う為の場所であるから、娑婆に比べると時間的自由・空間的自由は著しく制限されていることも周知の通りだ。間違っても、自ら進んで入りたいと思うような場所ではない。

というのが、現代の日本の刑務所に対して自分が持っているイメージだ。では、『死の家の記録』の舞台である19世紀のロシアの刑務所はどうだろうか。19世紀である。「思想」が理由で逮捕されるような時代である。読む前は、今の日本では「あってはならない事件」としてニュースで報じられるであろう、上記のような非人道的なことが日常的に起こっていたのだろうと想像した。裏に書かれたあらすじも、この監獄がいかに地獄のような凄惨な場所であったか、という部分を強調している。当然、読者である自分もそこに期待して読む。

かなり長い小説で、読了するのに約一か月掛かったのだが、苦労して読んだ割に、肩透かしを食らった感じがした。部分的には面白い個所もあり、読み入ってしまうのだが、全部を読み終わった後に残るのは「イマイチ」という感想と、徒労感であった。

しかし、せっかく一か月も掛かって読んだのだから、どの点が自分には合わなかったのかを考えてみる。

死の家の記録』は、ドストエフスキーが、実際に思想犯としてシベリアに流刑にされ、監獄にぶち込まれた時の体験を元に書かれた小説だ。小説ではあるが「創作」というよりは、ドストエフスキーの観察力・洞察力・記憶力を駆使して書かれた事実の列挙というニュアンスの方が強い。その名の通りまさに「記録」なのだが、物語的な味付けも多分にされている。自分にはこの味付けが少々、クドかった。蛇足が多すぎるように思ったのだ。例えば、第2部の後半、唐突にある囚人が、なぜこの場所に収容されたのかを、隣で寝ている別の囚人に語りだすのだが、何かストーリーに関わる重要な事なのかと思いきや、ただの痴話喧嘩の話であったり、そして、その痴話喧嘩の内容が妙に入り組んでいて、小説の中で別の小説を読まされているような感じなのだ。恐らく、下らない理由で、自分の許嫁を実際に殺害してしまう男の短絡的で残虐な性格を描く事によって、監獄内の人物がどれほど異常であるかを表現しているのだろうが、翻訳の問題なのか、異常性よりも、単に「下らない話」という印象だけが残った。

また、全体を通して、登場人物のキャラクターの説明を延々と読まされているような感じがした。しかも、その性格に一貫性がないように思った。例えば、作中で、粗暴で狂暴な性格の持ち主などと評された人物が、ドストエフスキー本人の投影である主人公に、とても優しく接したりする。良い奴なのか悪い奴なのか分からない。また、無学で頭が悪い男と称された人物が、とても手先が器用だったり、監獄内の世渡りに長けていたりする。頭が良い奴なのか、悪い奴なのか分からない。混乱するのである。このように、無意味に長い部分、蛇足に過ぎる箇所がありすぎた故、読むのが苦痛であった。これが、『死の家の記録』を「イマイチ」と感じた第一の理由である。

また、自分が期待したポイントが「監獄の凄惨さ」であったことも大きい。『死の家の記録』は、あらすじにも強調されているように、どれだけこの監獄が悲惨な場所であったのか、そこを主題にしているように思うが、小説を読む限りは、それほど凄惨な感じもしないのである。囚人たちが恐れている鞭の刑(チケイと言うのだが、漢字変換が出てこない)も、別にそんなに痛そうとも思わない。囚人たちの人間関係も、例えば貴族出の囚人たちと、ポーランド人の囚人たちと、殺人などの罪を犯した純粋な囚人たちの間には、分厚い壁があり、純粋な囚人は、貴族出の囚人たちを毛嫌いしており、その人間関係がもたらす、不自由や凄惨さも語られてはいるが、別のシーンでは、彼らは結構仲良くやっているのだ。その様子は微笑ましくさえあり、随分と牧歌的だ。一緒に、芝居を作ったり、それを見たり、クリスマスが来るのを浮き浮きしながら待っていたり、「19世紀のロシアの監獄」から連想する凄惨なイメージとは、随分と程遠いのである。

同じ時期にBSで観たスピルバーグの『シンドラーのリスト』の方が、余程、凄惨で悲惨だった。

というのが、『死の家の記録』を読んで、イマイチと感じた理由である。

ただ、部分的には本当に面白く、ドストエフスキーの洞察力に何度も舌を巻いたのも事実である。

以上。

 

