松本雄貴のブログ

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43回目「π」(ダーレン・アロノフスキー監督)

数学の世界には、ミレニアム懸賞問題というものが7つある。証明すれば1億円もらえるらしい。ざっくり言うと、数学のめちゃくちゃ難しい未解決問題だ。文系の自分には、想像もつかない。興味のある人は「ミレニアム懸賞問題」でググってください。近年、7つのうちの一つ、「ポアンカレ予想」という問題が証明された。証明したのは、ロシアのグレゴリー・ペレルマンという数学者なのだが、この天才数学者は受賞も賞金も辞退し、以後、誰とも連絡を取らず、人目を避けるように母親と二人で静かに暮らしているらしい。

『π』の主人公、マックスも天才数学者だ。天才的な頭脳とコンピュータを使い、株式市場の予想をしている。冒頭、近所に住んでいる女の子が、電卓片手にマックスに話しかけ、「2908×4673は?」みたいな問題を出すと、マックスは暗算で瞬時に解答する。電卓の計算結果と、マックスの暗算はもちろん、合一している。女の子との、こういったやり取りはマックスの日課らしい。マックスが数学の天才であるという事実を、映画の早い段階で紹介するのに、最も適しており且つ、分かりやすい方法だ。

それから色々あって(何があったかは割愛する)、ラストシーン。冒頭と同じように女の子がマックスに「756209÷9807は?」みたいな問題を出すと、マックスは答えられない。白黒の画面いっぱいに木々の葉っぱが空に揺れているシーンが映し出されて映画は終わる。このシーンは、マックスが見ている風景だ。数字に支配された脳から解放されたマックスが、身近な自然の美しさに気付く。天才的な能力を失った代わりに、身近にある平和で平穏な日々に戻ることを暗示しているような終わり方で、寂しくもあり哀しくもある、感傷的なラストだった。

ポアンカレ予想ペレルマンしかり、『π』のマックスしかり、数学の難問を解くということは、解いた瞬間に何か別の大切なものを失ってしまうのだろうか。誰も解き得なかった数学の真理を解明するということは、神の存在に近づくことと同義で、全ての問題を人類が解明した時、人類にとって神は不用となる。宇宙の始まりと終わり、空間の始まりと終わり、時間の始まりと終わり、人はなぜ存在するのか、という究極的な諸問題を、人間がシンプルな数式で表せるようになれば、神など必要なくなるからだ。どれだけ科学が進歩しても、そこだけは絶対に分からないという諦念が最初にあり、それでも取りあえずの説明を付ける為、神という便利なモノを持ち出すわけである。「神が世界を創った」と言えば、それ以上は考える必要はなく、一先ず解決するからだ(ここで言う神とは、宗教的な意味での神ではなく、ある概念のようなものだ)。しかし、天才数学者たちは、そんな説明に納得はしない。無謀にも神の存在に挑戦しようとする。宇宙の真理の一端を解明してしまうということは、その代償として、神の怒りに触れるということだ。多くの天才数学者たちが、晩年、極度に人嫌いになったり、或いは狂気に埋没してしまうのは、以上のような理由からではないだろうか。そして、それでも尚、数学者たちが難問に果敢に挑戦するのは、数学に神の罰以上の魔性の魅力があるからである。

と、何やら哲学的なことを書いてしまったが、映画自体はそんなに深い映画ではない。冒頭とラストシーンだけを紹介して、中身をがっぽり割愛したのは、肝心の中身が別にさほど重要ではないからだ。数字の魔力に取りつかれたマックスの精神世界を映像で表現しているだけで、内容に関しては映画評を書くほどのものでもない。斬新な映像とテクノミュージックで、小洒落た映画に仕上がっている。『トレインスポッティング』や『ラン・ローラ・ラン』が好きな人は、楽しめるかもしれない。二十代の頃はこの系統の映画も結構好きで、はまった時期もあったのだが、今は正直、食傷気味で観るのが疲れる。エフェクトを効かせまくった編集が、少し鼻についてしまうのだ。監督のダーレン・アロノフスキーは、この後、『レクイエム・フォー・ドリーム』『ブラックスワン』を撮るが、どちらも鑑賞当時は面白いと思ったが、同様の理由であまり再見したいとは思わない。

以上

 

π (字幕版)

π (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video