松本雄貴のブログ

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7回目「コンビニ人間」(村田沙耶香:文春文庫)

現在進行形で活躍されている現代作家の小説は、ほとんど読まない。別に読まないと決めているわけではないが、あまり食指が動かない。現代作家の書く小説は、活字離れが著しい現代において、どこか「読みやすさ」「わかりやすさ」のみに重点が置かれているように思える。また、表面上は難解な風を装っているが、中身はスカスカな小説が殆どであるような気もする。自分は「不可解な事」「わかりにくい事」に魅力を感じる捻くれた性癖の人間なので、現代作家の書いた現代小説は敬遠してきた(学生時代からのファンである町田康は例外)
しかし、読まず嫌いなだけで「現代小説=わかりやすい小説」と一括りにするのは愚の骨頂だ。また、読んでみると新たな発見があるかもしれない。
という事で現代作家が書いた「コンビニ人間」という小説を読んでみたのだ。
いかにも現代風なタイトルである。作者の村田沙耶香さんは、この小説で2016年に芥川賞を受賞されたらしい。作者の生年月日と受賞年から計算すると、30代の頃に書かれた小説だ。つまり、現代小説の中でも「最近」の部類に入るだろう。
30代後半になっても就職も結婚もしない女性が、コンビニでバイトをしている時間にのみ「自分の存在意義」というものを感じる。簡単に言えば、そんな内容。
ご多聞に漏れず読みやすく、分かりやすかった。「読みやすく、分かりやすい」ということを揶揄しているのではない。「読みやすい文章」「分かりやすい文章」を書くというのは、案外難しい。さらに、赤の他人である一般の読者を小説の世界に引き込み、熱中させるには「読みやすい」「分かりやすい」だけではないプラスアルファの技術が必要だ。「コンビニ人間」は平易な文章の中に、明晰な批評性が光る。そして、文章にセンスを感じる。「コンビニエンスストアは音で満ちている」という冒頭の文章が、何気ないようでいて、見事にコンビニという場所の性質を言い当てている。確かに、コンビニ店内というのは特異な空間だ。レジの音や自動ドアの開閉音、また、作中にもあるがペットボトルの飲料を取った際に、奥の飲料が動いてカラカラと鳴る音、こういった音は、いかにも無機質で味気ない。一方、店内に流れている有線は流行りのポップスで明るく楽しい音楽だ。さらに、生きた人間から出る血が通っているはずの店員の肉声は、実は、マニュアル化され、きわめて記号化された音であり、そこに発語者としての個性はない。そう考えると、肉声であるにも関わらず、レジの機械音以上に味気ない音である気もする。それら、多種多様な音が混ざり合ってコンビニの空間を形成している。冒頭の文章は、読み手にそこまでの想像を巡らせるだけの力があり、これから、このコンビニでどのようなことが起こるのかという、読者の期待を牽引する。
また、実際に作者にコンビニバイトの経験があるのかは分からないが、ディテールの描写が緻密だ。同僚の喋り方が無意識に伝染したり、主人公がバイトしている期間に店長が8人辞めたり、などといった描写がなかなかリアルで面白い。
しかし、不満もある。
つまるところ、この小説は「普通の人間」と「普通じゃない人間」の対比が軸になっているのだが、対比の仕方が、小手先のように思う。
「普通じゃない人間」とは主人公と中盤に登場する白羽という男の2人であり、「普通の人間」はそれ以外の同僚や家族といった人たちだ。
登場人物全てが「普通」の人間で言動も性格も全てが「普通」であれば物語は成立しにくい。ストーリーに緩急をつけるためには「普通じゃない」人間を登場させ「普通じゃない」行動をとらせるのが、一番手っ取り早く、かつオーソドックスな手法だ。いわば、小説書きの定石のようなものだろう。主人公が「普通じゃない」人間なら、なお良い。「平常」と「異常」のコントラストを際だたせて、「異常」の方に読者の共感を得られれば、ひとまずその小説は佳作にはなるだろう。太宰の「人間失格」なんてものは、その最たるものだと思う。「コンビニ人間」もその種の小説だ。
しかし、「コンビニ人間」は主人公を「普通じゃない人間」として描こうとする作者の意図がやや強引に出すぎていて、しかも空回りしている。例えば、次のような描写がある。
主人公が子供の頃、友人達たちと公園で遊んでいると、小鳥の死骸を発見する。他の友達は、その死骸を見て「かわいそう」と言って泣き出す。しかし、主人公は、小鳥の死骸を見ても何も動じず、手にとって親の元に行き「これ食べよう」と言う。母親は困惑し、他の親は怪訝そうな顔をする。「死んだ小鳥はお墓に埋めてあげないといけない」と諭す親たちに対して、主人公は「お父さん、焼き鳥好きだから持って帰って食べよう」などと言いだす。
以上のようなシーンがあるのだが、自分はこのシーンが不満だ。
作者は「小鳥の死骸を見て悲しむ子供」及び「お墓を掘って埋めるように諭す大人」が普通の感覚を持った普通の人間で、「小鳥の死骸を見て食べようなどと突拍子もない事を言いだす主人公」は普通ではない異常な人間、とすることにより、「普通」と「普通じゃない」の対比を上手く描いたつもりなのだろうが、自分は、そうは思わなかった。
小鳥の死骸を見て「食べたい」と言いだす子供なんて、結構いるだろう。確かに健全な発想とは言い難いが、さして異常な発想ではなく、むしろ子供らしい素直な感覚に思う。さらに、それを聞いて絶句する親というのも、どうだろうか。この程度の事で、普通の(ここで普通という言葉を使うとややこしいが)親は絶句などしないし、「バカな事いうな」と言って叱るか、子供らしい冗談と言って笑いさえするだろう。
要するに、この程度のエピソードで「正常」と「異常」を対比させようとしたところに、作者の油断を感じるのだ。きつい言い方かもしれないが、読者を舐めているようにも感じた。小手先の描写で欺けるほど、読者は馬鹿ではない。もう少し練ってほしかった。
ついでに言うと、「正常」と「異常」或いは、「普通」と「普通じゃない」の対比だけで物語を紡いでいく作品に、自分は不満を感じる。その手法がいかに手垢のついた手法であるかを自覚してほしい。
そもそも「正常」と「異常」の2種類で分けられるくらい人間は簡単ではない。「正常」と「異常」が複雑に絡まり混ざり合っているのが人間なのだ。だから、人間を描くことは難しいのだ。
その上で「異常」を描くならば、本当に読者が愕然とするくらいの「異常」を描いてほしいものだ。
と、不満を漏らしたが、面白い小説であることに変わりはない(フォローしているわけではありません、念のため)