死の家の記録(新潮文庫)

死の家の記録(新潮文庫)

 

 

46回目「銀河」(ルイス・ブニュエル監督)

ブログは最低でも月に3回は更新しようと思っている。だから、月末近くになっても2回しか更新できていなければ、けっこう焦る。別にノルマがあるわけでもないし、自分の人生においてブログを書く必要性など特にないのだが、毎度の如く「早く書かなければ」という焦燥感に駆られてしまう。どうも自分は、昔から変に責任感が強い。やらなければいけない重要な仕事は、できるだけサボろうとするクセに、やらなくてもいい事、やっても仕方のないこと、得にも損にもならない下らないことに関しては、必要以上に真面目になってしまう。厄介な性格だと我ながら思う。

そんなわけで、今回はブログを書くためにわざわざ、DVDを借りた。これまでの自分のブログは、たまたま見たり読んだりした映画や小説で、「これはブログに書こう」と思った作品を取り上げていたが、今回は順序が逆である。「ブログを書かなくてはいけない」という思いが先行し、「ブログが書きやすそう」な作品を敢えて選びに行った。本来の批評の意味から見ると、とても不埒で不純な動機である。

そのような動機で観たのがルイス・ブニュエルの『欲望のあいまいな対象』と『銀河』である。2本を立て続けに観て、どちらかでブログを書こうと決めていたのだが、未だにどちらで書こうか決めかねている。「ブログを書くため」という明確な目的を持って鑑賞したにも関わらず、どちらの映画もなかなか、感じたことが文章化しづらい。

どちらもそれなりに面白かったが、分かりやすい面白さでいえば『欲望のあいまいな対象』で、よく分からないけど、なんとなく面白いのは『銀河』である。

『銀河』は、とくに後半からが本当によくわからない。初老の男性と中年の男性、2人が聖地巡礼をしている。その過程で様々な変てこな人に出会うロードムービー。簡単に説明すればそんな映画だ。全体的にキリスト教を批判しているというのは分かる。いや、批判というよりも小馬鹿にして茶化している感じだ。そして、その茶化し方が少し巧妙だ。キリスト教を直接的に批判するのではなく、キリスト教を批判した人物が、次の瞬間に酷い目に遭う。結果的に、異端者や批判者に寛容でないキリスト教の本性があぶり出される。観た人は、キリスト教は懐の小さい宗教だと思ってしまう。そんな感じの茶化し方なのだ。学芸会で可愛らしい女の子に「神を信じない者には呪いあれ」とサラっと、しかも可愛らしく言わせたり、なかなかに性格の悪い映画だが、マリリン・マンソンのような直接的で下品な感じはなく、知的なユーモアを少し感じた。まあ、キリスト教に帰依している人にとっては、どちらも感じは悪いだろうから、観ない方がいいかもしれない。

『銀河』がよく分からないのは、現実の風景とおとぎ話的な寓話が混じりあっているからだろうと、今にして思う。セダン型の車が舗装された道路を走っている現実的な光景に、キリストやマリア様やサド侯爵が、いかにもおとぎ話のような衣装を着て登場する。デフォルメされた虚構が唐突に、当たり前のように出てくる。故に戸惑ってしまうのだが、同時に不思議な世界観に引き込まれてしまう。

とにかく、『銀河』はよく分からないのだけれど、感覚的に面白いと感じてしまう。この感覚はゴダールの『ウィークエンド』を観た時の感覚に似ている。自分は『ウィークエンド』の渋滞のシーンを見て、面白いと思ったが、それがなぜ面白いのかは上手く説明できない。多分に観る人のセンスによるものだろう。

余談だが、町田康が率いるバンド「汝、我が民にあらず」は、この『銀河』の中のセリフに由来する。

もう一つの映画『欲望のあいまいな対象』は、普通に面白いが、内容は谷崎潤一郎『痴人の愛』とほぼ一緒だ。自分は、過去にこのブログで『痴人の愛』を取り上げたことがあるので、気になった方はそちらを読んで頂ければいいと思う。もちろん、多少の相違点もある。『痴人の愛』の方が、主人公の男に同情できる。どちらも魔性の女にたぶらかされて破滅する馬鹿な男の話だが、『欲望のあいまいな対象』は、男にあまり同情できない。今の視点から見ると、『欲望のあいまいな対象』の主人公の言動は、単なるパワハラとセクハラだ。ひどい目にあって当然だろうと思ったのである。あまり深く考えずに観る分には、充分楽しめる映画だ。

