松本雄貴のブログ

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9回目「痴人の愛」(谷崎潤一郎:新潮文庫)

男は真面目で、知識・教養があり、年上で人生経験も豊富で、良い職に就き、安定した収入(かなりの高給)があり、自立している。基本的には常識人。
女は不真面目で、年下で、カフェの給仕以外の社会経験がなく、勉強もできない(英語の発音はとても上手いけれど文法はメチャクチャ)、しかし、性的魅力は天性ものがある。
そんな男女の結婚生活を、男の手記形式で書かれている。
女(ナオミ)の人物造形が秀逸だった。常識と良識を兼ね備えたフツーの男(若干、ロリコン、マゾヒストの素質があり、性的に倒錯してはいるが、常識の範囲内だ)が、女の性的魅力のみによって、いつの間にかイニシアティブが逆転し、精神的に支配されてしまう。女無しでは生きていけない身体になってしまう。その経緯を詳らかに書いている。
男性の読者ならば「こんな女に騙され、金銭を湯水のように費やしてしまうなんて、馬鹿だなぁ」と最初のうちは冷静につっこみながら読むだけの余裕があるだろうが、いつしか、抜けられない蟻地獄に落ちてしまったような感覚に陥ってしまって、少し怖くなるのではないだろうか。
ファム・ファタールとは「魔性の女」という意味で、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのアルバムにも同名の曲がある。余談だが、ファム・ファタールの次の曲が「毛皮のヴィーナス」という曲でマゾをテーマにしている。なんとなく興味深い。
痴人の愛」ではナオミという少女がファム・ファタールだ。
先に女(ナオミ)の人物造形が秀逸だと書いたが、どういうことか。簡単にいうと、ナオミが完璧な女ではない、ということだ。
魔性の女=完璧な女ではないのである。
意外かもしれないが、「完璧な女」は男からはそれほど支持されない。「完璧な妻」や「完璧な彼女」を欲しいとは、実はあまり思わないのだ。確かに、完璧な女は素晴らしいと思う。外面的には美人でスタイルがよい。ファッションセンスがある。外面以外では、例えば性格が優しくて包容力があって、上品で、常に男を立てて、料理が上手で手先が器用で笑顔が可愛くて頭が良くて言葉遣いが丁寧で、、、etcというような条件を全て満たした女が、ここでいう「完璧な女」のことだ。かなり主観的だが、便宜上、そのように定義する。
そんな女は現実にはいないし、男女の性差は関係なく、人間誰しも何かしらの欠陥はあるのだから、「完璧な女」の前提条件がまず成立しないのだが、完璧に近い人たちは、いっぱいいる。作中では女優の綺羅子が、それにあたるかもしれない。(綺羅子というネーミングがすこしギャグっぽい)
しかし、ナオミはそのような「完璧な女」からはものすごく離れた位置にいる。容姿とスタイルのみクリアしているが、その他の面では、むしろ平均以下の女である。下品だし、怠惰だし、料理なんてしないし、包容力も優しさもないし、ファッションも好きなだけでセンスが良いとはいえないし、性格も他人の容姿を「猿」などと言って平気で罵倒するくらい、酷い人間性だし、ヤリマンであることが後半露呈されて貞淑のテの字もない女なのだ。
ナオミをこのような「完璧な女」からものすごく遠い女に設定したことが、逆に、容姿とスタイルという性的魅力のみによって、男を手玉にとり支配する凄みが感じられた。
ナオミが綺羅子のような完璧に近い女だと、きっと男は屈服しないだろう。ナオミの「性的魅力」とそれ以外の「醜悪さ」のバランスが、とても良い案配で書かれていて、ナオミの「悪魔的魅力」に読者も納得させられるのだった。
もう少し「痴人の愛」を用いて現代のジェンダー論などにも触れてみたかったが、そのような筆力が俺にはないので、この辺で。