松本雄貴のブログ

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46回目「銀河」(ルイス・ブニュエル監督)

ブログは最低でも月に3回は更新しようと思っている。だから、月末近くになっても2回しか更新できていなければ、けっこう焦る。別にノルマがあるわけでもないし、自分の人生においてブログを書く必要性など特にないのだが、毎度の如く「早く書かなければ」という焦燥感に駆られてしまう。どうも自分は、昔から変に責任感が強い。やらなければいけない重要な仕事は、できるだけサボろうとするクセに、やらなくてもいい事、やっても仕方のないこと、得にも損にもならない下らないことに関しては、必要以上に真面目になってしまう。厄介な性格だと我ながら思う。

そんなわけで、今回はブログを書くためにわざわざ、DVDを借りた。これまでの自分のブログは、たまたま見たり読んだりした映画や小説で、「これはブログに書こう」と思った作品を取り上げていたが、今回は順序が逆である。「ブログを書かなくてはいけない」という思いが先行し、「ブログが書きやすそう」な作品を敢えて選びに行った。本来の批評の意味から見ると、とても不埒で不純な動機である。

そのような動機で観たのがルイス・ブニュエルの『欲望のあいまいな対象』と『銀河』である。2本を立て続けに観て、どちらかでブログを書こうと決めていたのだが、未だにどちらで書こうか決めかねている。「ブログを書くため」という明確な目的を持って鑑賞したにも関わらず、どちらの映画もなかなか、感じたことが文章化しづらい。

どちらもそれなりに面白かったが、分かりやすい面白さでいえば『欲望のあいまいな対象』で、よく分からないけど、なんとなく面白いのは『銀河』である。

『銀河』は、とくに後半からが本当によくわからない。初老の男性と中年の男性、2人が聖地巡礼をしている。その過程で様々な変てこな人に出会うロードムービー。簡単に説明すればそんな映画だ。全体的にキリスト教を批判しているというのは分かる。いや、批判というよりも小馬鹿にして茶化している感じだ。そして、その茶化し方が少し巧妙だ。キリスト教を直接的に批判するのではなく、キリスト教を批判した人物が、次の瞬間に酷い目に遭う。結果的に、異端者や批判者に寛容でないキリスト教の本性があぶり出される。観た人は、キリスト教は懐の小さい宗教だと思ってしまう。そんな感じの茶化し方なのだ。学芸会で可愛らしい女の子に「神を信じない者には呪いあれ」とサラっと、しかも可愛らしく言わせたり、なかなかに性格の悪い映画だが、マリリン・マンソンのような直接的で下品な感じはなく、知的なユーモアを少し感じた。まあ、キリスト教に帰依している人にとっては、どちらも感じは悪いだろうから、観ない方がいいかもしれない。

『銀河』がよく分からないのは、現実の風景とおとぎ話的な寓話が混じりあっているからだろうと、今にして思う。セダン型の車が舗装された道路を走っている現実的な光景に、キリストやマリア様やサド侯爵が、いかにもおとぎ話のような衣装を着て登場する。デフォルメされた虚構が唐突に、当たり前のように出てくる。故に戸惑ってしまうのだが、同時に不思議な世界観に引き込まれてしまう。

とにかく、『銀河』はよく分からないのだけれど、感覚的に面白いと感じてしまう。この感覚はゴダールの『ウィークエンド』を観た時の感覚に似ている。自分は『ウィークエンド』の渋滞のシーンを見て、面白いと思ったが、それがなぜ面白いのかは上手く説明できない。多分に観る人のセンスによるものだろう。

余談だが、町田康が率いるバンド「汝、我が民にあらず」は、この『銀河』の中のセリフに由来する。

もう一つの映画『欲望のあいまいな対象』は、普通に面白いが、内容は谷崎潤一郎『痴人の愛』とほぼ一緒だ。自分は、過去にこのブログで『痴人の愛』を取り上げたことがあるので、気になった方はそちらを読んで頂ければいいと思う。もちろん、多少の相違点もある。『痴人の愛』の方が、主人公の男に同情できる。どちらも魔性の女にたぶらかされて破滅する馬鹿な男の話だが、『欲望のあいまいな対象』は、男にあまり同情できない。今の視点から見ると、『欲望のあいまいな対象』の主人公の言動は、単なるパワハラとセクハラだ。ひどい目にあって当然だろうと思ったのである。あまり深く考えずに観る分には、充分楽しめる映画だ。

不埒で不純な動機で書いた今回のブログだが、ルイス・ブニュエルという監督は、まさに不埒で不純な人だ。それだけに才気が溢れている。無理矢理こじつけたような結論だが、とりあえずこの辺で。

 

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