不埒で不純な動機で書いた今回のブログだが、ルイス・ブニュエルという監督は、まさに不埒で不純な人だ。それだけに才気が溢れている。無理矢理こじつけたような結論だが、とりあえずこの辺で。

 

銀河 [DVD]

銀河 [DVD]

  • 発売日: 2011/06/24
  • メディア: DVD
 

 

宣伝させて下さい。

戯曲を書きました。それを上演して頂くことになりました。

劇作家の川村毅さん率いるT Factoryさんの企画で、<2020年の世界>をテーマに沢山の劇作家が書いた戯曲を上演しようとする試みに「劇作家」として参加したのです。

演出は川村毅さん、赤澤ムックさん、川口典成さんのお三方です。

自分は「何かを決めるには若すぎる」という戯曲を川村毅さんに演出してもらいます。

プログラムCで上演されます。

コピペですみませんが、詳細は以下の通りです。

 

ティーファクトリー|第1回T Crossroad短編戯曲祭<2020年の世界>

【会場】吉祥寺シアター

【公演スケジュール】 2021年2月10日(水)~23日(火祝) 

2月
10日(水) 18:30 A
11日(木祝)14:00 B/18:00 C
12日(金) 15:30 A/18:30 B
13日(土) 15:00 A/18:00 C
14日(日) 13:00 C/16:00 B
15日(月) 18:00 リーディング1
16日(火) 14:00 リーディング1
17日(水) 休演日
18日(木) 15:30 E/18:30 D
19日(金) 15:30 F/18:30 D
20日(土) 15:00 D/18:00 E
21日(日) 15:00 E/18:00 F
22日(月) 18:30 F
23日(火祝)15:00 リーディング2 +クロージングトーク

*開場は開演30分前
*本公演の上演作品は各プログラムで全て異なります。
*各プログラム上演時間…約1時間
(リーディングプログラムは休憩込1時間30分予定)

【チケット料金】

[全席指定]
1公演券=3,800円
2公演ペア券=7,000円(@3,500円)
2公演セット券=7,000円(@3,500円)
6公演セット券=18,000円(@3,000円)

※ペア券、複数回公演券はティーファクトリーオンラインチケットサービスのみ取扱い。いずれもリーディング回適用外。



◆車椅子スペース(定員有・要予約)
料金=一般料金/介助者は1名無料
◆視覚障がい者の方:介助者1名無料

※武蔵野文化事業団では1公演券のみ取扱いとなり、[2公演券][6公演回数券]の取扱はございません。
※未就学児童のご入場はご遠慮ください。

 

※キャストの方や他の劇作家さんの情報は、吉祥寺シアターティーファクトリーのウェブページを確認して頂ければ幸いです。

 

 

45回目「アメリカン・ビューティー」(サム・メンデス監督)

監督のサム・メンデスは、『1917命をかけた伝令』が昨年のアカデミー賞にノミネートされた。しかし結果は、作品賞も監督賞もポン・ジュノの『パラサイト 半地下の家族』だった。この結果には納得できる。『1917~』も面白いとは思うが、両者を比べるとやはり『パラサイト~』の方が全体的な完成度は高い。というのが、自分の見解だ。

『1917~』は、最初から最後までワンカメラ・ワンカットで撮っている。劇場で観たが、とても臨場感のある映画だった。ただ、見終わった後「だから何?」という身も蓋もない感想を抱いたのも事実だ。『1917~』の面白さは、映画の面白さというよりも、TVゲームの面白さだと感じた。人がスーパーマリオをプレイしている画面を横で見ている感じの面白さだ。冒頭から途中までの二人の男が目的地に向うシーンは、まさにマリオとルイージがダンジョンを冒険しているかのように錯覚したのだ。ただ、いかんせん自分はTVゲームを殆どしないので、この感覚が正しいのかどうか自信がない。

