松本雄貴のブログ

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1回目「家族を想うとき」(ケン・ローチ監督)

失業中の夫が、妻と二人の子供を養うため、宅配ドライバーとして再スタートする物語。タイトルとドラマのあらすじだけを聞くと、いかにも、家族の絆を描いた心温める映画だと思うだろう。しかし、結論からいえば、この映画はそんな生易しい映画ではない。観終わった後に、なんともヘヴィーな気分に浸らせてくれる映画だ。

まず、夫の仕事は正規雇用ではなく、フランチャイズのオーナー。要するに頑張り次第では儲けられるが、上手くいかなければ全て自己責任。急な用事や体調不良でも、代わりが見つからなければ休むこともできず、それでも休むとその分の収入が無いばかりか、契約違反ということでペナルティを課せられる。

夫のドライバーとしての収入だけでは家計が足りないので、妻は訪問介護士をしている。当然ながら妻の仕事もかなりきつい労働で、おまけに薄給。交通費も自腹。彼女を頼っている被介護者は、夜でも彼女に電話を掛けてくる。しかし、妻は責任感の強い女性で、不平も不満も漏らさず、被介護者に優しく接している。

二人の子供は、高校生の息子と小学生の娘。

息子は反抗期で、よく父親に反発したり万引きをして補導されたり、色々と問題はあるが、しかし根底では家族のことを愛している。

娘は、明るく健気な女の子で、家族の事が大好きで、いつも兄や父のことを気遣っている。

典型的といえば典型的な家族だ。

冒頭の面接のシーンから、常に不穏な空気が流れている。その不穏な空気はこれから家族に起こるであろう困難・苦難を暗示している。観ている者は不安になってくる。さらに夫は「仕事に必要」と説得されてバンを購入し、妻との間で諍いが起こるのだが、この時に冒頭から観客が感じていた家族が体験するであろう困難・苦難への不安は確信へと変わる。

そこからは実際、家族に、とりわけ父に、理不尽ともいえる困難・苦難が続く。

観客が映画を安心して観ていられるのは、たとえ登場人物たちが苦境や逆境に立たされても、最後には努力とか友情とか幸運とか才能などで逆境を乗り越えると勝手に思っているからだ。安っぽいヒューマンドラマはいずれも、この手法で安易に困難を乗り越える。観客もそれを期待して観ているわけだから、不満を言う筋合いではないのだが、ケン・ローチが撮った「家族を想うとき」は、そんなセオリーは通用しない。半ば確信犯的にセオリーを無視している。非人間的に搾取される労働者を産み出す社会のシステムに対するケン・ローチの怒りが、やや滲み出過ぎている。だから、観ていて本当に辛い。前作の「わたしはダニエル・ブレイク」も辛い映画だったが、まだ最後に希望というか救いはあった。しかし「家族を想うとき」のラストは、恐らく希望ではない。家族の制止を振り切って車のアクセルを踏む父。その向かう先、その自暴自棄ともいえる表情には、希望などなく、今よりももっと過酷な困難だろう。

要するに困難・苦難に始まり、困難・苦難が続き、困難・苦難に終わり、そして映画が終わってからも、家族の困難・苦難は終わらないであろうこと示唆した映画なのだ。

そして最も辛いのは、理不尽な困難・苦難だけを淡々と描くのではなく、合間に思わず微笑んでしまうような心が温まる家族のエピソードを挿入しているところだ。

娘を助手席に乗せて一緒に配達をする父。配達先でチップを沢山もらって「わたし可愛いから」と喜ぶ娘。久しぶりに家族揃っての食事。その食卓で冗談を言って笑い合う家族。母が介護している家へ、父のバンを使いみんなでドライブする場面。

そんな何気なく微笑ましい、つかの間の幸せを描き、それを観ているとこちらまで幸せな気分になるのだが、ラストまで見終わった後、もう一度、その心温まる幸せなシーンを思い出すと、やはり、この幸せはひと時の事に過ぎなかったという痛切な悲しみに襲われるのだ。

これは、遠く離れたイギリスの映画だが、今の日本も同じような境遇の家族が多数いるに違いなく、社会の現状を考える意味でも是非見てほしい映画だった。