松本雄貴のブログ

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66回目「その男、凶暴につき」(北野武監督)

自分は「歩き方」にコンプレックスがある。どうも自分の歩き方は、他の人と比べると変なのだ。それを初めて自覚したのは、学生の頃だ。アルバイトの面接に行った時だった。面接が終ると、立ち上がって面接官に一礼する。そして向きを変えて部屋を出る。この一礼して部屋を出るまでの歩き方が、どうもぎこちない。面接官も自分のぎこちない歩き方を恐らく見ている。挙動不審な奴と思われていたかもしれない。以来、社会人になってからも何度か面接は経験したが、この面接が終って部屋を出るまでの「変な歩き方」は一向に改善できない。

法事の時も困る。自分にお焼香が回ってくるまでの時間が、なかなか苦痛だ。変な歩き方にならないように意識してしまい、余計、変になってしまう。線香の粉みたいなやつを摘まんで額の前に持っていき、器の中に振りかける、という一連の動作を2,3回した後、遺影に向かって一礼して自分の席に戻る。例によって、この戻る時の歩き方がとても変なのだ。いや、歩き方だけでなく、その前後の儀式を含めた一連の動作が変なのだ。こんな歩き方をされたら故人も浮かばれないと思う。

もし、内閣官房長官にでもなろうものなら、毎日が憂鬱だろうと思う。スタスタスタとポーカーフェイスで歩き、国旗に向って一礼し、何事もなかったかのように壇上に上がり、記者からの質問に答える。あんな芸当は自分にはできない。絶対、どこかの所作が不自然になる。或いは、全部が不自然になる。基本的に政治家なんて全員大嫌いで軽蔑しているけれど、そこだけは尊敬する。

結婚式の余興も辛い。過去に披露宴に出席した時、ビンゴゲームでビンゴになった。しかし、自分はビンゴの権利を放棄した。「ビンゴ!」と叫んで景品を取りに行き、司会の人に渡されたマイクで新郎新婦にちょっと気の利いた挨拶をし、景品を受け取って席に戻る。・・・想像しただけでも身の毛がよだつ。だから、ビンゴになっても周りに悟られないようにしていた。「リーチにはなるんだけどなぁ」なんて白々しい事を呟きながら。

それもこれも、全部、自分の変な歩き方に起因している。

一体、自分の歩き方は、どんな歩き方なのか。『その男、凶暴につき』の北野武とそっくりな歩き方なのだ。ガニ股でだらしなく、姿勢が斜めに傾いており、左右の肩の高さが違うので非常にバランスが悪い。中心に芯が通っておらずフニャフニャしているくせに、どこか傲岸不遜な感じ。「無様」という形容がぴったりの歩き方なのだ。歩き方が似ているという共通点しかないが、それ故に自分は『その男、凶暴につき』のあの男に親近感を抱いてしまうのだ。そして、そんな無様な歩き方しかできない男が、なんの躊躇もなく人を殴り、車で轢き、ナイフで刺し、拳銃で撃つ。「歩く」という最も基本的な動作すらできない男が、他人に暴力を振るう時は輝いて見える。暴力によって困難を解決していく様子が、痛快でありながら、同時に哀しかった。その哀しさの裏には、あの無様な歩き方があるのだ。

その男、凶暴につき』は、北野武の処女作にして最高傑作だという意見をよく聞く。それに異論はない。しかし、案外『その男、凶暴につき』が名作たりえるのは、「歩き方」が大きいのではないだろうか。