で、そのサム・メンデスが『1917~』よりも大分前に撮った『アメリカン・ビューティー』である。こちらは『1917~』と違い、当時のアカデミーの作品賞を獲得している。そして、これまた『1917~』と違い、映画としての面白さがあった。一つの家族と家族を取り巻く人たちの悲劇と崩壊を描いている。ジャンル的には一風変わったコメディのようでもあるが、少し痛くてほろ苦い。悲劇と崩壊を描いているのにコメディであるという点が、逆にこの映画独特の痛さを際立たせている。いや、「逆に」という接続詞は正確でないかもしれない。喜劇はそもそも痛さを内包している。滑稽さと痛さは、実は表裏一体なのだ。だから人は、滑稽なものを観た時、笑うと同時に哀しくもなるのだ。『アメリカン・ビューティー』という映画が痛さを伴うのは自然なのだ。

アメリカン・ビューティー』の家族構成は、父親と母親と娘の3人だ。ケヴィン・スペイシーが演じる父親のレスターが一応の主役である。祖父や祖母はいない。兄弟もいない。ペットもいない。典型的なアメリカの核家族だ。この、典型的というワードが『アメリカン・ビューティー』という映画では重要だ。

この主人公家族の隣には、別の家族が住んでいる。こちらの家族構成も父親・母親・息子の3人だ。さらに、娘の親友であるアンジェラという少女が出てくる。この7人が主要登場人物なのであるが、7人が全員、分かりやすい欠陥を持っている。分かりやすい欠陥とは、典型的な欠陥という意味だ。ベタな欠陥とも言える。

まず、隣家族の父親。彼はゲイを異様に嫌う差別的な男として描かれている。家父長的で保守的な特徴が誇張されている。言わば、分かりやすい差別主義者だ。また、彼の妻は分かりやすく精神を病んでいる。作中では殆ど喋らず目に力がない。何かに怯えているように常にオドオドしている。恐らく、家父長的な夫に常に抑圧され続けた結果、精神を病んでしまったのだろうと、容易に想像できる。彼女が「散らかっている部屋でごめんなさい」と言った後、とても綺麗に整理整頓されたリビングが映るシーンは、まさに滑稽さと痛さが混じりあったコメディだった。

そして彼らの息子は「サイコヤロー」である。「サイコヤロー」という言葉は、実際に映画内で、娘の親友のアンジェラがこいつに対して使っている。マリファナをキメてたり、隣の娘を盗撮したり、その盗撮が娘にバレても焦ったり悪びれたりすることなく、盗撮に対する自身のポリシーを主張したりする。その言動は確かにサイコヤローだ。分かりやすい。

主人公家族の3人も、それぞれが持っている短所がとても典型的で分かりやすい。母親は、不動産会社で働いているが、体裁とか世間体を気にし過ぎてしまうヒステリックな女性だ。プライドが高く、常に欲求不満で満たされていない。そして自分の夫より地位も名誉もある同業の男性と不倫をしてしまう。とてもベタな展開である。

一人娘も典型的なティーンエイジャーだ。「思春期の娘」という言葉から我々が想像するイメージをそのまんま体現している。具体的には親を軽蔑していたり、男にモテる親友に密かに劣等感と嫉妬を感じていたりと分かりやすい。

そして、父親のレスターと娘の親友のアンジェラだ。

家庭内でのレスターの立場は、3人の中で一番弱い。娘にも妻にも軽蔑されている。普通のサラリーマンだがリストラ対象になっている。不動産の営業をバリバリやっている妻の方が恐らく、稼ぎは多いのだろう。当然、主導権はレスターではなく妻の方にある。妻が車の運転をし、レスターは助手席に座るという構図が、二人の力関係を象徴している。典型的なダメなおっさんなのだ。

そして、レスターはアンジェラに一目惚れしてしまう。娘の友達を好きになるという、気色悪さまでもが加わる。そして、そこからは常にレスターの心にはアンジェラが付き纏ってしまう。アンジェラに対して性的な妄想をしたり、娘の手帳を調べてアンジェラに電話を掛けたりと、その行動は娘と同じく「Oh,gross!(きしょい!)」と言いたくなるが、本人はいたって真面目であり純愛のつもりであるのが、これまた滑稽と同時に痛いのだ。

そしてアンジェラは、この父親に好かれることに対して嫌悪感を抱かない。自らをビッチと自認している少女なのだ。彼女が普段、友達に対して吹聴している話の内容は、「色んな男とfuckした」「男は皆、自分の虜になる」というような、典型的なビッチ発言だ。

