松本雄貴のブログ

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13回目「その街の今は」(柴崎友香:新潮文庫)

この小説は平成18年に書かれたらしい。つまり、今から12年ほど前に書かれた小説だ。舞台は現代の大阪で、現代人の女性が主人公だ。ここでいう「現代」とは、12年前のことをいう。要するに12年前の柴崎友香さんが、12年前の大阪を舞台に書いた小説だ。だから、日本の現代小説とはいっても、実際は12年前の作品なのだ。そんな当たり前のことを、なぜか強調したくなった。

例えば、50年前に書かれた50年前の日本を舞台にした小説は、50年前の読者からすれば、それは現代小説だろう。では同じ小説を12年後の38年前に読めば、読者はその小説を現代小説として読むだろうか。12年というのは微妙な期間だ。主観的な感覚だけれど、恐らくは、38年前の読者は、そこからさらに12年遡った50年前に書かれた小説も現代小説として読む気がする。(言い回しがややこしいが、簡潔に書くスキルが自分にはないのでご勘弁)
理由は、50年前の日本と38年前の日本の間に、そこまでの大きな隔たりがないからだ。自分は民俗学歴史学の専門家ではないので、事実は不明だが、50年前の日本も38年前の日本も、人々の生活や考え方、常識、行動様式など、概ね似ていたのではないだろうか。或いは、今の自分の年齢が35歳であり、産まれる前の世界は想像できないので、50年前も38年前も「だいたい同じ」という感覚なってしまうのかもしれない。
つまり、1970年に書かれた小説は、1970年に読んでも、12年後の1982年に読んでも、その時点では「現代小説」である。
では、2020年の今を生きる人が、50年前~38年前に書かれた50年前~38年前の日本が舞台の小説を読むと、どうだろうか。それは現代小説を読んでいるということにはならないだろう。例えば1967年に書かれた大江健三郎の「万延元年のフットボール」は、現代小説ではない気がする。名称を付けるなら、「昭和の文学」を読んでいるということになるのではないか。
で、柴崎友香さんの「その街の今は」である。
今から12年前に書かれたこの小説は、果たして現代小説なのだろうか。90年代以前の12年間と2000年以降の12年間。期間は同じでも、様相は全然違う。とりわけ2000年以降の期間は、何もかもが目まぐるしく変わった。そして、その変化のスピードは、今なお加速度的に速くなっている。次々に情報がアップデートされ消費されていく。今日の流行が明日には時代遅れとされる世の中になってしまった。昭和の文学の時代にはなかった、ガラケーのメールが「その街の今は」では登場人物たちを繋ぐ重要な役割を果たしている。けれども、そこから12年後の2020年、ガラケーのメールは現実にはもう殆ど使われていない。スマホとLINEにとって代わられたからだ。合コンで知り合った男女は、メールアドレスではなくてグループラインで連絡を取り合うのだ。さらに10年後は、もっと別の伝達ツールが使われているかもしれないが、想像すらできない。
だから、こんな現代に現代小説を書くのは無謀なのかもしれない。作家は、いつの時代の誰が読んでも楽しめる普遍性を、自分が書く作品に持たせたいと多少考えるが、今の時代に、なかなかそれは難しい。たかだか12年の歳月で、もう「古さ」を感じさせてしまう。「その街の今は」も例外ではなく、2020年の今の視点から見ると、やはり古さはある。
では「その街の今は」は現代小説としては失敗作なのだろうか、というと決してそうではない。
主人公の歌ちゃんは、昔の大阪の街の写真を集めており、過去の大阪の景色を懐かしむ。知的で少し変わった趣味を持つ女性だが、読者はそんな過去を懐かしむ女性を、さらに過去の話として読む。12年前の主人公の女性。その女性は、さらに過去の大阪に思いを馳せる。現代小説の書きにくさを逆手にとって、メタ小説的な錯覚と快感を与えてくれる小説なのだ。
その他にもいくつか魅力がある。
他の現代小説にはない、不思議な余韻があるのだ。
なんでもない風を装っているが、緻密に計算された書き方をされていて、なおかつ、作為性を感じさせない。その魅力の正体は川上弘美さんが巻末で解説されているので、そちらを参考にしてもらいたい。

以上。