この典型的なダメ人間たちが出会い、すれ違い、交差することによって崩壊のラストに向かうことになる。これだけ典型的であることを強調したのは、本来は予定調和的でつまらない結果になることが多いベタな表現が、『アメリカン・ビューティー』に於いては、逆にラストの崩壊を美しく彩るための必要条件になっていると感じたからだ。

 映画の後半からは、登場人物の価値観が徐々に逆転しはじめる。あれだけゲイを嫌悪していた隣人が、あるきっかけで男性にリビドーを感じてしまったり、最初はサイコヤローの盗撮を嫌悪していた娘が、親友のアンジェラではなく自分に注目してくれることに喜びと悦びを見出し、サイコヤローを好きになったり、といった逆転が面白い。そしてこれらの逆転現象を面白くしているのは、最初に登場人物のダメさをベタに描いたことに起因している。ティピカルだからこそ、効果があるのだ。

そして、ラストの逆転がまた哀しい。「自分はビッチだ」と公言し、男に抱かれることに自分の価値を見出していたアンジェラが、レスターに抱かれようとする直前、実は処女だったと告白する瞬間。なぜ、そんな告白をしたのかの理由も含めて、とても哀しいのだ。また、アンジェラの告白を受けた時のレスターの対応も、また哀しい。性的な目で見ていたアンジェラに対して、性欲とは真逆の父性が芽生える瞬間が、哀しく美しいのだ。

実に滑稽で痛いが故の、上質なコメディ映画だったのだ。

長くなり過ぎた。以上。

 

アメリカン・ビューティー (字幕版)

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  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

44回目「マイナス」(山崎紗也夏(旧・沖さやか):ヤングサンデーコミックス)

この漫画を読んだのは4年ほど前である。スーパー銭湯に行った際、休憩室の漫画コーナーに置いてあった。シンプルなタイトルに興味を引かれて、手に取って読んでみた。全部で5巻だったと思うが、一気に読んだ。自分の性格から考えて、面白くなければ、スーパー銭湯の休憩室でラストまで一気に読むなんてことはしないので、多分、面白い漫画だったのだろう。しかし、それ以降は一度も読んでいないため、詳細なストーリーやキャラクターの名前などはうろ覚えだ。

なぜ、うろ覚えの漫画の感想をブログに書こうと思ったのか。

理由は、ふいにこの漫画を思い出したからだ。そして、この漫画をふいに思い出すのは今回が初めてではない。4年前のスーパー銭湯の帰路から、現在に至るまで、何度かこの漫画を思い出し、この漫画について考えることがあった。その度に、この感覚を何かの形で文章に残したいと思っていた。幸い、今の自分にはブログというツールがある。だから、ここに『マイナス』の感想を書こうと思い立ったのだ。

『マイナス』を読み終わった後の、なんとも形容し難い「ある感じ」は4年経った後も心に強く残っている。そして、その「ある感じ」を日常生活のふとした瞬間、漫画内の幾つかの断片と共に思い出す。どのような瞬間に思い出すのかというと、人間関係に疲れた時だ。

しかし、人間関係に疲れた際に読むと心が癒される、というような類の漫画では決してない。寧ろ『マイナス』は、そのタイトルの通り、読み手の心に負の感情を想起させるエピソードが多かったように記憶している。今に至るまで、自分が再読しなかった原因もそこにあるような気がする。

『マイナス』の主人公は、高校の英語教師だ。彼女は美人でスタイルが良い。教え方も上手い。新人教師だが、クラスの担任を任されることになった。見た目の良さと頭の良さで、最初から生徒の心を掴む。普通に考えれば、このまま何不自由なく教師として順調に働いていけるはずである。しかし、彼女には性格上の重大な問題があった。それは「人に嫌われることを極度に恐れる」という問題である。例えば、次のようなエピソードがあった。授業が終わり、教室で生徒たちと楽しく話している最中に尿意をもよおす。しかし、話を中断してトイレに行くと、せっかく自分を慕って楽しくお喋りをしてくれる生徒に嫌われるかもしれない。だから「トイレに行く」と言い出せない。結果、生徒とのお喋りは下校時間まで続き、最後までトイレに行けず、その場で漏らしてしまう。

このエピソードは、たしか第一話目だった。ギャグの要素も含んでおり、コメディタッチで描かれているのでギリギリ笑える話として纏まっている。

しかし、物語が進むにつれて「人に嫌われたくない」という思いから派生する彼女の行動は徐々にエスカレートし、間違った方向に暴走し始める。ある男子生徒がイタズラで、テストの答案用紙に「先生とセッ〇スしたい」というような内容の落書きをする。もちろん悪趣味な冗談なのだが、落書きを見た彼女は、その言葉を真に受け「セッ〇スしないと男子生徒に嫌われる」と思い、本当にやってしまう。当の男子生徒は、快楽とは裏腹に、彼女の狂気染みた言動に困惑し、引いてしまう。人に嫌われたくないが為に行った行動の結果が、実際は、人に嫌われてしまうという、物事が本末転倒していく様子を、同じくコメディタッチで描いているのだが、ここまでくると最早笑えない。因みに、この男子生徒と主人公の関係は、かなり簡略化して紹介したが、もう少し複雑なドラマがある。しかし、4年前なので記憶が薄らいで書けない。

そして、人に嫌われることを極端に恐れる性格は、ついに殺人まで犯してしまう。殺人を犯すまでの過程と、その後に展開されるドラマは割愛するが、主人公の自己中心的な振る舞いと思考回路は、読み手に強烈な不快感をもたらす。

漫画は「極端」を描くことに優れたた芸術だと自分は考えるが、『マイナス』も例外ではない。徐々に主人公の狂気に拍車が掛かっていき、沢山の人達を巻き込み不幸にしていく様は、胸糞が悪いのと同時に、突き抜けた清々しさもある。ある種のカタルシスをも感じる。爽快感と不快感が絶妙に入り混じった感情が、4年経った今でも、生々しく自分の中に残っており、時折、思い出してしまうのだ。

先に、人間関係に疲れた時に、この漫画を思い出してしまうと書いた。主人公の心の問題。つまり「人に嫌われたくない」という気持ちは程度の差はあるにせよ、誰しもが持っている。『マイナス』の主人公は特殊な人間でなく普通の人間であり、自分たちの心にも存在するのだ・・・、というような凡庸に過ぎることを言いたい訳ではない。そういう事が言いたい訳ではないのだが、少し考えてしまうのは、やはり、自分が『マイナス』の主人公に共感してしまう部分が大いにあるからだろう。不快に感じるのと同時に共感もしてしまう。そして、そんな自分に負い目を感じてしまう。この感じをどう表現すればよいか、しっくりこない。先に「ある感じ」と抽象的に書いたのは、今の自分の手持ちの言葉では説明できないからだ。

『マイナス』の主人公の行動の原点は全て、「人に嫌われたくない」に集約される。それが故に、様々な不幸を自他共にもたらしてしまうのは、紹介した通りだ。少し発想を変えて「人に好かれたい」を行動の原点にすれば、何かが変わるだろうか。しかし「人に好かれたい」が為にする善行の方が、余計に性質が悪い気もする。「人に嫌われたくない」も「人に好かれたい」も消極か積極かの違いだけで、その本質は「自分は良い人間である」という証明が欲しいという、凡夫の思想に他ならない。しかし、それを追求するのは悪いことではないだろう。

・・・などと結局よく分からないことを書いてしまった。

結論。人間関係に悩んだときに、『マイナス』を読んでも抜本的な解決にはならない。が、何らかのヒントは得られるはずだと思うので、現在、人間関係に悩みを持っている人は、是非、読んでみると良いと思います。多少、不快な描写はありますが。

明けましておめでとうございます。

 

マイナス 完全版(1)

マイナス 完全版(1)

 

 

43回目「π」(ダーレン・アロノフスキー監督)

数学の世界には、ミレニアム懸賞問題というものが7つある。証明すれば1億円もらえるらしい。ざっくり言うと、数学のめちゃくちゃ難しい未解決問題だ。文系の自分には、想像もつかない。興味のある人は「ミレニアム懸賞問題」でググってください。近年、7つのうちの一つ、「ポアンカレ予想」という問題が証明された。証明したのは、ロシアのグレゴリー・ペレルマンという数学者なのだが、この天才数学者は受賞も賞金も辞退し、以後、誰とも連絡を取らず、人目を避けるように母親と二人で静かに暮らしているらしい。

『π』の主人公、マックスも天才数学者だ。天才的な頭脳とコンピュータを使い、株式市場の予想をしている。冒頭、近所に住んでいる女の子が、電卓片手にマックスに話しかけ、「2908×4673は?」みたいな問題を出すと、マックスは暗算で瞬時に解答する。電卓の計算結果と、マックスの暗算はもちろん、合一している。女の子との、こういったやり取りはマックスの日課らしい。マックスが数学の天才であるという事実を、映画の早い段階で紹介するのに、最も適しており且つ、分かりやすい方法だ。

それから色々あって(何があったかは割愛する)、ラストシーン。冒頭と同じように女の子がマックスに「756209÷9807は?」みたいな問題を出すと、マックスは答えられない。白黒の画面いっぱいに木々の葉っぱが空に揺れているシーンが映し出されて映画は終わる。このシーンは、マックスが見ている風景だ。数字に支配された脳から解放されたマックスが、身近な自然の美しさに気付く。天才的な能力を失った代わりに、身近にある平和で平穏な日々に戻ることを暗示しているような終わり方で、寂しくもあり哀しくもある、感傷的なラストだった。

ポアンカレ予想ペレルマンしかり、『π』のマックスしかり、数学の難問を解くということは、解いた瞬間に何か別の大切なものを失ってしまうのだろうか。誰も解き得なかった数学の真理を解明するということは、神の存在に近づくことと同義で、全ての問題を人類が解明した時、人類にとって神は不用となる。宇宙の始まりと終わり、空間の始まりと終わり、時間の始まりと終わり、人はなぜ存在するのか、という究極的な諸問題を、人間がシンプルな数式で表せるようになれば、神など必要なくなるからだ。どれだけ科学が進歩しても、そこだけは絶対に分からないという諦念が最初にあり、それでも取りあえずの説明を付ける為、神という便利なモノを持ち出すわけである。「神が世界を創った」と言えば、それ以上は考える必要はなく、一先ず解決するからだ(ここで言う神とは、宗教的な意味での神ではなく、ある概念のようなものだ)。しかし、天才数学者たちは、そんな説明に納得はしない。無謀にも神の存在に挑戦しようとする。宇宙の真理の一端を解明してしまうということは、その代償として、神の怒りに触れるということだ。多くの天才数学者たちが、晩年、極度に人嫌いになったり、或いは狂気に埋没してしまうのは、以上のような理由からではないだろうか。そして、それでも尚、数学者たちが難問に果敢に挑戦するのは、数学に神の罰以上の魔性の魅力があるからである。

と、何やら哲学的なことを書いてしまったが、映画自体はそんなに深い映画ではない。冒頭とラストシーンだけを紹介して、中身をがっぽり割愛したのは、肝心の中身が別にさほど重要ではないからだ。数字の魔力に取りつかれたマックスの精神世界を映像で表現しているだけで、内容に関しては映画評を書くほどのものでもない。斬新な映像とテクノミュージックで、小洒落た映画に仕上がっている。『トレインスポッティング』や『ラン・ローラ・ラン』が好きな人は、楽しめるかもしれない。二十代の頃はこの系統の映画も結構好きで、はまった時期もあったのだが、今は正直、食傷気味で観るのが疲れる。エフェクトを効かせまくった編集が、少し鼻についてしまうのだ。監督のダーレン・アロノフスキーは、この後、『レクイエム・フォー・ドリーム』『ブラックスワン』を撮るが、どちらも鑑賞当時は面白いと思ったが、同様の理由であまり再見したいとは思わない。

以上

 

π (字幕版)

π (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

42回目「パリ、テキサス」(ヴィム・ヴェンダース監督)

家族を捨て、行方不明になっていた男(トラヴィス)がテキサスの砂漠で倒れているのを発見される。連絡を受けた男の弟が、彼を迎えに行く。トラヴィスは、しばらく弟夫婦の家に世話になる。弟夫婦の家には、トラヴィスの実の息子(ハンター)がいた。弟夫婦は、身寄りがなくなったハンターを4年間、本来の親に代わって養育していたのである。

最初は気まずく、ぎこちなかった父と息子も、弟夫婦の家で共に生活をしていく内に親子の関係が修復され、打ち解けていく。やがてハンターは、父と同じく自分を捨てた母親(ジェーン)を、トラヴィスと共に探しに出かける。というお話。

パリ、テキサス』はロードムービーだ。劇中では二つの旅が描かれる。4年ぶりに再会したトラヴィスと弟が、テキサスから弟の自宅があるカリフォルニアに帰るまでが一つ目の旅。ヒューストンにいるとされるジェーンに会う為に、トラヴィスとハンターが、弟夫婦の家を出発するのが二つ目の旅だ。

自分は、この映画を過去に2回観ている。2回とも途中で睡魔に襲われ、鑑賞中に15分ほど寝てしまった。いずれも一つ目の旅の途中で寝てしまった。理由はおそらく、一度目の旅のシーンがあまりに緩慢でスローペースだったからだと思う。この時点では兄のトラヴィスは心を開いておらず、色々と事情を聞こうとする弟に対しても終始無言であるし、時折BGMとして流れるギターの音色も良い味を出しているのだが、映画全体の気怠さに拍車をかけている。道中のアンニュイな空気は、ロードムービーの良さの一つだが、味気ない砂漠の画面と、トラヴィスの無言、そしてギターの音色でついウトウトとしてしまったのだ。

しかし、過去2回の鑑賞で残っていた『パリ、テキサス』の印象は、意外にも「良い映画」というものだった。間の15分をいずれも寝ていたクセにである。その「良い映画」の印象を残して先日、3回目の鑑賞をしたのだが、自分がこの映画を何故良い映画と感じたのかは、ラスト近くのシーンに依るものだと判明した。

ヒューストンでジェーンの居場所を奇跡的に突き止めたトラヴィス。ジェーンは、覗き部屋のような店で働いていた。話し相手の欲しい男性が、マジックミラーを隔てた部屋の向こうにいる女性に受話器を介して話しかける、という店だ。女性の方から男性客の姿は見えない。風俗店ではないが、出会い系を連想させる、あまり健全ではない、そんな店だ。その店の個室で、客のフリをしたトラヴィスが、ジェーンと再会する。ここでようやく、トラヴィスが何故、家族を捨てて4年間も蒸発していたのか、その理由を目の前にいるジェーンに語るのだが、このシーンに自分はとても感動したのである。

ただ、自分が感動したのは、トラヴィスの口から説明される、行方不明になった理由ではない。正直、ここで交わされる元夫婦の会話、主にトラヴィスのセリフは説明的であり凡庸である。乱暴に纏めれば、自分よりも一回りも若い妻に嫉妬していた、という内容だ。それに加えて、アルコールに逃げるとか、仕事を辞めるとか、DVとか、ワイドショー的な内容が、説明的なセリフに乗って垂れ流される。普通、このような通俗的に過ぎる内容を、しかも説明的なセリフによって語れれる場合、アート好き・文学好きと自ら標榜している自分のような捻くれた人間は、軽蔑こそすれ、感動などしない。

では、このシーンのどこに自分は心を打たれたのだろうか。その最大の理由は、この会話が交わされている場所にあると思っている。男が性的な欲望と下心を携えて来る覗き部屋のような店。その個室で交わされる、元夫婦の会話。ジェーンからはトラヴィスの姿が見えない。だから、最初はトラヴィスを普通の客だと思っている。しかし、マジックミラーの向こうにいる男が語る言葉は、何故か自分の過去にシンクロする。そして、あるセリフを聞いた瞬間に、目の前にいる客が、自分の元夫のトラヴィスであると確信する。ずっと遠くにいて待ち焦がれていたものが、唐突に目の前にいると分かったときの喜びと、それでも、こちら側からは姿が確認できないもどかしさ。トラヴィスの方からは、無論、ジェーンの姿が見えているが、ジェーンの顔を直視するような事はしない。なぜか、後ろを向いて話す。正面を向いて話すことは、ジェーンを元妻ではなく、覗き部屋で働く娼婦として話すことになるから、戸惑いがあったのかもしれない。しかし、ジェーンがいる部屋の照明を消し、トラヴィスが自分の顔にライトを当てるとマジックミラーの効果が逆転する。ジェーンからトラヴィスの顔が見えるようになると、トラヴィスは、自分の顔がジェーンにもっと認識できるように、顔を近づけ、正面を向いて話す。語られる内容は通俗的であるのに、個室とマジックミラーという場所と小道具を上手く使って、お互いの繊細な感情の動きを表現する手法に、自分は感動したのだった。

一つだけ、不満がある。4年間、本当の親のようにハンターを育てた弟夫婦に対するフォローが全くない。そこがとても不憫に感じる。2時間以上ある映画なので、冒頭の冗漫なシーンを少し削って、弟夫婦のその後にもスポットを充てて欲しかった。

以上

 

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